部誌未収録作品

漆黒の夜

 きな臭い空気が漂っていた先ほどの夜、私は夜道を歩いていた。なんのことはない、塾の帰りに街灯の灯った家路を歩いていただけである。そこで私は、ふと歩を止めた。通学用のリュックサック越しに、何かついてきている気配を感じたからである。折から故障していた街灯は背後50メートルの薄明るい道を漆黒の闇で切り取っている。きな臭い空気はじめじめと香って、午後九時を過ぎているというのに空は若干赤いような微妙な暗さだった。

「そ………ほ…………」

 ザラザラというチューニングの合わないラジオのような音とともに、何者かが何か喋っているのが聞こえた。これはラジオの音だ。そう信じたかった。だが、できなかった。傘を剣のように構え、おそるおそる振り返る。

「……」

 私の背後にはただ漆黒の闇が広がっているだけだった。

「そ…は…ほん……か」

 ノイズのような音の向こうから、さっきよりはっきりと声が聞こえる。私は傘を構えたまま少し耳を澄ませた。

「先程から申し上げている通り、本当ですよ。あーそこの人、頭下げてくださいね」

 突如として前方からはっきりとした声が聞こえてくる。突然のことに戸惑っていると、目の前の空間から細長い紙切れが飛んできた。背後で風が起こり、きな臭い空気は霧散するように消えていく。私が後ろを振り返ると見慣れた夜の風景らしきものが見えた。そして正面を向き直ると、同年代くらいの青年が立っていた。

「あなた、危ないじゃないですか」

 彼はそう言って私に少し厳しい目を向ける。なんのことやら分からずぼうっとしていると、彼は呆れ顔になって紙切れを二枚取り出した。

「少し場所を変えましょうか」

 彼がそう言って紙切れを指で挟み、ふっと息を吹きかけると私の周りの景色がストップモーションのように変化しながら遠ざかっていく。そして周りがぼんやりと蒼白い光に包まれたところで、彼は話を再開した。

「あなた、準備も何もなしに戦場に突っ込んできちゃ駄目ですよ」

 彼は訳の分からぬことを言って、ノートのようなものをペラペラとめくり始める。

「……何の話ですか?」

 質問すると、彼はボソリと言った。

「あなたがはるか昔は知っていた、怪異その他に対応する際の鉄則です。最近は物騒ですし、あなたほどの力があるなら襲われやすくもなりますから思い出してくださいね」

 私は彼が何を言いたいのか、全く分からなかった。何が起きているのかわからない。

「ちんぷんかんぷんなので説明してください」

 そう言うと、彼は急にかしこまって話し始めた。

「かつて夜という言葉の意味は違いました。夜は元々怪異との交流を指す言葉です。しかし人は怪異と争いを始め、夜の言霊は人を傷つけるようになりました。そして人は夜の意味を変え、私たちのような人神とは隔絶した世界に住むようになりました。しかし人の中に残った神はそれを良しとせず、人は怪異と再び接触するようになりつつあります。あなたは神の血が濃いのでそれが早かったのでしょう」

 何かを思い出した。私は自分の置かれた状況を、そして自分がなんであったかを理解した。なぜ理解できるかわからないが、私は少しずつ理解を進めた。私は、かつて別の場所からこの世界にやってきたのだ。

「なるほど」

 私が納得していると、彼はうなずいて紙の束を私に手渡した。

「汎用の御札です。護身用に持ってください。怪異に出会ったときはこれを使って撃退してください。怪異に向けて息をかければ自動で追いかけて撃破してくれるはずです。それから、その傘を大切にしてください」

「傘……?」

 私が訊ねると、彼は答える。

「神……というかあなたの力を宿したビニール傘ですから、なにかの役には立つでしょう」

「わかりました。それで、あなたの名前は……」

 彼は私の前で指を一本立てて唇に当てた。

「名乗るなら仮の名で。私は札神主と申します。あなたも私に名前を告げず、このまま家に帰ってください。まだ怪異がいるかもしれませんので」

 私はこうして夜を抜け、家に帰ってきたのだった。彼が出す案内が届くまでは待っていればいいだろう。私はそんなことを思いながら御札を机の引き出しにしまって、不思議な記憶を整理した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る