Epilogue

 長い螺旋らせん階段を、ふたり並んで上がっていく。一筋の光もない暗闇の中、ハイドの心臓を懐中電燈の代わりにして。

 錆びた昇降機が、かしいだまま止まっている。破られた昇降口の非常扉の先には、無人の街が、どこまでも広がっている。扉の枠を額縁に見立てれば、一枚の静物画のように見えるだろう。砕けた電燈。倒れたドラム缶。割れた窓硝子に、ほこりの積もった家具。かびむしばまれたカーテン。その向こうには、奇妙に白いままの食器類。放棄された階層の成れの果て。その中を、ひたすらに歩いていく。進んでいく。ハイドの爪痕を道標みちしるべに、足跡を逆に辿って。破壊された天井と隔壁の穴は、地上へと導く出口だと、信じて。

 どれくらい歩いただろう。静かだった。地下水のしたたる音と、ふたりの足音だけが、不規則に響いていた。

「タカナミ、あそこに、何かある……」

 イソラが、ふと足を止めた。螺旋階段の上方、大きく走った亀裂の縁に、それはあった。

 ハイドの心臓を掲げ、照らしてみる。青白い光に、あえかな色彩が浮かび上がる。

 艶やかな薄紅と、鮮やかな緑。イソラの手に包めるくらいの、小さく、可憐な。

「……花、か……?」

 タカナミが茫然と呟く。イソラは、きょとんと首を傾げる。

「はな……?」

「いや、俺も、聞きかじっただけだが……」

 そういうものがあるのだという、単語だけなら、知っていた。だが、実物を見たことはなかった。花なんて、公社の人間でも滅多に目にすることはできない。薬どころか食用にもならない鑑賞用の植物など、公社の管理する野菜工場の特別区画で、ごく一部の富裕層向けに栽培されるのみだ。間違っても、こんな場所に咲いているはずがない。

「……風……?」

 ふわりと、頬に暖かい空気の流れを感じた。思わず頬に手をって、撫でる。

 よく見ると、花も、僅かに、揺れている。

「どうして……ここは、もうずっと昔に給電が停止されて……送風機なんて、動いていないのに」

 ふたり、食い入るように、上を見つめる。

「地上が……近いのか……」

 行こう。タカナミがイソラの手を取った。頷いて、イソラもその手を握り返した。

 光はまだ見えなかった。行く先は闇に覆われたままだった。それでも、イソラは想像する。その蓋の向こうに広がる空を、タカナミが教えてくれた空を、想像する。

 地上に辿り着いたとき、空は、どんな色をしているだろう。刻々と表情を変えるという空は、どんな面持ちで、自分たちを迎えるだろう。

 たとえ、毒に汚染された、死の大地でも。

 ハイドがうごめく、機械の都市でも。

 あるいは、清浄化された、無人の原野でも。

 結び合ったタカナミの手に、そっと力を込めて、イソラは、空の色を想像する。

 タカナミの瞳の色だったら良いなと思う。どこまでも透き通った、青。それを、自分の瞳いっぱいに、映せたなら……きっと、私は、微笑むだろう。微笑むことが、できるだろう。タカナミに宛てて。きっと。やっと。この心の、全てを使って。


 私の名前は、惟空いそら

 それは、空をおもうという意味。


 ここで生きている、心の名前だ。

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匣ノ街 ソラノリル @frosty_wing

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