8

 夕方になって、急に本部に呼び出された。テロメリアの追加投与のために駐屯地へおもむくところだったシキナミは、眉をひそめながら本部の扉を叩いた。

「どういうこと……ですか……」

 告げられた言葉を、シキナミは理解することができなかった。理解することを、頭が、全身が、拒んでいた。

「有用な研究は、広く共有されるべきだ」

 半楕円型のテーブルの上席に腰掛けた初老の男が、ゆったりと肘をつき、顎の下で指を組む。

「テロメリアの有用性は、なにも、ジキルに限ったものではない。それは、きみが最初に言ったことだろう、シキナミ君」

「抗老化作用に着目した、上流階級向けの美容分野に、組織の再生作用に着目した、中流階級以上向けの医療分野……きみの研究成果を苗床に、様々な研究者たちが、花を咲かせていくだろう。それが科学の発展というものだ。優秀な研究者は、きみだけではないのだからね」

「もちろん、第四階層から第六階層までを対象とした大規模スクリーニングも実施する。ジキルとなり得る人材を、早急に発掘し、確保しなければならない。感染症の抗体検査だとでも言えば、簡単に実施できるだろう。治安維持部隊の候補生に、試験的に実施したときのようにな」

 上層部のテーブルに並ぶ人間たちが、口々に、シキナミに告げていく。

 こいつらは何を言っているんだ? シキナミは、信じられないものを見るように、彼らを眺めた。

「最初にタカナミが適合したとき……私は、医療分野で、研究費の追加を申請した。それを、棄却して……適合者をジキルとして投入するのでなければ追加の研究費は出さないと、言ったのは、あなた方ではないですか……。候補生に対するスクリーニングも、私に何の了承もなく行われた。第一、実施するなら、正しい情報の提供と真実の公表、それに基づく承諾を得るべきです。それに、なぜ、対象者が、第六階層までなのですか。それでは、あまりにも――」

「不平等だとでも、言うつもりか? シキナミ君」

 シキナミの言葉が遮られる。老人が若者を見下すときの冷笑が、あちこちから漏れた。

「まったく、近頃の若造は、よく喋る」

「差をつけずして、何のための階級だ? それこそ、不平等ではないか」

「シキナミ君、きみは元々、第五階層の生まれだね。特待生制度を利用して、ここまで成り上がったようだが、我々、生粋の上流に対して、分をわきまえるべきだとは、思わないかね」

 話は以上だ、と最奥の老人が右手を上げた。それを合図に、扉の両脇に控えていた警備員が、シキナミの前に立つ。無言の命令だった。



 どうやって研究室まで戻ったのか、よく憶えていない。ももに冷たく硬い床の感触。扉を背に、自分は今、座り込んでいるのか。隣の実験室の物音が、遠く聞こえた。

 これは罰なのだろうか。一瞬でも、自分をゆるそうとした、罰、なのだろうか。

「……守れなかった…………タカナミも……テロメリアも……私は…………」

 こぼれた声は雫のようだった。ただ冷たい床に落ちて、消えた。掬うことも、掬われることもなく。



◇  ◇  ◇



「遅いね」

 何かあったのかな、と、テーブルに頬杖をつきながら、トキワが呟いた。

 到着予定時刻を過ぎても、シキナミから駐屯地に連絡のひとつもない。

「僕らの投与日って、今日で合ってるよね?」

「はい……」

 イソラは昇降機を見遣った。けれど、それは全く動く気配がない。

 とりあえず見張りの交代だ、とトキワが腰を上げる。うなずいて、イソラが双眼鏡を手渡そうとしたときだった。

 低く重い轟音と共に、足もとが、ぐらりと揺れた。咄嗟とっさに椅子に掴まって転倒を防ぐ。

「何だ?」

「どうした?」

「上層の崩落か?」

「いや、音は下の方から響いたぞ」

 隊員たちの声が飛び交う。

「一体、何が……」

 トキワの途惑とまどう声が、鳴り響く電話の音に掻き消された。

 受話器を耳に押し当てるトキワの表情が、みるみるうちに凍りつく。

「何が、起こったの……?」

 尋ねたイソラに、トキワは呆然と、電話で告げられたまま答えた。

「第一発電区の……四号機が、爆発した」

 第一発電区は、公社のある街区のすぐ隣だ。

「ここへの給電は別系統だから、停電はまぬがれているみたいだけど……街の人たちが、大勢、上層に……こっちに向かって、逃げて来てる。流れ込んでくる」

 タカナミは……?

 イソラは立ち尽くす。タカナミは、今、開発棟の治療室だ。

「まずいぞ! 来てくれ!」

 隊員の張りつめた声が、イソラの背中を叩く。取り落とした双眼鏡を拾い上げ、窓から身を乗り出して外を確かめて――

 イソラは、絶望の姿を見た。





 うねる配管の走る暗い天井裏を、半ば手探りで、タカナミは歩いていく。ハイドとの戦いに備えて頭に叩き込んでいた天井裏の設計図が、こんなかたちで役に立つとは思わなかった。……役立てたくなど、なかった。街路は通れなかった。逃げ惑う人々で埋め尽くされていた。昇降機にすがる何人もが、漏れて、落下していった。

「……どうして私を、探しに来たりなんか、したの?」

 あなたひとりなら、もっと簡単に逃げられたはずなのに。

「ばか。おまえを放ってなんか、行けるか」

 舌打ちして、タカナミはシキナミを背負い直す。シキナミは微かに笑った。

「後世には、なんて言われるんだろうね。公社は、なんて言い訳するんだろうね。そもそも、公社の人間が、どれだけ生き残るのかもあやしいけど。大方、ハイドの心臓の扱いを、誤ったんだろうね」

 ねぇ、タカナミ。

「ここで良いよ」

「俺は良くない」

「タカナミ」

「断る」

「タカナミ」

「いやだ」

「タカナミ」

 お願いだ。

 タカナミの肩に回されたシキナミの腕に、力がこもる。

「あなたも分かっているはず。私が、あの毒の粒子を含んだ水蒸気を、全身に浴びていること。これから私の体に何が起こるのか、分からないほど無知じゃないよ」

 これでも科学者の端くれだからね、とシキナミは自嘲気味に呟いた。

「それでも、俺は――」

「私が見せたくないんだ。ここから先の、私の姿を、あなたに見てほしくない」

 懇願だった。タカナミは足を止めた。太い配管の影にシキナミを降ろして、もたれ掛けさせる。ありがとう、というシキナミのささやきが耳をかすめた。

「ついでで、申し訳ないんだけど」

 わざと明るい声音で、シキナミは白衣のポケットから、薄いジュラルミンケースを取り出した。注射器とテロメリアを収めたものだった。

「今日、あの子たち、投与日だったんだ。私は行けなくなったから、もし会えたら、これを……」

「……もうひとつ、持ってるだろ」

 貸せ、とタカナミは言った。感情をおさえた声だった。けれど、そこには、確かな意志が宿っていた。だから、シキナミも、手を握りしめて、首を横に振る。

「これは私のだ。あげないよ」

「誰も、くれなんて言ってない。貸せって言ったんだ」

 タカナミの声が、僅かに震えた。ひとりでなんか、やるな。結末を変えられないのなら、せめて背負わせろ。

くなら、俺の腕の中で逝ってくれ」

 おまえがくれた、この腕の中で。

「どんな殺し文句だよ、それ」

 シキナミは笑った。手を伸ばす。そっと、タカナミを抱きしめる。

 ねぇ、タカナミ。これは罪なんかじゃないよ。私の望み、ただそれだけだ。罪だなんて言う奴がいたら、私がそいつの頬を叩いてやるよ。あなたの両腕を縛ろうとする罰があるなら、私がそれを切ってやるよ。あなたの両腕は、私の望みを抱えて、あなたの両手は、願いを結んでいくんだよ。

 未来を、編んでいくんだよ。

 天井の割れ目から射し込む僅かな明かりを取り込んで、硝子の向こうでゆらめく、琥珀色の光。綺麗だ……とシキナミは目を細める。兄に生を、自分に死を、与えるもの。もし、自分たちが、二卵性じゃなく、一卵性の双子だったなら、ふたりとも、生きていけただろうか。手を繋いで、一緒に歩いていけただろうか。空の下へ。

 抱きしめるタカナミの腕は、温かかった。すらりとした指先が、シキナミの首を流れる髪を上げる。タカナミの背中に回した腕から、シキナミは、そっと力を解く。静かに、瞼を下ろして、ささやく。ありがとうと、おやすみの代わりに。

「さよなら、兄さん」





 隔壁に、大きな亀裂が走っていた。ハイドはさとい。脆くなった部分を、集中的に狙う。鉤爪かぎづめえぐられ、ひびが広がる。鋼の腕で砕かれていく。崩れ落ちた隔壁の破片を踏み、ハイドが後から、あとから、入ってくる。

 振り下ろされた五体目のハイドの爪を、ナイフではじく。散る火花。飛び退すさって、距離を取り、イソラは舌打ちしてナイフを交換する。

「……きりがない」

 捕捉班は全滅していた。この周囲だけで、まだ四体はいる。街路の先でトキワが対峙している分を合わせると、倍くらいになるだろう。

 せめて、時間を稼ぐことができれば。

 イソラは決断する。簡単な演算のように、何の逡巡しゅんじゅんもなく。きっと、これが、最善の選択だと。

「トキワ、聴いて」

 ハイドの腕をくぐり、身をひるがえしてトキワと合流する。

「何?」

 視線はハイドを睨んだまま、背中合わせにナイフを構える。

「私が、ここを引き受けます。あなたは、次の隔壁まで走って、ここを封鎖してください」

「なんだって⁉」

 トキワの声が裏返る。

「それじゃあ、きみが――」

「あなたには、帰るべき場所があります」

 トキワの言葉を、イソラは遮った。迷わないように。

 ハイドは、まだ動かなかった。じりじりと、こちらの様子をうかがっているようだった。

「トキワ、私は……」

 ハイドの爪を、牙を、ひたと見据えたまま、イソラは抑えた声で、言葉を続ける。

「私は、今まで、沢山の人を殺してきました。きっと、誰かの大切な人も、奪ってきました。トキワ、いつか、あなたは言いました。もうすぐ誕生日だと……あなたには、生まれたことを祝ってもらえる日がある。祝ってくれる人たちがいる。私は、あなたを失わせたくない。この体、全部使って、守ってみせる」

 失わせない。私が、奪わせない。

「行って、トキワ」

 あなたには、生きて守るべき人たちがいる。

 床を蹴る。ハイドの群れの中に、イソラは飛び込んでいく。

 ひとりで仕留めきれる数ではなくても、足止めするだけなら、不可能じゃない。トキワが扉に辿り着くまで、どれだけ時間を稼げるか、それを考えれば良い。

 身を屈める。狙うのは脚のケーブル。切断して、離脱。次のハイドへ飛び掛かる。いつか事務所に命じられた、生け捕りの仕事をこなしたときのことを、思い出した。同じ要領だ。ただ相手が、人でないだけで。

(タカナミ、私は……)

 ナイフを振るいながら、思う。

 いくらだって戦えた。何だって戦えた。戦うことは得意だ。だって、ずっと戦ってきたから。ナイフがなくても、銃がなくても……体ひとつで、相手の喉を、食い破ってでも。

 自分を守るために、死なないために、戦い続けた。

 それでも、ずっと痛かった。怖いって、いやだって、泣き叫ぶ心は、麻酔を叩きつけて黙らせた。いっそ、ハイドになれたら良かった。命令通りに体を操縦し続けられる、機械になってしまいたかった。笑うことも泣くことも、何も感じずにいられたなら……それでも、麻痺させきれなかった心の部分に、触れたのは、タカナミ。いつか、あの光の部屋で、わっと涙があふれた理由が、今なら分かる。

 痛い、とか、辛い、とか、悲しい、とか、冷たい、とか……そういうものに対する抗体なら、有り余るほど持っていた。けれど、優しさや、温かさに対する免疫は、限りなくゼロに近かった。だから、ほんの少し触れられただけで、どうして良いか、分からなくなった。知らないから。知らなかったから。自分の世界に、存在しないものだったから。本当に? 違うだろう。違っただろう。生まれなかっただけで、育めなかっただけで、存在は、ずっと、ずっと……信じてみたかっただろう。感じてみたかっただろう。本当は、ほんとうは……そうでなければ、始まりの日、手を伸ばしたりなんてしなかった。生かされることを望んだりなんてしなかった。差し出された温かさに、注がれた優しさに、泣くことだって、絶対になかった。だから……きっと、あの涙は、心そのものだった。誰かの腕を、掌を、人の熱を、求め続けていた、求めることを捨てきれなかった……機械になりきれなかった、私の心の、産声だった。私は……イソラは、あの日に生まれたんだ。

 影の中、ひらめく光。身を伏せる。頭の上で、牙が咬み合わさる鋭い音が響く。首のすぐ傍を爪がかすめ、避け損ねた黒髪の先が、ぱっと影の下に散る。

 配管に足を掛け、体を反転させて後退し、イソラは軽く咳き込んだ。

(息が……苦しい……)

 さっきから、腕が重い。脚が軋む。体を、上手く動かせない。

 テロメリアの離脱症状……? シキナミの言葉が頭をぎる。

 真横からハイドの腕。ぎりぎりのところでかわせた。けれど、背中は壁。着地した途端、頭上に、すっと影が差した。ハイドが二体。罠だった。待ち構えられていた。群れをなす獣の狩りの仕方だった。

 獲物を咬み殺す顎が開く。さびひとつない鋼の牙が鋭く光る。

 イソラは目を閉じなかった。静かに見据えて、ナイフを両手に握り直して構える。震えることなく。逃げることなく。

 トキワは扉に着いただろうか。

 タカナミは、シキナミは、無事だろうか。

 確かめられないまま、願うことしかできないけれど。

 さいごまで、抗うから。

 戦うから。

 たとえ頭を咬み砕かれる刹那でも、引き換えにこのハイドの心臓だけでも奪ってみせる。

 だから、どうか、無事で――


「イソラ」


 声が響いた。ここにないはずの声。胸の奥底に抑え込んだ、望み続けた声。

 ハイドの懐に飛び込もうとしたイソラの足が止まる。

「……タカナミ……?」

 ひらりと舞う影。牙をいていたハイドの頭が、がくんと折れた。首のケーブルが断たれている。続いて、もう一体。くずおれるハイドの背中から、長身痩躯そうくの影が、軽やかに、イソラのもとへ跳躍する。

「掴まってろ」

 華奢だけれどかっしりとした力強い腕が、いつかと同じ、温かな腕が、イソラを抱え上げる。反転する視界。壁を伝う配管を足掛かりに、群がるハイドを飛び越える。

 タカナミの腕の中で、タカナミのジャケットを、イソラは確かめるように握った。信じられなかった。人が死ぬ前に見るという、都合の良い幻覚ではないかとさえ思った。でも違った。まぼろしなどではなかった。

 自分を包む温もりも、服越しに伝わる胸の音も、今ここに、確かにある。イソラを助けて、守って、名前を呼んで。

「……タカナミ……」

 声が震えた。ジャケットを握る手に、ぎゅっと力を込めて、目を閉じて、イソラは少しだけ……ほんの少しだけ、タカナミの胸に、顔をうずめた。

 ひとつ先の街路に難なく着地したところで、イソラは、ふわりと降ろされた。

「交代だ。ここからは、俺が奴らを食い止める。そのあいだに、おまえは走って、隔壁の扉をくぐれ。今なら、まだ間に合う」

 トキワと会えたのだろう、タカナミの腰には、トキワがたずさえていた予備のナイフホルダーがあった。

「これを持っていけ」

 ジャケットのポケットから、タカナミはおもむろに何かを取り出した。イソラも良く知る、小さく薄いジュラルミンケース。イソラはタカナミを見上げる。タカナミが、これを持っているということは。

「あいつが守った……最後のテロメリアだ」

 静かに、どこまでも静かに、言葉は落ちた。

「……タカナミは、どうするのですか」

「言っただろ。ここでハイドを食い止める」

 おまえは死ぬな。

「……それは、命令ですか」

「ああ、命令だ」

 死ぬなという、命令だ。

「ならば、私は……」

 差し出されたジュラルミンケースに、イソラは手を伸ばさなかった。代わりに、両手でナイフを握り直す。

「その命令に、違背いはいします」

 タカナミの瞳に、さっと鋭い光がひらめく。けれど、イソラはひるまない。タカナミをまっすぐに見上げて、言葉を放つ。静かに、想いを、飛び立たせるように。

「たとえ、あなたがいなくても、私の心臓は動き続けます。でも、あなたがいなければ、私の心は、二度と動かない」

 ナイフを構える。タカナミを映すイソラの黒い瞳が、雫をたたえてきらめく。儚く、切なく、闇の中に光を宿すように。この地下都市には永遠に存在することのない、幾千の願いを抱えて輝く、星空のように。 

「私は、生きたい」

 たとえ、刹那でも。

「あなたの傍で、生きていたい」

 床を蹴る。躍り出たハイドの影に向かって。

 振りかざされるハイドの腕。掻いくぐって、ひらりと跳ぶ。

 タカナミの呼ぶ声が響いた。イソラは唇を引き結ぶ。イソラ。いそら。惟空いそら……名前を与えられたときから、呼ばれる度、胸の奥が、灯るように、温かくなった。今だって、そうだ。こんなときでさえ、そうだ。ずっと、呼んで。呼び続けて。私をイソラとして存在させて。

 どうか、さいごまで。

 体の動かし方は、ひとりでも学べた。死なないために。でも、心の動かし方は、タカナミが教えてくれた。生きるために。

(タカナミ)

 イソラは、戦う。

(私は、生きています)

 何度だって、戦い続ける。

(今、私は、こんなにも生きています)

 閉ざされた天井の下。

 ケーブルを引き千切りながら、イソラは泣いた。

 崩れ落ちる機械の残骸の上で。

 心はここにあると、叫ぶように。

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