第33話 約束と風と夏の終わり

 闇宮から脱出してちょうど一日経った深夜だった。


 頬の緊急手術を終えた山内くんは、病院の個室のベッドに横たわっていた。

 骨折した足はギプスに固められてベッド上に布で吊られている。顔の下半分は包帯でぐるぐる巻きにされ、傷がくっつくまであごを動かさないようにと、これまたギプスで念入りに固定されていた。しばらくはものを食べるときも、管で流動食を流し込まれるという。


 目を閉じているが、寝てはいない。麻酔の切れた頬の傷がひどく痛むというのもあるが、


(怖い怖い怖い怖い)


 たぶん、以前にあまりよろしくない死に方で人が死んだ個室である。視界の隅でなにかが自己主張するようにちらちらうごめく。なので、それを見まいと目をつむっているのだった。


 闇宮にいたときは霊や怪異に怯えている余裕はなかった。が、脱出してしばらくすると、山内くんはまた、ささいな怪異にも神経をすりへらす怖がりの少年に逆戻りしていた。勇気を使い果たした状態ともいう。


(部屋換えてとぜったい明日頼もう。しゃべれないけど文字書いてパパか看護師さんになんとか伝えなきゃ)


 そんなことを考えていると、部屋のドアが開いた気配がした。足をベッド上に吊られた状態でなければ、山内くんは跳び上がっていたかもしれない。ばくばくと鳴る鼓動をなだめてかれは誰何しようとし、あごを固定されたいまの自分がしゃべれないことを思い出す。


「オレ」


 病院のパジャマ姿の紺が開いたドアから顔をのぞかせていた。彼女も入院していたのである――といっても、細かい切り傷や擦り傷くらいで大きな外傷はないため、すぐに退院するだろうという話だったが。


「忍んできちゃった」するりと室内に入って後ろ手に戸を閉め、紺はいたずらっぽい笑顔を浮かべた。




 ベッド横に、彼女はパイプ椅子をひいて座った。

 物思いに沈むふうで、山内くんの吊られた足を見つめて一言も発しない。窓からの月明かりを浴びるその表情は、前より少しおとなびたように見えた。山内くんはなぜかどきどきして言葉が出てこなくなる。どのみちしゃべれない状態だが。


「オレ、明日退院する」


 紺がぽつりぽつり話しはじめた。


「おまえは来週になるんだってな。足とほっぺた、全治二ヶ月だっけ」


 うんと山内くんはうなずいた。


「ほっぺたの傷は、痕が残るとも聞いた」


 紺の表情が若干陰りを帯びるのを見て、気にしないでと山内くんはジェスチャーで伝える。綺麗な刺し傷ということもあって、成長するうちそれほどは目立たなくなるだろうと言われているのだ。それより個人的に腹立たしいのは、残っている夏休みの大部分が入院でつぶれる見込みということだ。


 また紺が口を閉ざし、病室はしばらくしんと静まり返った。

 山内くんがジェスチャーでなにか話を振るべきかそわそわしだしたころに、紺は苦い声をしぼりだした。


「オレのせいだ。おまえが怪我したことだけじゃない。

 おまえに危険な神を憑けちまった」


(それは)


 それはやむを得ないことだった。だが、簡単に済ませられる話では確かになかった。

 山内くんはおののく。いつか自分も、石田先生のように狂っていって、神に奉仕するしもべにじわじわ作り替えられていくのだろうか。この先自分は、まともな生き方ができるのだろうか。あのとき死んでいたほうがよかったと思うことになりはしないか。


 ……ぽん、と山内くんの胸に紺の手が置かれた。


「でもあまり心配しなくていい」


 少女の真剣な声が、暗鬱な空気を変える。


「今日、楓が祝部の古記録を調べてきてくれたんだ。ときおり来る殺人衝動に取り込まれさえしなければ、神主となった者は相当長くもつんだ。老人になるまでもちこたえ、次の世代の祝部に神を譲り渡して、罪を犯すことなく天寿をまっとうした者さえいる。一度でも禍津神の要求に負けて人を殺したら手遅れだっていうけど……大丈夫だよ、おまえなら気をしっかり持っていれば何十年だってきっともつ。その間になんとか神を体から叩き出してしまえばいいんだ」


 それを聞いて山内くんはだいぶ心が軽くなるのを感じた。早急な解決は見込めなくとも、希望はちゃんとあるようだった。


「もちろん、十妙院が全面的に手を貸す」と言い添えたのち、紺はにひひと照れくさげに歯を見せて笑った。「オレを恨んでいいとは言ったけどさ、やっぱ友達には嫌われたくねーし。知ってっか、オレ、けっこうずーずーしーぜ」


 それは知ってる、と山内くんはこくこくとうなずいた。半目になった紺が、なんか腹立つ反応だなと口を尖らせ、また真面目な顔に戻って、


「オレ、おまえのこと、一生かけて責任取る」


 真摯な誓いの言葉――山内くんは息を止めて硬直した。紺を凝視する。耳たぶがたちまち熱くなるのを感じた。

 かれの反応を見た紺があれ? と首をかしげ、瞬時に悟ったようで顔面を沸騰させた。


「バッ……! 違う! け、結婚してやるとか、そういう意味は含んでない! もっと術者として力つけて、おまえからいつか神を叩き出して普通の生き方に戻してやるってことだ! 話の流れでわかるだろ――!」


 あたふたと紺は取り乱して腕をふりまわす。


「言っとくけど、え、えっと、おまえがっ、その、前に病院でオレに言ってきたことは微塵も関係ねーからな! それがなくたってやるんだから、おかしな期待や勘違いすんなっ!」


 しゃべれない山内くんはむーむー唸って抗議するしかない。

 勘違いしてるのは君だろ僕は告白なんかしてないよ――そうはっきり言いたくてたまらないのだが、現状ではどうにも誤解を解きようがなかった。

 けれど、徐々に静かになった紺が、椅子の上でちょこんとひざを抱えて言った。


「でも……おまえの気持ちは、ちゃんと考えることに、したから」絶え入りそうな、小声だった。「やっぱりっ、いまはそういうのよくわかんねーし……友達以上とか想像もつかない、だから困るけど……助けようとしてくれたし」振り絞るように息をついで、「今ならほんのすこしだけ嬉しくなくも、ない、かも……だから、待っててくれるなら、ちゃんと検討してみる」


 再度、山内くんは固まった。

 かれがどう反応すべきかわからずにいるうちに、紺は真っ赤な顔をそむけ、すばやく立ち上がって病室から出て行った。


 彼女が残していった甘酸っぱい余韻に耐えかねて、山内くんは顔を手で覆う。自分の頬も火照っていることがわかる。


(だから誤解なんだってば……)


 まあ、あごのギプスは数日で外れるというし、口がきけるようになりさえすれば誤解を解くチャンスはじきに来るだろう。そう願うしかない。




 来なかった。

 八月下旬、退院と同時に、山内くんは姫路にいったん帰ることになった。

 あの夜以来、紺は病室に来ることがなかった。かといってこんなことは人に頼んでことづけてもらうわけにもいかない。


 そして、誤解を解く最後の機会と見なしていた見送りの場でも……


「ごめんなさいね。

 紺ったらもう、お見送り直前でどこに行ったのかしら。朝は珍しいことに、自分から童男姿おぐななり解いてお洋服を着てくれたのに。あの子の気まぐれっぷりときたら……帰ったら怒っとくわね」


 山内家の前の道路。バイクの横に立った楓さんが、申し訳無さそうに山内くんに謝る。


「いえ……」


 松葉杖をついて道路に出た山内くんは、目線を伏せてもごもご答えた。


(気まぐれじゃなくて……たぶん、あんなこと言っちゃったのでこっちと顔を合わせるのが恥ずかしいんだろうけど)


 言われた山内くんでさえ思い出すたびに赤面が止まらないのである。紺があとから自分の発言に悶えて、ぷっつり見舞いに来なくなってもおかしくない。


(でも見送りにすら来ないって勘弁してよ、次会うときまで誤解されっぱなしじゃないか!)


「また来いよー!」「また来てなー!」「次は秋においでよ、大きな川ガニ食べさせてあげるよ」突如道路脇から上がった声に目を向ければ、直文、穂乃果、マイタケまで見送りに来てぶんぶん手を振っていた。


「またねー!」


 手を振りかえしながら、山内くんは松葉杖をついてパパの待つバイクに近づいた。

 ぴたりとその足が止まったのは、バイクの尻にはりつくもんじゃくんを見たからである。その肉塊のなかでぎょろぎょろと目玉が動き、山内くんを見つめた。


 ものすごく複雑な気分で、山内くんはしばらくもんじゃくんと視線を合わせた。

 帰ったら線香でも上げよう……と考えつつ、もんじゃくんの体を回りこんで、バイクの左側にとりつけられたサイドカーに近づく。このサイドカーは、足を骨折した山内くんを乗せるため、パパが調達してきたのである。乗り込んでヘルメットを被ったとき、


〈げえ〉


 サイドカーの縁で、聞きたくもない鳴き声が聞こえた。

 冷や汗を噴いた山内くんが横を見やると、案の定おからす様がそこにいて、赤い瞳でじっと見つめてきていた。冗談じゃない、と山内くんはひきつった顔でそいつを見る。


(まさかコレ、僕についてくる気なの?)


「しっ、しっ……」


 手を伸ばして追い払おうとしたが、なにを勘違いしたのか、おからす様は翼を広げて山内くんの腕によたよた乗り移ってきた。そのまま腕を上がってきて肩にとまる。山内くんは泣きそうになった。


 パパがサイドカーの上にしゃがみこんでいろいろチェックし、「よし。行くぞ」と声をかけてきた。楓さんが、静かに目礼する。


「では、また……先輩」


「ああ。楓ちゃん、世話になったな」


 台詞と裏腹にパパの口調は、どこか必要以上に淡々としていた。


「そんなことは」


 ふいに、楓さんは声をつまらせて悄然とした。


「先輩……今回のこと、本当に申し訳ありません。こんなことになってしまって……いいえ、十妙院が邪鬼丸くんをこんなことにしてしまって」


「楓ちゃん」さえぎったパパの声は重かった。山内くんの身に起こったことを知って以来、パパは失意をくすぶらせていたのである。「ほんとに楓ちゃんには感謝しかしてねえ。紺ちゃんのことも責めるつもりなんぞ一切ねえ。話聞くかぎりは、そのときするしかないことをしただけだし、邪鬼丸が死んでたよりはずっとましだ」


 最後の一人の十妙院、銀のことをパパは決して口にしようとしなかった。強烈な怒りをむりやり飲み下しているのだとうっすら知れた。

 銀の目論見に沿って呪術の世界に引きずり込まれた山内くんは、はらはらしながら大人たちの微妙に気まずいやりとりを見ている。


(僕、そこまで気にしてないんだけどな)


 奇妙なことに銀に対しても、山内くん個人としては、怒りはそれほどないのである。あれは術者という変わった人種なのだと納得していたから。もちろん禍津御座神に憑かれたこと自体は気にしていたし、将来の夢も諦めていない以上、銀の思い通りになるのはもうまっぴらだったが。

 やがてパパは吐息した。


「いまの俺は邪鬼丸のことでは十妙院に頼るしかねえ。邪鬼丸はしばらくは大丈夫だが、ほっとけばまずいという話なんだろう? 早いうちに俺たちはこっちに引っ越す必要があるのかい」


「いえ……先輩。もう少し様子を見ます。わたくしたちのほうから術者を派遣して、邪鬼丸くんをそばで見守ることになるかもしれません」


「そうか。よろしく頼む」


 パパはメットをかぶった。

 バイクが発進し、明町の田園地帯をゆっくり走りぬけはじめる。青い稲穂がなびくのを山内くんは眺めていた。パパと楓さん、今度会うときは屈託なく話せたらいいのにな、と考えている。

 なんとはなしに、次の機会について聞いてみた。声をはりあげて。


「ところで、秋のお彼岸の日は例年どおりこの町に来るんだよね?」


 パパはそれを聞いて、一人合点した答えを返した。


「この町に来るのはもう嫌になったか? ひどい目にあっちまったからな……おまえにはすまねえ、だが我慢してくれ」


「違うよ! 嫌じゃない、別にそういうことじゃ――」


 山内くんの声は途切れた。


(あ)


 行く手の丘に人影を認めて、視線が吸いよせられたのである。


 道を見下ろす、低い丘の上。


 可憐ないでたちの少女が、心なしかもじもじした様子で立っている。レモン色のワンピースは、ノースリーブで裾丈が長い。麦わら帽子には、薄いグリーンのリボンがついて風になびいていた。いつもの彼女とまったく違う、お嬢様めいた印象の服。


 山内くんのメットのバイザーごしに、ふたりの視線が合った。

 かれを見ていた紺は、見られたことに気づいて強い動揺を面に浮かべた。かああっと恥じらいの色に染まる。彼女は麦わら帽子のつばをつかみ、ぱっと引き下げて顔を隠した。


 次会うときのことを山内くんは考えた。


(ワンピース、似合ってたって言ってみようかな)


 恥ずかしがって怒る姿がありありと想像できた。


 丘に視線を注いだまま、かれは楓さんのさっきの言葉を脳裏で再生する。『わたくしたちのほうから術者を派遣して――』もしかして紺が僕らのところに来ることもあるのかな、と思い当たる。

 どちらにしても、またすぐ会えるという予感があった。



 バイクとサイドカーは速度をあげて走っていく。

 青い稲穂がなびいて揺れる。丘の上では見送る少女のワンピース裾が、草や樹の葉とともにはためいている。


 夏の終わりの風が吹いていた。








                〈了〉

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山内くんの呪禁の夏。 二宮酒匂 @vidrofox

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