第32話 闇宮〈7 禁呪〉


 山内くんの胸に疑問が湧き起こる。そんな手段がほんとうにあるのか。あるのならなぜためらう必要があるのか、とにかく目先の命を拾うことが最重要事だ。だというのになぜ成功したとき彼女を恨む必要があるのだろう。

 かれの目にあらわれた疑問を読み取ったのだろう。紺はかすかに肩を震わせ、苦い声で言った。


「いまからおまえという器に、禍津御座の神を降ろすんだ」


 血まみれの口をぽかんと開け、山内くんは耳を疑った。どうにか声を、口内に溜まった血とともに吐き出してたずねる。


「それ……ごほっ、石田先生に憑いているやつだよね?」


「そうだ。この闇宮の主だ。勝てないんだから、こっちに移し替えて味方にする。

 神仏天魔の力を使役するのは、古来から、人に扱えるかぎりのもっとも強力な禁呪だ。あの禍津神まがつかみを喚んで、石田センセから引き剥がす」


 緊張の極みか、ごくりと紺はのどを鳴らす。


「むちゃくちゃだけど、条件はそろってるんだ。

 おまえは、祝部本家の最後の血。本来、石田センセよりも、ずっと適性はあるはずなんだ。祝部本家は、自分たちの血脈をあの神の器として特化させることに数百年をかけたんだから。

 あの神は……おまえを器として試したら、『あっちの器よりずっといい』と感じるはずだ。獣がより具合のいい巣に移るように、自分にもっと適した器があれば簡単に乗り換えると思う。

 そしていま、わざわざ禍津神を喚ぶための穢れの場を作る必要はない。なぜならここはもうこれ以上ない穢れの場、闇宮だから。自分の世界で喚ばれたら、あの神にはすぐわかるはずだ」


「でも、紺、僕には神の降ろし方なんてわからない」


「それはオレが担当する。

 上古いにしえには、術者は一人で神憑かみがかりとなった。けれど、術がより洗練されると、確実さと安全を期して二人以上の術者で召喚するようになった。神を宿す神主かんぬしと、神主を補佐してときには儀式を主導する審神者さにわとに分かれたんだ。

 おまえは神主。オレが審神者をやる。

 オレの家は男をたぶらかして血を取り込んできた、『狐媚こびの家』の十妙院だ。勝てない相手を……強い者をくわえこんで味方に変えるのは、うちの本領だ」


 覚悟と自嘲を微妙に混ぜあわせた表情を紺は作る。


「オレ、自分はひとりでも強いと思ってたから、十妙院の先祖たちのそういうやり方を、ずっと情けねーって思ってた。祝部の術についても、正直ちょっと見下してた……危険を冒して神を宿したって、しょせん他から借りた力じゃないかって。でも、今日よくわかった。どんなに術者個人の霊力が強くても、ほんとうに強力な神々の前では、羽虫みてーなものなんだ。

 始めるぞ」


 横たわった山内くんのとなりで、紺は岸辺の草むらにひざ立ちになった。

 山内くんは半信半疑で問うように目を向ける。

 術のことはなにも知らないが、なにも準備せず、こんな場所でうまく行くのだろうか。かれの疑念を、紺は視線からある程度読み取ったようだった。


「大丈夫。たしかにここには、なにもねーけど」


 張るべき注連縄がない。鈴がない。鏡も玉も麻もない。真榊まさかき紙垂しで小幣こぬさもない。酒と洗米と塩すらもない。紺はそう認め、


「でも、この神が通常と逆で清浄より死穢を好むなら、場を清める塩や酒はあまり意味はないと思う。それにオレは、霊力と術にまかせたごり押しは得意なんだ。今日はいっぱい醜態さらしちまったけど、これでも天才って呼ばれてるんだぜ」言って彼女は微笑んだ。こんどは自嘲の笑いというよりも、山内くんを少しでも安堵させようとする笑い方だった。「オレの力はあの神に立ち向かえるほど強くないって思い知ったけど、呼びかけて引き寄せるくらいはできるはずだ」


 紺は、ショートパンツのポケットから符の束を取り出した。

 数枚の符は、濡れなどしなかったかのようにふわりと頭上に浮いた。

 その数八枚。八角形を作るかのように、宙で同心円上にただよう。一枚には一字ずつ漢字が記されている。


けん幽符を冠して幽天ゆうてんと為す。

 こん位朱符を冠して朱天と為す。

 ごん位変符を冠して変天と為す。

 そん位陽符を冠して陽天と為す。

 かんげん符を冠して玄天と為す。

 位炎符を冠して炎天と為す。

 しんそう符を冠して蒼天と為す。

 こう符を冠して顥天と為す」


  乾坤艮巽坎離震兌けんこんごんそんかんりしんだ

  奎井斗角虚星房昴けいせいとかくきょせいぼうぼう

  幽朱変陽玄炎蒼顥ゆうしゅへんようげんえんそうこう――


 唱えながら九枚目の符を、紺は山内くんの胸の上に浮かべた。


おうきん符を冠して欽天と為す。是九天陣なり。此の陣をもって斎庭ゆにわに代えるなり」


 彼女は指を組み、九天に気線をめぐらす通天印つうてんいんを結ぶ。九枚の符が、伝えられた紺の力を増幅して激しく震えた。山内くんの目には、闇の虚空に狼煙のごとく霊力が立ち上るのが見えている。捕食者がもしこちらを見ていれば、間違いなく数キロ先からでも気づくであろう目立ち方だった。

 即席で神を喚ぶ場を用意した紺が、山内くんに向けて一拝一柏手し、指を組み替える。


 十種神宝印とくさのかんだからいんすなわち興津鏡印おきつかがみいん辺津鏡印へつかがみいん八握剣印やつかのつるぎいん生玉印いくたまいん足玉印たるたまいん死反玉印まかるがえしのたまのいん道反玉印ちがえしのたまのいん蛇比礼印おろちのひれのいん蜂比礼印はちのひれのいん品々物比礼印くさぐさのもののひれのいんを順繰りに結び、


 締めくくりに山内くんに向けて魂筥印たまはこのいん――


比止ひと 布太ふた   伊都いつ 武由むゆ 奈那なな  古々乃ここの 多利たり 布留部由良由良ふるへゆらゆら


 ちりんちりんと、鈴の音がする。驚くべきことに周囲の浮いた符から。

 山内くんは肌がぴりぴりするのを感じた。いまの印で自分がなにかの“準備”を施されたのだと悟る。

 まつげを伏せた紺が口早となり、


「血の道と血の道と其の血の道と血の道かえし父母の道、ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをはたくめかうおゑにさりへてのますあせえほれけ」


 呪歌と、


ぎたてまつる此の柏手かしわでにかしこくも来たりましませ 此の御霊代に降りましませ 仕えたてまつるわれらに寄り来たり給ひてくもろもろのあだなえを除かしめ給えとかしこみかしこみ曰す」


 ふたたびゆるやかな声調に戻っての神招かむおぎことばと、柏手――


 ときに変化を交えて、何度も何度も彼女は繰り返してゆく。


 紺の唇から漏れる秘火は、何匹もの火の蛇のようになって彼女の周りをゆるやかに巡っていた。少女の服から湯気が立ちのぼり、濡れた肌が乾き、さらに上気して汗に濡れはじめる。山内くんは驚きをもって見つめていた。


 ……ぼうっと眺めていられたのは、そこまでだった。

 総毛立った。


 何かがかれに“触れてきた”感触があった。物理的にではないが、そうと錯覚するほどの濃密な気配が、いつのまにか闇のなかに充満していた。山内くんの目をしても見えないが、たしかにそれはそこにいた。

 この巨大な気配を山内くんは知っていた。ついさっき接したのだから。

 違うのは、今はそいつは石田先生という器に入っていないことだ。


「ひっ、」


 また触れられた。根源的な恐怖と嫌悪感が湧き起こる。這いずってでも逃げたくなる。

 夜の海で泳いでいるとき、海面下の部分を人喰い鮫につつかれだしたら、このような気分になるのだろう。

 姿のない人喰い鮫は、ふたりの周りの闇を泳ぎまわりながら、ときおり山内くんに触れてくる。確かめられているのだと少年は悟った。


 焦って紺に横目をやる。彼女も目を閉じて集中しながら、蒼白になっていた。

 耐え切れず言葉を発しようとしたとき、「それ」はついにまっすぐぶつかってきた。


 ――どん、

 ――ずるり


 大きなものに押しつぶされかけ、それが凝縮して脊柱にもぐり込んできたように山内くんは感じた。意外なほどに生々しい、「別の存在」に侵される感覚。

 少年の悲鳴が漏れた。


 毛細血管、末端神経の一本一本にまで、形のない異質のなにかがからみつく。蝉の幼虫に寄生するというキノコの写真を見たことがあるが、それと同じく菌糸の根を、全身に張り巡らされていくかのようだ。神経網が内側から拡張されているみたいに痛い。痒い。皮膚の下が痒い。自分の皮を剥いで肉を露出させ、直接かきむしりたくなる。血がのどでごぼごぼと鳴り、気管に流れ込む。苦しくて涙がこぼれ、顔がひきつる。切り裂かれた頬の傷が、唇とつながってしまいそうだ。


 なんでこんなに苦しいんだよ、僕は器として最適化されてるって話だったんじゃないのか――と思った瞬間、すべてが淡雪のように消えた。


 消えたのは総身の痛痒と、そして、

 闇宮という世界そのもの。




 辺りの空気が変わったことも気に留めず、山内くんは腹ばいに転がる。すさまじい勢いでむせこんだ。気管内の粘る血を吐き出すあいだ、紺の手が背中をさすってくれた。

 その手がぴたりと止まった。


 山内くんも涙にぼやける目を上げる。

 場所は小学校の校庭で、深夜らしかった。……周囲には二十体以上ものむくろが転がっていた。頭陀袋ずだぶくろのように見えるのは服を着ていた遺体。そうでないものは裸に剥かれたのであろう遺体。いずれも大半は白骨化している。神かくし事件の被害者たちだった。


 山内くんに神が移り、リセットボタンを押したように闇宮が閉じられたとき、かれらの呪縛は解かれて現世に放り出されたのだと思われた。

 けれど紺が緊張の面持ちで見つめていたのは、それらの遺体ではなかった。


「……石田センセ」


 月明かりに照らされて、ナイフを握った人影がかれらの前方に立っている。


「盗んだな」


 石田先生の顔はこわばり、声は動揺にうわずっていた。


「どうやって私のなかから盗んだ……か……返せ」


 そこにいたのは、ただの中年男だった。山内くんは気づいた。この人、もうぜんぜん怖くない。

 当たり前だ、怖かったものはいま僕のなかにいる。


 石田先生は歯ぎしりし、頬を震わせてうなった。知識として禍津神を知らなくとも、自分からなにかが抜け出てしまったことはわかったのだろう。ナイフを手に、その男は山内くんたちに一歩踏み出した。「返せ! あれがなければ私は……」


 私は破滅だ。


 中断されたつぶやきを山内くんは察する。それはそうだろう、かれが殺してきた者たちの遺体はこうしてあらわになってしまった。かれは死体置き場であった闇宮をもう一度取り返したいはずだ。

 もちろん、そんなことを許すわけにはいかない。


「あんた、痛くなかったんですね」


 山内くんは茫洋とした口調で確かめた。石田先生は、けげんな表情を作る。


「痛い?」


「あれが体に潜り込むとき、苦しかった。あんたはそれも経験しなかったみたいだけれど……不公平だな。ここにいるみんなは、僕よりずっと苦しかったと思うよ」


 山内くんは周りを見回す。

 闇宮に囚われていた者たちのうち、石田先生に殺された霊は遺体とともに外に出てきていた。人の形をとどめないまでに壊された姿が、影となって石田先生をぞろぞろ取り囲みつつあった。

 まだ見鬼の能力はあるのだろう。石田先生の顔には色濃い恐怖が現れはじめる。かれは怒鳴った。


「わけのわからないことを言っていないで、いますぐ返さなければ殺す。脅しじゃない、おまえらを殺せば戻ってくるかもしれないんだ。そうされたくなければ早くしろ!」


 いまにもナイフをかざしてとびかかってきそうな石田先生に、山内くんは確かめる。


「まだ、僕たちを殺すつもりなんですか」


「だから、そう言っているだろう! 戻せるならば早く……」


『鉢割烏』はちわりがらす


 山内くんののどから出たのは、軋るような呪詛だった。


 石田先生の背後で、黒い翼がばさりと広げられた。


 猿の手の姿をしたあしが男の頭をつかむ。首に蛇の尾が巻きつけられる。喚ばれて虚空から飛び出してきたおからす様は、石田先生にしがみついて、後頭部をがつんとつついた。石田先生が目を見開いて怖ろしい苦痛の叫びをあげ、頭を押さえた。おからす様はかまわずくちばしを二度三度と頭に突き立てはじめる。啄木鳥きつつきのような動きで、ざくざくと。見える外傷はなかったが、たしかにその式神のくちばしは頭の内部に深く埋め込まれていった。


「痛い、痛い……!」


 石田先生のわめき声は、近隣住民が一人残らず飛び起きるだろう大きさになっていた。かれはひざをついて頭をかきむしっていたが、その指はおからす様の体を通り抜けてしまい、つかむことはできなかった。石田先生はついにナイフを捨てて校庭に倒れ、苦悶の形相でのたうちまわりはじめた。


 その様子を、山内くんは冷ややかに見ていた。たぶんさっきの全身の痛みは神様と深く同化した証だったんだろうな、と考えながら。


(そうでないこの人はしょせん闇宮詣くらみやもうでくらいしか使えなかった。あんなものは術とも呼べないもっとも基礎の力なのに)


 禍津神が伝えてくるのか、祝部の禁呪の知識がいくつか頭に流れ込んできていた。

 そのひとつであるおからす様――鉢割烏、対人特化の呪殺式は、どれだけ石田先生が地面を転がっても離れることなく、くちばしを頭に深く突き入れていた。石田先生の叫びと動きが唐突に途切れ、うつぶせで激しく痙攣しはじめた。


「――――内、山内!」


 耳に声が届いた。さっきから呼びかけられて揺すぶられていたことに、山内くんはこのとき気づいた。


「もういい、鉢割烏を止めろ山内っ、殺しちゃだめだ!」


 紺だった。横からかれにしがみつき、血相を変えて彼女はけんめいに制止しようとしていた。


「祝部の神主はひとりでも殺したら後戻りできなくなる! 死の穢れに決定的に染まったら、今度はおまえがこの男みたいに殺人の衝動を抑えられなくなっちまうんだっ! だからやめろぉっ……!」


「あ……あ、あ」


 自分がしていることに、山内くんはようやく気づいた。相手が殺人者とはいえ人を殺そうとしていた。死ねばいいとすら思わず、ただ当たり前のように死にゆく過程を眺めていた。自分の内側に棲みついたものにぞっとする。


「やめろ」


 かすれた声でおからす様を止める。おからす様は頭を上げ、血のような赤い目で山内くんを見つめて〈げえ〉と鳴いた。石田先生はぴくぴく動くばかりになっていたが、息絶えてはいないようだった。




 八月中旬。

 この数年にわたり播州の連続神かくしと呼ばれてきた失踪事件は、電撃的に解決した。

 遺体群の発見と、容疑者の逮捕によって。


 なお突発的な脳卒中によって半身不随に陥っていた容疑者は、手術して意識を回復した数日後、警察病院のベッド上において突如詳細に自供しはじめた。「夜中に被害者たちにひっかかれて一睡もさせてもらえない」と回らない舌で訴え、眠らせてもらえるならとすべての犯行を認めた。しかし、「妄想による睡眠障害」と診断された症状は回復しなかった。なお実際に、朝になると容疑者の皮膚に無数のミミズ腫れや歯型がついていることを医療従事者たちは確認している。だがかれらは困惑しながらも、〈聖痕と呼ばれる、強い思い込みがもたらす珍しい現象〉と説明をつけた。


 容疑者は以後も「連中が夜になると集まってくる。私はもう守ってもらえないから手を出されるんだ。助けてくれ」と訴え続けた。そしてやつれきった挙句、ひと月後に病室の窓へ這いずっていって身を投げた。即時の手術で命のみはとりとめたが、顔から落ちたために両の眼球を失い、そののちは「ずっと連中がそばにいる。昼も夜もずっとひっかいてくる」と叫び続けて完全に精神に異常をきたすに至った。

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