第31話 闇宮〈6 対決〉
ななめ前方から、石田先生がゆっくりと近づいてくる。その捕食者の手のなかでナイフがくるりと回り、逆手に持ち替えられる。その歩みに音はなく、息づかいも含めて気配はいっさい感じ取れない。
山内くんは紺の背に左手を当てて出口を目指しながら思う。まるでその男自身が生ける幽鬼であるかのようだと。
怯えきった紺が歩みを鈍らせる。闇でなにも見えていない彼女にも、間近の山内くんの切迫した雰囲気は伝わっているようだった。
「大丈夫。紺、僕を信じて。さっき言ったように、合図したら出口めがけて走るんだ。それまでは火を吹いて周りを照らさないで、怖くても」
石田先生に気づかれないようにささやきながら、山内くん自身も出口だけを見すえる。
武道において、敵の体のどこかに視線の焦点を定めることなく、虚心となって全体に注意する技のことを
彼我の距離はあと十数歩。
時間にしてあと数秒。
表情筋を抑えつけ、徹底して相手に気づいていないふうを装う。
――そのまま、歩きかたを変えるんじゃない。
呼吸を静かにととのえる。右手に持った杖をあらためて握りしめる。
――そのまま油断していてくれ。
己だけが闇を見透せるという力は、強力だ。どれだけ屈強な体格を持つ人間でも、どれだけ強力な攻撃手段がある人でも、視界が闇に塗りつぶされれば防御すら困難になる。いまのように気配なく接近されれば、致命的な最初の一撃を避けようもない。
――でも、これまで殺された人々と違い、僕はあいつと同じく「見えている」。そして、あいつは僕が見えていることを知らない。僕は先手をとることができる。
ただそれだけが、山内くんの持つアドバンテージだった。
あと十歩の距離。
双方が一歩ずつ近づく。八歩。
六歩。
四歩。ナイフがゆるゆるとかかげられる。
二歩――
「走れっ!」
山内くんは叫び、大きく踏み込み、上方に杖をはねあげた。石田先生の顔を狙った一撃。
外れた。
のけぞることで石田先生はその一撃をかわした。
奇襲の失敗に山内くんは驚愕する。いやでも悟らざるをえない、「見える人間」がいることを予期されていたのだ。だがまったくの成果なしではない――合図とともに紺の火が吐き出されて石畳の回廊がつかの間明るくなった。言われるまま走りだした紺が、脇目もふらず捕食者の横を駆け抜ける。
石田先生は体を回して少女に追いすがろうとした。その横顔を狙って山内くんはふたたび杖を振るう。しかし横薙ぎの二撃目は、刃渡り三十センチのナイフにはねのけられた。斬撃で断たれた杖の先端がくるくる回ってすっ飛ぶ。
ぐりっと首をねじまげて、石田先生は山内くんを見た。
光を吸い込む小穴のような瞳で。
(……人じゃ、なくなってる)
捕食者の瞳の奥をのぞきこんだとき、本能的な恐怖で山内くんはあえいだ。
いま目の前にいるものは、姿形は人間だ。だが内側では得体の知れない暗黒の存在とつながっている。山内くんは巨大な人喰い
それでも、恐怖を闘争心に変換し、捕食者と出口のあいだに立ちはだかる。逃げろとせっつく本能を、人の意志によって抑えつける。
(紺が出口に駆け込むまで、こいつの足を止めなきゃならない)
短くなった杖をかまえる。前後にステップし、棒術の応用で突きを浴びせる。捕食者は物言わずさらに後じさった。
山内くんは攻撃衝動を抑えようとはしなかった。
連続する
(
無我夢中で棒を繰り出し、山内くんは前進を止めない。すでに石畳の上からははみ出ていた。捕食者を追い詰めている方向には沢が流れているようで、断崖となった向こうから水音が響いている。
もう数瞬もすれば、捕食者を崖に追い落とせるかもしれない。それが叶わなければ、自分も身を返して出口に走るつもりだった。
だが山内くんが渾身の一撃を突き刺そうと踏み込んだとたん、捕食者はいきなり前に出てきた。なんの予備動作もなく、無造作に。
山内くんの一撃は、半身になった捕食者の胴体をかすめる。
しまったと思った刹那に、ナイフに頬を貫かれていた。
(あ)
右頬を貫通した刃が、上下の右側歯列のあいだに滑り込み、口蓋をがりっと傷つけながら左側の奥歯の一部を砕いた。
(この人、間合いの取り方が巧い。武道経験者だろうか)
顔の横からナイフを突き立てられた瞬間、山内くんの脳裏に浮かんだのは意外に冷静な分析だった。ずぽ、とナイフが顔面から抜かれる。「あぎっ、」声が漏れ、瞬きの後、痛覚神経の赤い叫びが思考を根こそぎ揺るがした。
手負いの獣の絶叫が聞こえる。杖を手放し、頬の傷を両手で押さえてよろよろと後退する自分の声。押さえた手の指のあいだからも唇からも、真っ赤な液体がどっとあふれる。奥歯のかけらがびちゃびちゃ垂れる血に混じって唇から転がり出た。
足を払われる。かろうじて受け身をとり、立ち上がって逃げようと腹ばいになった瞬間に足首を踏み砕かれた。ゴリッとくるぶしの壊れる感覚があった。
ああやだな、逃げられなくなったとパニックに陥る頭の片隅で思う。
後頭部の髪をわしづかまれ、首を後ろに反らさせられる。血に濡れたナイフの冷たい先端がすすっと頬を
ぎゅっとつぶった目から涙があふれ、しゃくりあげが漏れる――たくさんの声にならない悲鳴が胸中にあふれた。死にたくない。死にたくない。痛いのは嫌だ。助けてパパ。
その一方で、これでいい、とあきらめる自分もいた。
嫌だけれど、しょうがない。
最大の目的――紺を逃がすことは達成できた。だからしょうがない。
何度もあの子に命を救われた。だから、あの子が死ぬよりかは、僕があの子の代わりに死ぬのが筋じゃあないか。
けれど痛みの瞬間は、やってこなかった。
閉じたまぶたを通して、輝きを感じた。いましも山内くんの解体を始めようとしていた捕食者の手が止まるのと、山内くんが目を開けてそれを見たのは同時だった。
幾条もの火炎の帯がかれらを取り巻いていた。
少女の張りつめた呪歌が後ろから響く。
「
とたん、炎が数十倍に膨らんだ。
赤い火。青い火。火炎の渦。押し包もうと迫る濃い闇が燃え盛る火によってわずかな間だけ退けられる。闇宮の一角が真昼のごとく照らされた。
炎に取り巻かれた捕食者が、山内くんの髪から手を放し、わずらわしげに火を払った。渾身の霊力をこめたらしき紺の術に対し、ドライアイスの煙でも払うかのようなあしらい方だった。けれども、炎の向こうから紺が飛びこんで直接体当たりしてきたことには、さすがに捕食者も意表をつかれたようだった。眼鏡がすっ飛び、たたらを踏み、捕食者は山内くんの上からどいた。
「山内っ、立て、しっかりしろよ……!」
紺がかれの肩をかついで必死に叱咤する。彼女は術をもって補強した全力の秘火で、つかの間の視界を確保し、駆け戻ってきたようだった。山内くんは状況がすぐには飲み込めないながら身を起こした。とたん右のくるぶしに激痛が走り、紺に体重を寄せるようにして倒れこんでしまう。紺が苦しげに顔をゆがめてかれの体重を支え、一歩一歩歩きはじめた。
けれども、どう考えても逃げ切れないのは明らかだった。
捕食者はかれらをろくに見もせず、悠揚迫らぬ態度で眼鏡を拾い上げていた。不要な余裕を示しているかに見えて、その立ち位置はふたりと出口のあいだをきっちり塞いでいる。外界に逃げだす道は封じられていた。
ただ、捕食者はやはりかれらをすぐ捕らえるべきだったろう。眼鏡をかけ直したあとで、その目がいぶかしげに細まったのは、少女が少年を連れて逃げる方向を見たときだった。
山内くんも、出血と痛みで失神しそうになりながら目を見開いた。紺、そっちは崖だよ。しゃべろうとしたが口内の激痛で声にならなかった。
「他にねーもん」蒼白な顔の紺は、かすれた声で告げた。「逃げ道なんて他にない」
彼女は、山内くんごと崖から沢へ身を踊らせた。
水面まではそう遠くなかった、幸いにして。
ちの道は父と母との血の道よ ちの道返せ血の道の神……
間近で血止めの呪歌が聞こえる。裂けた頬に、温かいものが触れてつかの間痛みを癒やした。
続いて少女の涙声。
「山内、山内っ……起きろっ、目を覚ませよっ」
重傷を負った山内くんは朦朧と目を開けた。
川の岸辺だった。むろんまだ闇宮のなかである。
涙をこぼす紺が、かれに覆いかぶさってのぞきこんでいた。もう秘火を抑えるつもりはないようで、彼女の吐く明かりが、ホタルの光程度ながら岸辺を照らしていた。川中の岩によるものか、紺は腕や脚のあちこちに切り傷や擦り傷を作っていた。濡れそぼつ髪には小枝や葉がからんでいる。みじめな有り様だった……が、彼女の双眸や、かれの上にぽろぽろ落ちてくる涙は、火のきらめきを宿して宝石のように輝いていた。
(この子、ものすごくきれいになるだろうな)
紺を見上げ、夢うつつのはざまで山内くんは場違いなことを考えた。
(生きていたら……)
そう、生きていたら、だ。
拡散しかけていた意識が
すべて思い出したのである。出口に向かったはずの紺が戻ってきて、かれとともに沢に飛び込んだことを。深手によって意識を手放したかれを、彼女は川中でずっと支えていたのだろう。そうでなければ溺れ死んでいる。
見たところ、だいぶ下流に流されたところで、紺はかれを岸辺に引き上げたようだった。
だが、ほんの少し生き延びられたことを喜ぶよりも、かれは強い落胆を覚えた。
「なんで……どうして、逃げなかったんだよ……紺」
山内くんは気息奄々でつぶやく。これで、ぜんぶ無駄になってしまった。紺を救うことも果たせなかったとかれは失意に沈んだ。
紺が首をふる。その声が震えた。
「置いてなんて行けねーもん。オレを助けに来てくれたやつを」彼女は涙をぬぐい、まだ弱々しくはあったがきっぱりした声で言った。「ふたりでないと帰らない」
絶望の吐息を山内くんは漏らした。目の前にいるのはまぎれもなく、かれのよく知る紺だった。責任感が強く、面倒見がよく、優しい少女。
だがそのために、彼女はこの闇の世界に残ってしまった。
「ふたりでなんてもう無理だよ。足を折られた、僕は歩くこともできない」
しゃべると口内の血がのどにどっと流れこみ、少年は咳き込んだ。
このままひとりで行ってと紺に言わねばならなかった。そのほうが、助かる可能性がまだしもある。そうと知りつつ、なかなか口は動かなかった。闇に置いて行かれて、確実な死をひとりで待つというのは、怖ろしい想像だった。肝が縮み、涙がにじんだ。
“でも言うんだ。言わなきゃ”
舌を、どうにか動かしかけたときだった。
「聞け、山内。思いついたんだ、たったひとつだけある。ふたりで帰れるかもしれない方法が」
悲壮な面持ちの紺がかれの肩をつかんだ。
「これからそれをやる。失敗したら、ふたりとも死ぬ。
成功したら……おまえはオレを恨んでいい。でも、とりあえずは助かると思う」
山内くんはかすむ目を凝らして紺をまじまじと見た。
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