第30話 闇宮〈5 護る者〉
「……石田センセも先祖に祝部の血が混じってる。だからあの人は神憑きになっちゃった」
山内くんに手を引かれながら紺がつぶやく。山内くんはちょっとふりむいて聞き返した。
「カミツキ?」
「あの人は
恐怖と疲れをまぎらわせようとしてか、紺はかぼそい声でとつとつと語る。
「禍津御座の神は、常に人身御供を求めたらしい。祝部はそれを祀ることで、ある程度なだめていたんだ。代わりに神を自分たちの一人に降ろし、少しずつ力を引き出して利用していたけど、とても危険な行いだったって。
神道系の降神術では、神を身に宿す者を御霊代もしくは神主っていうんだけど……祝部の神主は、禍津御座の神を宿したのち穢れに染まりすぎると、神の欲するまま人を殺戮するようになるらしい。人を殺しすぎるようになったらその神主は『もう駄目』と認定されて内々に処分される。そのあと、祝部は自分たちのなかからまた新しい神主を選び出すんだそうだ。そうやって長年、犠牲を抑えてきた。
でも、祝部本家の当主が事故死したあと、だれも神を祀っていなかった時期があったし……。荒ぶる神は間断なく祀られてこそ和御魂として鎮まるのに。神が放置された結果、石田先生がああなって、しかも止める者がいなかった」
「……あのさ紺、それって神様っていえるの? 悪魔とか邪神に聞こえるんだけど」
紺は首をふる。
「この国でも、
……あは、でも、自分が獲物の立場になったとたんびびって泣いたオレが『そういうものだ』って悟ったみたいなこと言ってもこっけいだよな」
ナーバスな自嘲の台詞にどう答えたものかわからず、山内くんはふたたび目を前に戻した。森がひらけており、前方の地面に黒ぐろとした裂け目が見えていた。
(崖?)
近寄ると、流れる水の音が響く。
「川がある」
崖下を見下ろし、山内くんはつぶやいた。ふいにのどの渇きを意識する。もう何時間も汗をかきながら山中を歩き続けていた。
「ここの水、飲めるかな」
「だめだ、山内」
紺が緊張をにじませて注意してきた。
「“異界の食べ物や飲み物を口にしたら元の世界に帰れなくなる”って言い伝えがある。ぎりぎりまで試しちゃだめだ」
「そうなんだ」
肝を冷やして山内くんは断念する。名残惜しげに崖の下をのぞきこむと、川虎岩のある清流と同じくらいの川幅の沢だった。ふと、この異空間はどこまで広がっているのだろうと考える。
(山や川があるなんて広すぎるな)
困ったことになった。一刻も早くここから出なければならないが、うかつに動き回ればかえって出口から遠ざかるかもしれない。
はたと思いついて、山内くんは少女をふりかえった。
「紺。この世界は神様の張った結界のなかにあるって言ったよね。結界の境目ってあるの?」
「ある……と思う。でも、どこまで行けばそれを見つけられるかわからない。異世界って言っていいくらい広いかも……それに、蔵の地下と同じように空間をねじまげてつなげているみたいだから、果てに着いてもまったく気付かず折り返して歩き続けることになるかも。
術だとしたら、人間の術者には想像もできないほど術の規模が大きすぎるし、巧妙すぎる」
「神様には知性があるかもわからないんじゃないの? それなのに術が巧いの?」
「逆だ。神の力のこういう形での発現を、人が術として真似たんだ。人間は
山内くんは落胆のため息をのみこんだ。
(やっぱり、あの夜くぐった出口を探すしかない)
鳥居の立ち並ぶ石畳の回廊。前回はそこをくぐりぬけて現世に戻れたのだ。あの出口は、意外と近くにある気がしていた。
(でもこの付近を探して回るとなると、石田先生に見つかる危険を冒すことになる。足元が見えない紺を連れていたら逃げ切れない)
眉を寄せて考える山内くんの耳に、
「あの……山内」
おずおずと、紺の小声が届いた。
「さっきオレが泣いたこと、だれにも言うなよ」
まだ目の赤い少女は、恥ずかしそうに釘をさしてきた。ちくしょーなんであんな不覚、と顔に書いてある。元気が少し戻ってきたように見えた。安堵を覚えながら、山内くんは真面目にうなずく。
「わかってる。秘密にしとく」
「……ほんとに秘密だからな」
「うん」もう一度首肯し、山内くんはつないだ手を外した。
(一回紺を隠れさせておいて、僕ひとりが出口を探しに行くのがいいかも)
そう考えたのだ。だが直後に考えなおさねばならなくなった。紺が焦った勢いで手をつかみなおしてきたから。
「な……なんで放すんだよ!」
不安一色に塗りつぶされた表情。すがるようなうわずった声とともに、彼女の唇から出た火が
「紺! 見つかる、火抑えて!」
あっと少女が息を飲んで目をつぶり、もう片手で自分の口を押さえた。ずっとつなぎっぱなしだった手は互いの体温が熱いくらいにこもり、汗ばんで滑る。けれども紺はわずかでも離れたくないとばかりに、つかんだ手を放そうとは決してしなかった。汗に濡れた手のひらを通して、少女の小刻みな震えがまた伝わってきていた。
いまの紺をひとりにするのは危なっかしい、と山内くんは判断せざるをえなかった。ある程度持ち直したかに見えても、やはり少女の精神は、はじめての挫折からまだ回復していなかった。
そして彼女はかれより数時間前から、この暗闇の世界で必死に逃げていたのだ。体力的にも彼女のほうが消耗しているはずだった。のどの渇きもおそらく並大抵ではないだろう。
見晴らしの良すぎる崖ぎわから林にいったん戻り、嘆息する。
(……ふたりで隠れるにしても、この世界じゃ長くはもたない。水も口にできないならなおさらだ)
正直なところ、八方ふさがりである。それでも、なんらかの行動はとるべきだった。山内くんが提案しようとしたとき、紺のポケットから、音が響いた。
〈いぃい〉
ぎくりと山内くんの身がこわばる。牙笛がふたたび鳴っていた。かれは反射的に紺の手を引いて走りだしかけたが、妙だと気づいて立ち止まった。
〈いぃ。い。いいい〉
音が断続的だった。いつもの警鐘――ヒステリックなほどのそれとは明らかに違う。まるで呼んでいるかのようだ。
「紺……牙笛をポケットから出して」
それまで紺は音が聞こえないらしく戸惑った表情だったが、すぐ察したようでポケットからその呪具をつかみだした。
ある程度は予想していた。だから山内くんは、悲鳴をこらえることができた。
紺のてのひらに乗った牙笛を、ずたずたになった手が横からつかんでいた。
山内くんの視線に気づいた紺が、牙笛をいぶかしげに見下ろした。「うわ!?」自分の火で照らしてわかったらしく、のけぞる。とっさに投げ捨てなかったのは、さすがに霊には慣れた彼女ならではだったろう。
見たことがある霊だ、と山内くんは記憶を探る。
ふと、血まみれの手首にはまった銀の腕時計が目に入った。
(そうだ。この手、初めてこの世界に来たときも牙笛つかんでたやつじゃないか)
あのときはパニックになって、手ごと牙笛を投げ捨ててしまった。しかしあれから山内くんは色々と学んでいた、霊といっても個体差があることを。こちらに悪意を向けるのではなく、助けてくれる者もいるのだと。
そして、悪意を向けられているかそうでないかは、山内くんには“見”ればわかった。言語化するのは難しいが、発する気の色合いというべきか、霊が湯気のようにまとうかすかな雰囲気でなんとなく判別がつくのである。
かれに遅れて、火ですばやく霊を確かめた紺が、なにかに気づいたようにつぶやいた。
「山内、この霊……」
「うん。たぶん大丈夫。見た目はアレだけど無害だと思う」
「いや、そうじゃなくて……この気配、オレ、前から知ってる気がする」
え、と山内くんは目をみはった。
(紺にも?)
もう一度よくよく見て、かれはまた気づいた。
「……もんじゃくんの一部だ、これ」
呆然とした。パパの買ったバイクにくっついている、ぐちゃぐちゃになった姿の霊だ。その無残な姿をあまり見たくなくて、もんじゃくんを直視したことはそれほどない。だからとっさに気づかなかったのだが……言われてみれば、同じ霊だった。バイクに憑いているはずの霊がなんでこんなところに、と山内くんはけげんに思った。
だが、紺はさらに困惑した表情を見せていた。
「え!? あ、ほんとだ、もんじゃくんだ、こいつ……でもそうじゃなくて、なんていうか、あの……」彼女は気づいた表情になり、急になぜか歯切れ悪くなって、「あのさ、山内……オレ、もんじゃくんにも見覚えある気がしてたんだ。もんじゃくんって、もしかしてさ、バイクに憑いてるんじゃなかったのかも……」
わけのわからないことを紺が言い出した。山内くんはどうしてか、ひどく心がざわつくのを感じた。
「どういうこと、紺」
「思い出した。オレがこの気配初めて感じたのって……おまえと初めて出会ったときだ。この霊、おまえに憑いてるんじゃねーか、って、思うんだけど」
紺の表情にはいまや、「言わないほうがよかったかも」という後悔が現れはじめていた。
山内くんは自分の顔色がすっと変わったのがわかった。
記憶によみがえったのは、紺と最初に枕を並べて眠った夜に、彼女から聞いた話だった。
――牙笛ってのは危険が迫ったとき、すぐそばにいる好意的な霊が鳴らしてくれるものなんだよ。おまえは憑いてるものに守られてた
――おおかた祖霊だろ
――たぶんだけど若い男
もう一度、手の霊を見る。
ぐしゃぐしゃにつぶれた手。交通事故で死ねばこうなるのかもしれない。
手首にはまった銀の腕時計。
銀に見せてもらった写真で、最後の祝部の当主は、こういう腕時計をはめていなかったか? ずっと牙笛を鳴らしてくれていたのは、明らかにこの霊だった。
山内くんの、血縁上の父親。
言葉を無くして呆けたように立ち尽くす山内くんの前で、もんじゃくんの手はとつぜん動きはじめた。指をのたくらせて巨大な虫のようにずるずると動き、地面にぼとりと落ちた。そこで向きを変え、ひとさし指を伸ばした。沢の下流とおぼしき方向に。
あちらへ行け、と山内くんたちに教えるように。
その輪郭が薄れ、黒い霞のように夜気に溶けて消え去ってもなお、山内くんはしばらく動かなかった。
「山内……」
けれども、紺が気づかうように声をそっとかけてきたとき、急にかれは紺の手を引いて、手の指したほうへ歩き始めた。「行こう」短くそうとだけ言って。
目からこぼれ落ちそうな熱いしずくを、山内くんは奥歯を噛み締めてこらえる。
泣くわけにはいかない。いま、僕は弱った紺を守らなきゃならないんだから。涙を見せて、彼女をこれ以上不安にしてはいけない。
紺はなにも言わず、かれの手をぎゅっと握ってついてきていた。
無言でふたりは歩き続けた。
拾った木の枝を杖にして、沢沿いに下る。切り立った岩場や密生した藪に四苦八苦しながら通り抜けた先に、それは見えてきた。
林立する赤黒い鳥居と、石畳の回廊が。
(着いた)
夢で見た場所。いまとなっては本物の夢がこの闇宮に通じていたのか、妖しい空気にあてられて夢と思い込んでいたのかわからないが。明らかなのは、この場所がいま眼前に存在しているという揺るぎない事実だけだった。
荒れ果てた
「僕が前に出られたのはこの先からだった」
涙がようやくひっこんでいた山内くんは振り向いて紺に伝えた。紺は慎重な小声で応じた。
「祝部の先祖が出口を作ってたのかな……」
「わかんないけど、出られさえすればいい」
それにしても、驚くべきは広大さだった。名高い京の伏見稲荷社の千本鳥居にも匹敵するのではないかと思われた。しばらく歩き続けてもいっかな鳥居の回廊が終わらない。
列なる鳥居の陰からは人ならぬものの気配やにらみつけてくる視線を感じたが、山内くんたちは足を速めて進んだ。臆しないというよりは、いまさら悪意ある死者たちなどに足を止めていられなかったのである。
出られる。もうすぐこの世界から出られる。そのことだけで頭がいっぱいになっていた。
ついに、山内くんの目は一条の漏れる明かりを見つけた。
「あった!」
歓喜と安堵で思わず声を漏らしていた。
最後の鳥居。その下の空間に、輝く亀裂が入っている。闇の裂け目からは、生の世界の光が漏れていた。夢の記憶に刺激される――そうだ、最初に迷い込んだあの夜は、黒い蝉をかわしてその側を駆け抜け、あの亀裂に飛び込んだのだ。
「紺、あの出口の光は君にも見える?」
「見える……!」
紺の喜びはかれに勝るとも劣らなかった。いまにも駆け出しそうになって、彼女は山内くんの手を逆に引く勢いで前へ出た。「早く行こう!」
うなずいて駆け出そうとした山内くんは、足をつっぱって緊急停止した。
鳴り渡っていた。牙笛が。
出口の横手。なにもない庭とおぼしき場所で、かれらを見た男が静かに立ち上がるのがわかった。手には大型ナイフを持っている。
待ち伏せられてたんだ、と山内くんは悟る。
闇が、急に密度を増した。窒息しそうなほどに黒く、黒く、黒く濃密に……山内くんの視界すら、もはや闇夜とほとんど変わりなかった。禍々しくどす黒い世界のなか、人のかたちをとった暗黒が、ふたりに向けて音を立てずに歩き始めた。
山内くんは石田先生の姿が見えていないかのように目をそらす。
心臓が、狂ったように騒いでいる。
「山内……?」
石田先生の姿は見えなくとも、紺は、周囲の、あるいは山内くんの雰囲気が変わったことに気づいたようだった。少女の手が少年の手のなかでこわばった。
「紺。聞いて。このまま前に歩くんだ。ただ出口だけを見て」
おし殺した声でささやく。
「僕が合図したら、出口へ全力で走るんだ」
いまさら引き返せない。後ろに逃げても逃げ切れない。
幸い、出口はすぐそこだ。
近づいてくる捕食者に気づかないふうを装って、前へと踏み出す。木の枝の杖を握りしめて。
強烈な恐怖が昂ぶりに変換されていく。
(最悪でも紺だけは現世に戻してみせる)
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