第29話 闇宮〈4 神憑き〉
この場所に入れるようになったのは父のおかげだろうか。石田先生と呼ばれている捕食者は、森を歩きながら回想する。
かれの父親は若いころ、酔うと妻や幼い子供たちに手を上げる男だった。よくある悪癖だったが、子供たちのほうが体格が大きくなるころには暴力はやんでいた。そのため親子の仲に決定的な亀裂が走るまでには至らなかった。
やがて数十年が経ち、教職についていた捕食者は老いた父親を引きとった。長男であり、独身でもある自分が父を引き取るほうが、ほかの兄弟に任せるより筋だろうと思ったからだ。すぐに後悔することになったが。
引き取ってすぐ、父は肝臓と腎臓の障害によって、もって数年と余命を宣告された。長年の不摂生のつけが回り、老いた体の中身は生きながら腐りかけていたのである。
『生き肝や。肝持ってこい』
父は七十を越していていたが、よほど死にたくなかったのだろう。怪しげな民間療法にすがりはじめた。知り合いである罠猟師を通じて山野の獣を生きたまま届けさせ、手ずからそれをさばき、内臓を生で食べるという常軌を逸した行動に出始めた。殺して取り出したばかりの湯気が立つ生肝でないと病は治らないと言って。
制止しようとしても効果はなかった。医者や子供たちがどう諌めても怒鳴り散らして聞く耳もたず、父は周りの目を盗んで獣の腹を開きつづけた。猟師が獣の供給をやめると、近所の犬猫や鶏を盗んでまで血なまぐさい行為を行った。なにかに取り憑かれたかのような一心不乱さだった。
痴呆症の一種と医者は診断を下した。
もちろん捕食者は、ただひとりの同居人である父の奇行に耐えかねていた。辟易していたなどという生易しい言葉では言い尽くせない。屠殺場と化していた台所や外のガレージは、あのころつねに異臭がこびりついていた。シンクやコンクリートの床にあふれた血と臓物、断末魔の獣のまき散らす汚物……疲れとともに憎悪は蓄積していった。
力ずくでやめさせようとすると父は常軌を逸した勢いで暴れ、寝ているあいだに包丁をかれの目に突き立てようとした。このけだものを引き取りなどしなければよかったと、捕食者は何度後悔したかわからない。しかしその時点ではもはや、父を捨てることもできなかった。情ではない、そんなものは最後の一片までかき消えていた。ひとことでいって世間体のためだった。この男をうかつに解き放てば、穢れた所業がおおっぴらに知れ渡るかもしれないのだ。
戦々恐々としながらも耐えられたのは、希望があるからだった。
獣の肝をどれだけ
“まもなくこいつは死ぬだろう”
“頼むから一日でも早く死んでくれ”
だが、刻々と迫る自らの死を、父はだれよりも実感していたのだろう。死への恐怖で狂った頭が、ついに最大の禁忌に手を染めさせた。
ある晩捕食者が帰ると、父は台所にいて、いつものように獲物の腹を裂こうとしていた。いまでもありありと思い出せる。不可解な笑みと死相を浮かべた、むくんだ父の顔。肝障害で黄色く染まった白目に血管を走らせながら、出刃包丁をかかげている老人。慣れたその姿に捕食者は、もう疲れ以外のなんの感情も抱かなかった。
ただその日が常と違っていたのは、裸に剥かれた獲物の死骸が通常の獣ではないことだった。
息絶えてシンクに横たわっていたのは、近所の男児だった。
『なんで治らないのかわかったんや』死んだ男児の腹に包丁を入れながら、父は嬉しそうに言っていた。『肝の病には肝が薬になるちゅうても、同種の肝でないとあかんのや。猿や猫の肝じゃ効かん、必要なのは人の肝や。考えればあたりまえのことやなあ』
縛られた幼い骸の首には、両手で絞めたあとが残っていた。
捕食者はめまいと虚脱感を覚えた。
うんざりだった。本当に本当にこの男にはうんざりだった。これで自分はなにもかも失うことになる。こいつのせいで。
“いや”
頭のなかに声が響いた、かのように感じた。
まだ間に合う。まだ世間体も職も失ってはいない。
この状況を放置すれば失うことになるが、行動
捕食者に決断をうながした心の動きは、自身でも説明するのが難しい。
“いまのうちに片付ければ大丈夫”だと、なぜかわかったのだ。だれかが耳元でささやいたような気がしていた。
なにが大丈夫なのかそれを自問すらせず、捕食者は動いた。
かれはいつもどおりにスーツを脱ぎ、椅子にかけた。足元には、父が男児を縛った余りであろう縄が床に落ちていた。それを拾い上げ、一心不乱に腹を切り開いている父の後ろに歩み寄って、老いた細首に巻きつけた。背中合わせにおぶるようにして父を吊り上げ、気管と頸動脈を一気に絞る。
ほどなく、もがいていた父の動きが背中で止まった。糞尿を漏らしたその汚い死体は、そのまま欄間に吊り下げておいた。自殺に見えるよう足元に椅子も転がしておく。
問題は、腹に包丁を突き立てたままの男児の骸だった。血痕が床に広がる前に、大きなビニールの風呂敷に包んだ。
それからなんの苦もなく、捕食者は初めて闇宮の入り口を開けて骸を捨てた。
暗い社に。
どうやって来たのかすら説明できない。穢れきった台所から、扉を開けるよりも簡単に、「そこにある世界」に踏み出したとしか言えなかった。
自分がなにかに選ばれて人の世の理から抜けだしたことをうっすらと感じ取っていたが、そんなことは、どうでもよかった。
これまでの生活は壊れないという深い満足だけがあり、それが重要だった。
現世に戻るとかれはみずから通報し、父は病を苦にして自ら首をくくったのだろうと警官に語った。とつぜんの事態に動揺をあらわにして/一方で病んだ父から解放された安堵をのぞかせ/さらにその安堵を恥じてみせ/最後に一抹の悲しみを面ににじませる。もちろんすべてが計算された態度だった。冷えた思考での非の打ちどころのない演技に、警察は
男児のことについては、おくびにも出さなかった。そんな子供は家に来ていない。
このときの男児の消失がのちに「播州の連続神かくし事件」の始まりと呼ばれることになる。
そう、始まりだった。
捕食者が自分に備わった使命に気づいたのは、それから二ヶ月ほど経ってからだ。
頭の奥底から、これまで知らなかった自分が訴えるのだ。
“もっと死を捧げなければならない”
“あの世界をこれからも満たさなければならない”
使命感の高ぶりは、衝動に近かった。
なぜそのようなことをしなければならないのか、それをいちいち考える必要すらなかった。どうやってあの世界に渡ったのかを説明できないのと同じように、かれにとってあまりにも自明のことだったのだ。
実際に夜の町で適当な獲物を見つくろい、闇に引きずりこんで自由を奪ったのちゆっくり解体する。慣れないうちは不手際も多かったが、しだいに技術は向上していった。
迷いは一切なかった。これはなすべきことであり、清らかな奉納なのだ、父のように見苦しい我欲で動いているわけではない。むせ返るような血と臓物のにおいのなかで使命感は充足し、かれの心は澄み渡っていった。
むぞうさに拾いあげた樹の枝の先を、土の露出した地面につけた。泥をひっかき、×印をいくつかつけていく。
“少し前にはこの繁華街で男子高校生を選んだ”
くぐもった低い声でつぶやく。
“四ヶ月前には山菜採りの女をこちらの渓谷で”
頭のなかに描いた明町周辺の地図に、かれは印をつけていた。
世間でいうところの「神隠し」が起きた場所、つまり自分が獲物を狩った犯行現場を。
地図にマーキングして犯行を思い返すこの行為は、悦に入るために行っているわけではない。自分の身を守るための分析だった。
これからは犯行に、可能な限りパターンを生み出してはならない。
不審を抱かれるかもしれない要素を、今後は極力排除せねばならない。
狩り場が近隣の市や町に集中しているのはもう諦めるほかない。人の死を求めるあの衝動はとつぜん来るし、数日と抗うことはできない。たびたび不自然に遠出するより、土地勘のある近場でいつものように行動しながら、孤立した獲物を見定めるほうが安全だろう。
実際、人を手にかけるようになってから数年たつが、捕食者は警察にマークすらされていない。もっともそれは、殺した者の死体が出ないことが大きかったが。
遺体が確認されなければ、ただの失踪事件であって殺人事件にすらならない。
現にならなかった。これまでは。
“あの祭りの夜からすべてがおかしくなった”
捕食者は眼鏡の位置を直し、瞳の焦点を宙に据える。
男子高校生を殺したときだ。手首足首を切断したのち数時間かけて、煮えた油を少しずつかけまわして殺した。そのあとは火を放って適当に焼いておいたはずだった。
現世に戻ろうとしたとき、石畳の回廊で捕食者は獣の牙に紐を通したアクセサリーを見つけた。
これはなんだと疑問を感じたのを覚えている。こんなものをあの男子高校生は持っていただろうかと。これまで切り刻んできた犠牲者たちのものでもないはずだ。
不安が胸に兆し、あとで調べてみようと捕食者はそれを拾ってポケットに入れた。それが過ちだった。あのときとるべき行動はただひとつ、即座にあの見慣れない品を処分するべきだったのだ。少なくとも現世へ持って帰ってきてはならなかった。
おのれを痛罵してももはや遅い。
誤った判断が、その後のさらなる失態につながった。
戻った現世においてその夜のうちに、獣の牙のアクセサリーを捕食者は失ってしまった。
“あの二人を殺しておくべきだった”
きりきりと音が聞こえる。自分が歯を延々と軋らせる音だ。身の回りの人間を消せば疑われる可能性は高まる。あの屑どもの腸をこれまで引きずり出さなかったのは、ただそれだけが理由だった。
その逡巡が、今日の窮地をもたらした。
殺して焼いていたはずの男子高校生の体がどういうわけか、現世に出てきてしまったのだ。
驚いたというだけではすませられなかった。首に破滅の縄がかけられたことにかれはすぐ気づいた。
拾ったアクセサリーと合わせて考えれば事態は明らかだ。アクセサリーの持ち主であるだれかがかれの聖域に踏み込み、死体を動かしたのである。
捕食者はそれまで、聖域には自分しか入り込めないと信じていた。他者は自分が引きずり込んだ獲物だけしか存在しないと。それが誤りであったと知ったとき、かれの不安と警戒はたちまち極限に達した。それは黒く凍えた殺意に変わった。
いったいだれが。それが最大の問題であった。
だれが聖域に侵入したのか……その者の正体さえ知っていたなら、捕食者はすぐにでもそいつと接触し、始末していただろう。
侵入者がもしもアクセサリーを取り戻すようなことがあれば……それがどういうルートをたどって現世に戻ってきたのか、そいつは突き止めようとするだろう。そうなれば、捕食者の正体に遠からず気づくだろう。捕食者の行ってきた行為は白日のもとに暴かれるだろう。
そうさせてはならなかった。
“この先はもう焦ってはならない”
捕食者は、自分のこの聖域が、闇宮と呼ばれてきた場所であることを知らない。獣の牙のアクセサリーが牙笛という呪具だとも知らない。
捕食者は呪術のことをなにも知らない。
けれども、自分の力がおよそ人界の理にのっとったものでないことはわかっている。
そして、自分と同じような力を持つ誰かの存在を危惧している。その誰かが自分を探してきたと確信している。このままでは自分の行ってきたことが明るみに出されてしまいかねないと、承知している。
問題は放置できない。
“そうだ……十妙院は放置できない”
捕食者はつぶやく。
捕まるわけにはいかないのだ。使命がある。
聖域の中心である、鳥居の立ち並んだ空間をかれはいとおしげに思い浮かべた。
剥いだ皮膚の一部や爪や髪や生殖器や腸を並べるときはあの場所に置くようにしていた。もちろんきちんと法則はある。かれはどの部位を
気がつくと、かれ自身が切り刻んできた人々の影――幽霊とでもいうのだろうか――が、木々の陰からかれを
恐ろしくはない。影たちはかれになにもできないし、ここから逃げられもしない。そういうふうになっていた。
そろそろ行こうと捕食者は立ち上がる。
この聖域が満ちるまであの影たちを増やしていかねばならない。さしあたり十妙院……かれの生徒の少女がまもなくそこに加わるだろう。
しかし、妙なことだと捕食者はいぶかしむ。
今度の獲物である十妙院は痕跡をほとんど残していない。泥についた足跡、森の下生えに残る通過跡、無理に通ったために折れた枝、狩りにおいて追われる獲物は、そうしたものを残していくのが普通だ。今回はそれがない。
それに移動が速い、と捕食者はいよいよ目を細める。闇のなかでめくらめっぽうに歩きまわっているとは思えない速度だ。
かれはしばらくたたずんでいた。
“ならば”
それから、きびすを返して向かうべきところへ向かった。
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