第28話 闇宮〈3 死者三体〉

 異界の森は、空気が粘って生ぬるかった。


 視界を塗りつぶそうと迫ってくる密度の濃い暗黒のなか、ひとり森に踏みこんだ山内くんは、やむなく先へと進んでいる。

 胸中で、かれだけをここに送りこんだ銀に憤懣をぶつける。てっきりあの老女もついてきてくれるとばかり思っていたのだ。その姿が消え、この暗い世界での手助けは期待できなくなった。心もとなさはいささかどころではない。


 さすがに、わざとかれひとりを行かせたわけではないのだろうが……


(僕ひとりしか“この世界”の入り口をくぐれなかったんだろうか)


 分厚い苔をふみしめながら、かれはあらためて周囲の闇を見渡した。


(ここは、前に来たときと同じ場所じゃない)


 以前、夢を通じてこの世界に入ったときは、石畳の道があり、鳥居が列なっている場所を走っていた。

 どれだけ禍々しい気を放っていようとも、あれらは人工の建造物だった。比べて、この森には人の手が入った形跡は微塵もなかった。


 そして、息づくすべてが悪意に満ちているように思われた。草はいやに硬く、靴の裏を押し上げ、葉の縁に触れる肌を切ろうとする。木の根は足をひっかけようとするかのように土から盛り上がっている。木々は明らかに、植樹や間伐といった人による管理がいっさいなされていない。そしてテレビで見た屋久杉を思わせる、巨人さながらの大木がそちこちに鬱蒼とそびえていた。樹間は驚くほどに広かったが、多くの種類の草と、濃密な闇がその空隙を埋めていた。


(……でも、同じ場所じゃなくても同じ世界だ)


 それだけは確信できた。

 空気が、前踏み込んだ社と同じだからだ。


 闇が濃すぎる。黒すぎる。黒気が凝して液化しているかのようだ。山内くんの目をしても、ほんのおぼろげにしか周囲の光景は捉えられない。木々の向こうになにがあるのか目を凝らしても、森の奥の様子まではわからない。地の底に通じる螺旋階段をどこまでも降りているかのような気がしていた。


〈ふふ……ふふふ……進んでしぬ……すすんでしぬ……〉


 頭上の大樹のこずえから、ささやき声が降ってきた。

 山内くんは無視して足を速める。上を決してあおがなかった。


 こちらに触れられるわけでもない弱い霊には反応を返さないのがいちばんいいのだと、紺に聞いたことがあった。

 しばらく気配は追いすがってきていたが、やがて舌打ちの音が聞こえ、〈馬ぁ鹿……〉ざらざらした声が響き、薄れていった。

 ほっとして山内くんは足取りをゆるめた。


 ぐいと腕をつかまれた。


 横を見るとはさみやボールペンを顔中に突き刺された女がいた。尖ったものの柄で顔の皮膚が見えないほどにびっしり埋め尽くされている。首から下は裸で、顔よりももっと破壊されていた。画鋲がびょうを刺された眼球が山内くんを覗きこんでぐりぐり動き、血混じりでピンク色になった透明な体液を涙のように流した。〈馬ぁ鹿〉狂った笑顔が嘲ってきた。


 恐怖に脳髄を痺れさせながらも山内くんは迷わなかった。思いきり突き飛ばす。女はけたたましい笑い声をあげて倒れた。〈し。ぬ。しぬしぬしぬ〉なめくじの粘液のように血の跡を引き、ずるずる這いずって遠ざかっていった。


 あいつら、こちらに触れられるじゃないか。山内くんはぞっとする。


 同時にアオオニに拉致されたときのことを思い出した。陰の気が極まった世界では霊が活性化するのだと、かれはそういうことを言っていたように思う。トヨタ・クラウンの車内でも荒御魂たちに囲まれたが、いまの状況はあのときよりさらに悪かった。

 考えたらおかしくなりそうで、山内くんはふたたび歩き出す。悪意と狂気が満ちたこんな世界にこれ以上留まっていたくなかった。


(紺を見つけてふたりで出なきゃ。でもどこに行けば)


 けんめいに焦りをこらえる。どこに紺がいるか、どうやったらここから出られるのか、どちらもあてがあるわけではなかった。

 しかし、立ち止まってゆっくり考えるわけにもいかない。先ほどから、いまのように霊がかれに寄ってきていた。群がるかれらにたかられたくなければ、移動しておくしかないのだった。


 前方の木の根本にぼんやりと立ち姿が見えた。高校生の制服を着た少女だった。おいでおいでとばかりにゆっくり差し招いている。バナナの皮のように顔の皮膚をのどまで剥き下ろされており、それは前掛けのように血まみれのセーラー服の前に垂れ下がっていた。


 生者ではないと見てとり、すぐさま山内くんは進路を変えようとした。

 けれど心にひっかかるものを感じ、かれはふりむいた。


 その死者からは嫌な感じがしなかった。かれの目にほかの霊が“濁って”見えたのに対し、彼女の霊は透き通って映った。同じ血まみれの姿であっても。

 顔を剥がれた少女はかれを招いたのち、背を向けてゆっくりと歩き始めた。山内くんはしばしの逡巡ののち、そのあとをついて行くことにした。自分の直感を、というより目を信じることにしたのだった。


 ともすれば闇に薄れそうになる少女の霊の背を追い、山内くんはけんめいに森のなかを歩く。

 その霊をほんとうに信じていいのかなど、いまさら迷えなかった。奔騰しそうになる恐怖と疑念を必死で押しつぶし、かれは思考を放棄してただ足を動かし……


 遠くに、一瞬だけ火が見えた。

 はっとして山内くんは立ちすくんだ。


(今のは)


 気づけばかれを先導してきた霊の姿は消えていた。山内くんは自分でその火の持ち主のもとへと駆けはじめる。途中でもう一回、木立の向こうに火が燃えた。もはや見間違えようがなかった。あれはあの子の口から出る火だ。

 もっと近づくと、森のなかのひらけた空間で、木にすがるようにして紺が立っているのが見えた。


「紺!」


 山内くんは声を弾ませながら彼女の前に飛び出した。とたん、紺は弾かれたように体をひるがえそうとした。けれどもその身ごなしからはいつもの精彩が失せており、彼女は足をもつれさせて倒れた。


「厭ぁっ!」


 彼女の叫びに、山内くんも凍りついた。

 がくがく震えて表情を歪ませ、紺は尻もちをついたまま後じさろうとしていた。それから、自分の唇から漏れる火の明かりで、相手がかれであることをじわじわと視認したようだった。


「あ……や……山内?」


 山内、と確かめるようにもう一度彼女は呼んだ。恐怖で見開かれていた瞳が深い安堵で一気に弛緩し、涙が盛り上がり、


「ふざけんなぁ、寿命縮んだじゃねーかぁ……!」


 山内くんがそれまで彼女から聞いたことがない弱々しい涙声で、紺は罵った。

 山内くんは答えられない。強い衝撃を受けていた。


(紺が、すごく怯えてる)


 あの紺が――かれの前ではいつでも不敵な態度で、なにも恐れるものはないとばかりに胸を張っていた少女が。


 追い詰められて、こんなにも憔悴しきっている。


「おまえ……なんでこんなとこに来ちまってるんだ」


 へたりこんだまま、紺がたずねてくる。山内くんは十妙院家の蔵から入ったことを伝え、自分も重要な事をたしかめた。


「紺。もしかして、ここじゃ君でも周りが見えない?」


 紺は、その問いに力ない弱音で応えた。


「ぜんぜんだめだ。

 秘火あけだまひ吹いて照らしたら少しは見えるけど……それも身の周りまでがやっと。それでさえ、明かりでヤツに居場所を教えてしまうからほとんど使えない。依子さんが……アッコの姉ちゃんの霊が森のなかでずっと手を引いてくれなけりゃ、ここまで逃げてもこれなかった。いまはどこかにいっちゃったから、怖くて火を使っちまったけど……」


 こっくりさん事件のときのアッコという少女を山内くんは思い出す。たしか、神隠し事件で行方不明になった姉がいたという話だった。

 はたと思い当たって、山内くんは聞いた。


「紺。その依子さんってもしかして、高校の制服姿で、顔が……」


 かれを導き、紺のもとに連れてきた少女の霊。


「そうだよ」紺はひざを抱えて涙ぐんだ。「酷い殺され方したのに、依子さんは最後まで正気だった。だから、あまりおかしな霊になってないんだ。彼女の体はそこに捨てられてる」


 紺の指さした方向の芝生に、白骨が散らばっていた。

 痛ましい惨劇のあとを見つめて山内くんはごくりと固唾を呑む。紺がぐずっと鼻をすする音がした。


「笑えよ、くそっ、この真っ暗な世界じゃオレにはなんにもできない。周りが見えねーんだもん、一人じゃまともに歩くこともできないよ。

 引きずり込まれてわかった。ここは……“闇宮”は、祝部の神が張った結界の中なんだ。現世から切り離された、密閉されてる世界だ。ここに入ったら、霊さえおいそれとは出られない。

 結界だとわかってても、破るどころか、結界の境目すらオレには見つけられない。祝部の神官ひとりを倒すこともできず、殺されるのを待つだけだった」


「……祝部の神官?」


「オレの術、あいつにはなにも通じないんだ。ヤツは見せかけじゃなくて本当に呪術の素人っぽいのに。ただひとつの祝部の禁呪“闇宮詣くらみやもうで”だけを備えた、闇を見通す見鬼があるだけの素人だ。でも、ここじゃあいつが無敵なんだ。

 それに、怪物だ……穢れの神を宿したからか、もともとそうなのか、心の根っこが人じゃない」


 消耗しきった口調でぼそぼそ言い、紺はひざに顔を埋めた。


「ちくしょ……だめだ、怖い……オレ、依子さんの仇を討たなきゃなんないのに……」


 うなだれる彼女を見て、山内くんはおぼろげに理解できた。暗闇をさまよったこの数時間、精神を責めさいなまれていたのはかれではなく紺だったのだ。

 このどす黒い闇は、ただそれだけで人の心を蝕む。

 枝と葉に覆われた頭上を仰いだのち、山内くんは聞いた。


「紺、ヤツってだれ? いったいだれが君をここに引き込んだ、神かくし事件の犯人――」


  いいいいい……


 口を閉じた。

 少年は微動だにしなくなる。たったいま、紺のポケットのなかで、牙笛の音が鳴ったのをまちがいなく聞いたのだ。


 鋭敏に発達したかれの危機センサーが叫んだ。“危ない”と。


 不安げに顔を上げた紺の手首をつかみ、引っ張り上げるようにして立たせ、「音を立てないで、隠れる!」


 紺の手を引いて山内くんは密生したやぶの裏に回りこんだ。ふたりして葉の陰に座り込む。紺の火が万一にも漏れないように、彼女の口を後ろから手のひらでふさいでおく。ほとんど抱きとめるような格好で、少女の汗のにおいが間近で香った。


 駆けてくる足音が森に響いたのは直後だった。


 その人影はもの言わず、先ほどまでふたりがいた場所に踏みこんできた。右手にはいやに錆びた大型ナイフを持っている。ぴたりと立ち止まり、首を回してあたりの様子を確かめはじめた。


(あいつも見えてるんだ、この暗闇のなかで)


 山内くんと同じか、おそらくはそれ以上にはっきりと見えているのだろう。男の動きのなめらかさは昼間の森を歩くのとなんら変わりなかった。紺が言った敵に間違いなかった。

 山内くんの腕のなかで紺がひどく震え始めた。彼女の口をしっかり押さえておき、危険を冒して山内くんはふりかえる。葉のあいだから視線をその男に注いだ。

 顔に見覚えがあった。


(あの人は、学校の先生じゃないか)


 紺たちに石田先生と呼ばれていた教師だ。かれが神かくし事件の犯人――そうと知ったらさっさとこの世界から逃げ出して警察に教えなきゃ、と考える。だがその男を見つめるうちに、言いようのない戦慄が山内くんをとらえた。

 その男はまちがいなく生きた人間だった。

 けれどその瞳はうろのようだった。表情の浮かんでいない顔はどことなく虫を思わせた。


 捕食者は歩き回りながら、散らばった人骨の一片を踏み折った。わざと踏んだという感じはしなかったが、骨が見えていなかったはずはなかった。山内くんは総毛立つ。気づいたのだ。こいつは、かつて自分が殺した人の骨になど、一切なにも感じていないのだと。この男にとっては、そこらに落ちた枝と同じものにすぎないのだと。


(とにかく、ここはやり過ごそう)


 可能な限り頭を冷静に保とうとしつつ判断する。

 見つかればふたりで森のなかを逃げられるところまで逃げるしかない。けれど盲人同然になったいまの紺の足では、いくらかれが手を引いても逃げきれるとは思えなかった。一度でも木の根や地面の段差につまずけばそれだけで致命的だ。隠れ通すしかなかった。

 しかし、横手から音が聞こえた。


〈……えあああ〉


 押し潰される寸前の獣が発するうめき。印象は、それが一番近かった。

 真っ赤な犬のようなものが這いずっていて、かれらに近寄ろうとしている。


〈おおおおええあああええ〉


 一目見た瞬間、山内くんの食道を酸っぱいものが急にせり上がってきた。


 真っ赤な犬と見えたのは、かつて人間だったものだった。


 たぶん若い男性だろう。裸にされたのち、かみそりのような鋭利な刃物で体表のあらゆるところを少しずつ削がれたらしく、血まみれという言葉ではとても足りない有り様になっている。特に顔は凹凸が完全になくなるまで切り刻まれ、下あごが舌とともに頭部から切り離されていた。足はひざから切り落とされ、腹の裂け目からはゴムホースのような長いものをこぼしてずるずると引きずっている。


 山内くんのほうも、声を出さないのがせいいっぱいだった。

 あっちに行け、あっちに行け、あっちに行け――山内くんは拷問死した無残な姿の霊を見つめながら必死で念じた。いまちょっかいを出されたら石田先生に気づかれる。

 指を残らず落とされた手のひらが、救いを求めるように山内くんのほうに突き出された。


 山内くんの見るところその霊は、かれらに害意を持っている様子ではなかった。ただ苦痛の記憶から解放されず、なにかにすがろうとしているだけの哀れな存在だった。

 受け入れてやるわけにもいかなかった。山内くんは息をつめて後ろを再度ふりかえった。石田先生の姿はすでにない。


(立ち去った?)


 とても安心はできず、山内くんは目を走らせて周囲を確かめ……危険がひとまず去ったことをようやく確認してから立ち上がる。まだ座りこんでいる紺に小声でせっついた。


「ここを離れよう。紺!」


 少女は震えたまま動かなかった。その視線の先では無残な姿の霊が苦痛のうめきをこぼしている。


「……紺?」


 様子がおかしいと感じて山内くんが肩に触れたとたん、少女は涙をこぼしてしゃくりあげた。


「やだ……やだよぉ、こんなふうに死にたくない……」いましがたの一幕は、極度の恐怖と疲労と無力感で追いつめられた彼女の意志、それを砕く最後の一撃になってしまったようだった。「楓ぇ……おかーさん……」


 気丈さが失せきって幼子のように泣くその姿に、山内くんは双眸をみはった。今度の驚きは長続きしなかった。ああ、とかれは嘆息する。


 悟ったのだ。紺は今日はじめて怖れを知ったのだと。


 泣きじゃくる可憐なほどの姿に、幻滅はなかった。ただ彼女を追い込んだものへの怒りと、使命感と呼ばれるであろうものだけが燃えていた。

 紺もひとりの女の子なんだと、あらためて山内くんは実感していた。パパの言うように、男は女の子を守らなきゃならない。


「大丈夫だから、紺」


 彼女を立たせ、ゆっくりと区切るように少年は言う。


「僕にはこの闇が見える。いまからは僕が君の目になる。

 君は死なない。絶対に」


 これは僕にとっては慣れていることだ。山内くんは心につぶやく。恐怖することに慣れている。逃げ出すことに慣れている。獣のように怯えつつ、生き延びるためにあがくこと、ただそれだけは慣れている。

 沈黙しじまの闇へと、山内くんは彼女の手を引いて歩き出した。

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