第27話 闇宮〈2 行きはよいよい〉

 校長室に逃げこんだ紺は、みずからを呪う。


(オレはどうしてあの教師を疑わなかったんだろう)


 神隠しはアオオニの行動する範囲で起こるのだと、彼女は思ったことがあった。違った。アオオニ非行少年の動き回る場所が、真犯人すなわち石田先生補導員の行動範囲と重なっていただけだ。


 先刻だってそうだ。牙笛を見知っていると石田先生が言ったとき、絵美より先にまずかれを疑ってしかるべきだった。なぜあんなうかつな真似をしたのだろう? 堅物で偏屈な凡人教師というかれの仮面に騙されきっていたから? かれが呪術など迷信だとふだんから公言していたから? それとも、これもかれの力のひとつなのだろうか。薄暗がりにまぎれこむように、人の注意を自分からそらさせておくことが……


 どれだけ悔いても、もう手遅れだった。


 また校長室の扉がこつこつノックされはじめた。向こう側から男の声が呼びかけてくる。物憂げで、抑揚に乏しく、穏やかといってもいい声。


「十妙院、開けなさい。鍵を開けるんだ」


 暗い室内で、蒼白となった紺は扉を見つめる。


(なんで)


 極度の焦燥で、呼吸がせわしなくなっていた。歯がカチカチ鳴るのを抑えようと、右のこぶしに噛み付く――ふっ、ふっと荒い息が唇の端から漏れた。


(なんで効かないんだよ……オレの術が)


 斧と石田先生の腕をかいくぐって職員室から逃げ出したとき、彼女は紙の形代を用いて幻惑めくらましの術を使った。幻で作ったもうひとりの自分に、廊下を逆方向に駆けさせたのだ。その次には霊縛術を使ってかれを拘束しようとした。

 どちらも効かなかった。

 石田先生は、分身には一瞬気を取られただけで紺を追ってきたし、霊縛術にいたってはほんの刹那の効果すらなかった。


 結果たちまち追い詰められて、彼女はすぐそばの校長室に逃げこんでいた。

 とっさの判断だったが、時間稼ぎとしてはもっとも有効だった。

 この校長室の扉は、校内の他の部屋のそれとは仕様が違う。内側から鍵をかけられる造りであることと、戸板が半透明のガラス窓をはめこんでいない一枚板であることだ。そうでなければ、石田先生はガラスを割って容易に室内に踏み込んできていただろう。


「そこは遊び場じゃないんだ……おまえは出てこなくてはならない」


 ぼそりぼそりとドアの向こうから、低く男の声が響く。


「出てきなさい、そうしたら先生が遊んであげよう……鬼ごっこでも、かくれんぼでも……女の子の遊びでもいいぞ。雛人形を使ったままごとでもしようか」


〈明かりをつけましょぼんぼりにぃぃお花をあげましょ桃の花ぁぁ〉


 暗い天井や壁から、狂笑混じりの唱和が響く。

 見ればずたずたになった人の顔がそこかしこの壁面に浮いていた。眼球をくり抜かれた若い男性、鼻を削がれてまぶたを切られ顔中に釘を打たれている少女、顔の皮を剥がれたどちらの性別かわからない者。みな一様に笑っていた。


 もはやスマートフォンを介さずに声は直接聞こえるようになっていた。陰の気が極まって霊が具現化しはじめているのだと紺は理解した。

 そして悪意まみれの死者たちは明らかに狂っていた。拷問の苦痛と絶望で最期の記憶を塗りつぶされて、まだ生きているうちに発狂していたと思われた。


「なぜ黙っている……礼儀がなっていない、それは感心しない態度だ」扉の向こうで、ひとごとのように石田先生がつぶやいている。そこにいつしか、獣のようにガリガリと扉をひっかく音が混じっていた。

 どれが石田先生の立てる音か、霊たちの立てる音かわからなくなっていた。


「……出てこい糞餓鬼いいいっ!」


 一転して怒号とともにどんとすさまじい音がドアを軋ませた。


 呆然として紺は凝視する。裂けた戸板の隙間からのぞいている斧の刃を。

 斧などが学校の備品であるはずがない、にも関わらずそれは用意されている。明らかにこの異常な空間は、いつもの校舎ではなかった。


(逃げ、なきゃ。すぐに)


 紺はみずからの手をいっそう強く噛み、その痛みで震えの止まらない体を叱咤する。がくがくとひざが笑っていた。

 校長室の戸は数分ともたず破壊されるだろう。彼女は殺される。ここにいる霊たちと同じように、想像もできなかったほど残酷なやり方で。


 紺は校長室の窓をふりかえる。

 霊たちの赤い手形がべたべたとついたガラスの向こうに、先の一切見えない暗黒があった。


(外へ……あの闇のなかへ逃げるしか、でも)


 絶望が彼女の心臓をわしづかみにする。


 紺は、それなりに見鬼の力を持っている。だが外は黒霧さながらに濃い陰の気に塗りつぶされ、ほんの一メートル先すら見通せない。自然の闇ではありえなかった。

 この闇にはおそらく殺された者の霊や、別の妖しいなにかがさまよっているだろう。なにより……後ろから来る殺人者は、


(石田センセの力は、山内のそれの強化版だ……)


 彼女の霊縛術を歯牙にもかけない強力な術耐性と、幻惑術の通用しないけた外れの見鬼。かれはこの墨汁溜まりのような闇ですら見通せるのかもしれない。

 となると、窓から外に逃げだせば、自分の手すら見えない暗闇で一方的に追い回されることになる。怯え、神経をすり減らして消耗し、そうして逃げまわってもついには捕まって惨殺されるだろう。早いか遅いかの違いでしかなかった。


(それでも、ここにいたら確実に死ぬもん)


 背後で斧の二撃目が加えられ、扉の裂け目がめりめりと広げられる。石田先生の腕がぬっと裂け目から現れ、扉の鍵をまさぐりはじめた。

 間近に迫った死への恐怖と緊張で、嘔吐感すらこみあげる。

 外へ逃げるほか、彼女に選択肢はなかった。


   ●   ●   ●   ●   ●


浄闇じょうあんといい、この国の神はもともと闇を快しとする」


 山内くんに背を向けた銀が言った。


天岩戸アマノイワトという相反する神話もあるがそれは忘れておきな――もともとね、時の概念が違ったんだよ」


「とき? 違う……?」


「昼と夜、どっちが先に来ると思う?」


 急に問いかけてきて、かれが回答するのを待たず銀は自分で言った。


「現代の常識からいうと、昼が先と答える者が多かろう。だけど昔は、夜が先に訪れるものだと考えられていた」


 日没こそが一日のはじまりだったのだと。


「夜というのは、神、霊、鬼、妖、人知を超えたあらゆるくすしきものたちの活動する時。たっとばれていたのは夜、おそれられていたのは夜。夜こそが第一の時間、闇こそが第一の世界であって、人の時間である昼より先に来るものだった。

 つまり神界の朝――闇宮が開く時刻というのは、闇夜のはじまる時間に他ならない」


 すなわち夕方、逢魔が時だよ。


 そうつぶやくと銀は山内くんをふりかえった。その笑みを消した顔は山内くんにひどく不吉な印象を残した。それは腹を据えた者の表情だったのだ。

 人としていやしく、呪術者としておごそかに彼女は告げた。


「いましがた、紺の未来が詠めなくなったよ」


 なにを言われたのか、とっさに把握できなかった。


「お母様!」とつぜん、楓さんが悲鳴をあげて立ち上がった。


「どういうことですか、それは……あの子になにか」


「あったんだろうねえ」


 蒼白な娘に一瞥すら投げず、銀はつぶやく。他人事を語るかのような口ぶりだった。


「こうまですっぱり見えなくなると、明確に“闇宮”だとわかるね。関わった者をこの世から切り離して隠してしまう影に、紺は触れたんだろう。

 だがこれで、祝部の穢れた神をいまだれが宿しているのか絞り込むことはできそうだ、すぐにではなくとも。どう転ぼうが、紺が消えたことは無駄にはならないよ」


「お母様……あなたという人は」


 楓さんが気色ばんだ。つめよろうとしてか銀のほうへ座敷を一、二歩進み、かろうじて自制したらしくそこで立ち止まった。


「どこです。紺はどこから見えなくなったのですか!」


「××区の、自動販売機のある辻からだね」


 とたんに座布団を蹴立てるような勢いで、楓さんは座敷から飛び出していった。

 それを見送り、「いい大人だというのに、わが娘ながらいつになってもそそっかしいことだ」銀は代わって自分が室内に腰を下ろした。

 山内くんは楓さんの後を追って飛び出そうとしていたが、


「座りな」


 氷の重石のような銀の声に、腰を浮かせたところで動きを止めざるをえなかった。銀は腕を伸ばし、山内くんの目に眼帯のうえから触れた。

 ゆっくりと言い聞かせるように彼女は言った。


「あんたが行っても、もうどうにもならないよ。少なくとも、こんなものをつけてちゃあね。楓も余計な真似をしてくれるよ……あんたのその目は、封じるなんてもったいないことをしちゃだめだというのにさ」


「こんなこと、話している場合じゃないでしょう」山内くんは押し殺した声に非難の響きをにじませた。「紺が危ないんじゃないんですか」


「ああ。あの子はまず死ぬだろうね」


 聞くなりぱっと立ち上がった山内くんを、銀はふたたび止めた。「だめだよ。それをつけたままじゃ無意味だって言っただろ?」


 年齢にそぐわぬ美しい指が山内くんの眼帯を指し示しつづけている。


「でも、それがなければあんたは紺を助けられるかもしれないね。ほんの毛一筋ほどの望みだが……他のだれでも駄目なんだ。

 だから心を決めるがいいよ、祝部はふりべの跡継ぎよ。

 紺を助けたいなら、闇宮をも見るその目を使え。無事に帰れるとは限らない、あんたも向こうから帰ってこれなくなるかもしれない。そして仮に帰ってこれたとしても、あんたはもう常人には戻れなくなる。一度ほどこした封印を自分の意志で壊したならば、二度と取り返しはつかないのさ」


“一生、見鬼でいるしかないってことか”


 山内くんは眼帯に手のひらを当て、ぎゅっと押さえた。

 まぶたの裏に記憶がくるめく。この夏の。


 墓場の人魂。こっくりさん。極楽縄。

 柳の下の幻像。河虎岩。数え唄に群がる惨死した霊たち。

 思い返したくもないすべての怖ろしい影の向こうに――


 ひまわりのような笑顔の、夏の少女の姿がある。


「断っても恨みには思わないよ、自分の孫の命がかかっていてもね。この先のあんたの一生にかかわることだからねえ」


 うそぶく銀の前で、山内くんは眼帯をみずから剥ぎ取った。


「これで、どうしたらいいんですか」


 悔いの片鱗もない決然としたまなざしに、銀がかすかに口元をゆるめた。嘲笑ではない笑みをひらめかせたのもつかの間、彼女は「ついてきな」傲然たる面持ちを取り戻して言った。

 山内くんが連れて行かれたのは、あの蔵だった。


「でたらめな道順でいい、戸を開けてひたすら進むんだ。そしてくぐった部屋の数を数えな。十までいったらまた一からね」


 そう伝えると、銀はかれを先に行かせた。山内くんはことさらに声をはりあげるようにして扉を開け放った。

 暗く静かな、無限に連なる部屋をくぐり抜けてゆく。


「この蔵はじつのところ、闇宮の伝承を参考にして内部を作ってある」


 後ろからついてくる銀の声。


「あたしは若いころから、闇宮に興味があった。祝部の神の座す場所に行ってみたかったのでね……まあ、所詮はまがいものにしかならなかったが、ある程度似せることはできたんじゃないかと思うね。『そのものの空間』にはならずとも『通じやすい空間』にはなっているはずだ。ここは常に陰の気が強い」


 扉を開けるたびに、妙な肌寒さが増す。

 それのみではなく山内くんには見えている。

 視界の端をたびたびなにかが横切る。部屋のすみでうずくまる影がある。集まってきているのだと、アオオニに拉致された夜を経たかれにはわかった。


 銀がかれになにをさせているのかもわかった。

 まるで悪夢に誘う催眠術だ、と山内くんは思う。延々と数えるという単調な繰り返しの行為と、しだいしだいに強まっていく周囲の陰々滅々たる雰囲気。

 それでも戸を開け、叫ぶように数えることをためらいはしなかった。紺のことがある。いまはもう、怯える余裕など与えられていないのだ。


 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。

 よっつ。

 いつつ。

 むっつ。

 ななつ。

 やっつ。

 ここのつ。

 とお。

 ひとつ、ふたつ……


「そうさ、そのようにひとつふたつと……ことたまを集め宿し、異界を開く。

 心配いらないよ、青丹の跡継ぎみたいなひよっ子ならいざしらず、あたしであれば雑霊になど邪魔させずあんたを導ける。安心して数えてな。

 あんたなら闇宮に通じる道を開けるともさ、それが昔からあたしにはわかってた。だって幼子のあんたのどこかには、あたしでさえ詠めない部分がずっとあったのだもの……そうとも、見えないからこそ存在を感じる場合もあるのさ」


 銀が忍び笑っている。

 山内くんは一瞬だけ別のことを考えた。


 もしかしたら、もしかしたらだが、アオオニではなくこの人こそが、昔から僕に呪詛をふりかけていた張本人だったのではないだろうかと。


 アオオニがまったくなにも仕掛けていなかったとは思わないが……いや、きっとアオオニも手を出してきてはいたのだろう。小動物を殺して媒に使うなど、かれらしいやり口の呪詛も何度か受けていたのだから。だがそれを除いても、あまりにも昔から多すぎたのだ、ぎりぎり死ななかったような絶妙な具合の災難が。あれがもし加減された呪詛……山内くんを怯えさせ、いつか十妙院を頼るように仕向けるためのものであったなら……そんな巧妙な力のコントロールがアオオニにできたとは思えなかった。


(もしかしたら紺と僕が出会ったのも、紺が危険に巻きこまれたことも、僕が紺を助けたいと思うようになったのも、銀さんの計算のうちだったんだろうか)


 ……だがすべては推測にすぎなかった。それに、仮にそれが真実だったとしても、紺を助ける決意がいささかも鈍るわけではなかった。

 数える山内くんの後ろから、銀の呪歌が流れてゆく。


「此ノ道暗キニ徹ル也、忽チ昇リ降ル也、忽チ往キテ来ル也、ヲ連ネテ一二三ひふみ也……ひふみよ、いむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえに、さりへて、のます……」


 山内くんが「十!」と挑むように叫んで次の扉を開け、踏み込んだときだった。突如、背後の唄が途切れた。


 ふりかえりかけて、山内くんは凍る。


 異様なほどしんと静まり返った夜気。足元は草むら。ねじくれた枝を絡ませあって見たことのない種類の木々がたちならぶ、嫌に気配の濃い林の中だった。

 眼帯を取り去った山内くんの目をしても、ほんの月明かり程度にしか見えない。

 今度こそふりかえると、扉は影形もなかった。

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