第肆章 まがつみくらの
第26話 闇宮
「はい……これで終わり」
盆の終わった翌日の昼。符がいたるところに張られた、十妙院家の結界の間である。
正座した山内くんの後ろで、かれに眼帯を装着させながら楓さんが言った。
「これで君は、現世の外にあるものを見ることはなくなるでしょう。その眼帯、しばらく外してはいけませんよ」
柔らかい声で、しかししっかりと釘を刺してくる。うなずいた山内くんは今しがた着けてもらったばかりの眼帯――黒絹に金糸で「禁視鬼」という字が入っている――に触れてみた。
これまでかれを呪詛してきた元凶と見なされるアオオニは、十妙院家によって処理された。術が使えないように念入りに封じられたうえで、遠い土地の「しかるべき矯正施設」に預けられることになったらしい。アオオニの父親が嬉々として保護者同意書にサインしたと聞いて、山内くんの心には一抹の後味悪さが残った。
ともあれ、かくして山内くんに見鬼を残しておく必要もなくなり、盆が明けるやすぐさまかれの目は封じられることとなった次第である。
山内くんは座った楓さんに向き直ってたずねる。
「あの、いいんですか。覆うのが右目だけで」
「かまわないわ。どちらか一つでもいいから“目を隠す”という行為に意味があるの。見鬼の能は左目のぶんも封じてあるから大丈夫よ。もう視界におかしなものは映らないはずだけれど」
言われてみればそのとおりであった。この半月かれにつきまとっていた視界の違和感が綺麗さっぱり消えている(もっとも慣れてしまっていて、怪しいものが見えるとき以外は気にもならなくなっていたが)。
思ったよりもずっと見鬼を封じるのは簡単に済んだようであった。半ば安堵、半ば拍子抜けしながら山内くんは質問を重ねる。
「外してはだめな期間はどのくらいですか」
「
外れてしまったときはすぐに着け直せば大丈夫、万一眼帯を紛失したらなるべく目は閉じるようにしておいて十妙院に連絡すること、決して自分の意思で怪異を「視」ようとしないこと――など細々した注意を楓さんは山内くんに与え、
「特に、最後のは守ってね。常人でいたければみずからの意思で見鬼の力を使っては駄目。
今日、君は外科手術したのだと思ってちょうだい。縫った傷口が完全に癒える間もなく、それを無理にこじあけでもすれば、取り返しがつかないことになりかねないわ」
「取り返しが……死ぬんですか?」
「いいえ、そういうことはないけれど、二度と『見えない人』には戻れません。一生、見鬼として生きなければならなくなりますよ。
怖い目にはもう遭いたくないのでしょう?」
もちろんですと山内くんは深く首肯しかけた。だが楓さんが続けた言葉で、かれの声は声帯の奥にひっこんだ。
「呪術に関わるすべてのものに……今後はわたくしたち十妙院にさえも、必要があるとき以外は関わらないほうがいいでしょうね。それがあなたのお父様の望みですから」
やんわりと突き放す言葉。けれどもつかの間、その表情に陰りがきざしたように見えた。
盗み聞きしてしまったあの会話を山内くんは思い出す。
「そういえば楓さんって、パパのこと……」
ついつぶやいてしまった。
楓さんがうっとのどを詰まらせたようにうめく。
「何!? いきなり」
「あ、すみません、あの」
思い当たってしまったのである。この人は、パパに会えなくなるのが寂しいのではないだろうかと。それを馬鹿正直に言うのもためらわれ、山内くんは口ごもる。
しかし楓さんは山内くんが言わんとしたことをだいたい察したようである。彼女は染まった顔を隠すように右手で目元をおおった。
「あのね、昔だから、それは昔のことで……と、とにかく余計な気を回さなくていいから、その話は忘れてちょうだい」
「は、はい」
「でも……そうね」
楓さんは顔を横向け、開いた障子から庭を眺めた。一匹うるさい蝉の声が響いてくる。
「いっさい関わるなというのは大げさにすぎたかもしれませんね。君と紺もだいぶ仲良くなったみたいだし」
山内くんはぎしっと固まった。かれの変化に気付かず楓さんは、微笑を面に戻して続ける。
「君がまた何かに巻き込まれていないか確認する必要もありますし……よければ今後も、墓参りの折にでも当家に立ち寄っておいきなさいな」
「は……はい、ありがとうございます……」
「そういえば、紺ったらどこに行ったのかしら、もう」
屋敷には少女の姿はなかった。あわただしく昼食をとるや、山内くんを一瞥もせず彼女は飛び出していったのである。楓さんが頬に手をあて、残念そうに息を吐いた。
「せっかくいろいろかわいい服を取り揃えたのに。
はあと山内くんは答え、落ち着かない気分で視線を畳に落とした。楓さんは「あら」と小首をかしげ、かれを観察するようにとっくり見つめたのち、訳知り顔で手を打った。
「もしかして、紺となにかあったのかしら?」
山内くんはますますうつむく。
「いえ、その……発言がちょっとした誤解を招いたみたいで」
たぶん、ちょっとならざるレベルの誤解だった。
それは術くらべが終わった後のことである。
山内くんは盆の期間も開いていた病院に運び込まれていた。
パパは楓さんに連絡するために電話OKエリアに出ていき、廊下で診察を待つ山内くんのそには紺が残った。中折小狐こそ隠しているが、いまだ水干姿である。
彼女は両腕を頭上に差し上げ、水干の胸部を突き上げるようにして『んーっ』と背をそらす。
『終わったぁ』
彼女がしみじみ言う横で、ふらふらしながら山内くんは『お疲れ様』とねぎらおうとした。だがそのとき、拉致されていたときに得た情報が脳裏にフラッシュバックした。
アオオニは、神隠し事件の犯人ではなさそうだということが。
『あ……紺。終わってないかも、しれない』
紺がかれを見た。ゆるみかけていた雰囲気がふたたび締まっている。『どういうことだよ』
事情をかれが話すと、紺は眉を寄せて腕を組んだ。
『じゃあ、アオオニがおまえの落とした牙笛を持っていたのはなんなんだ。あいつはあれをどこから……んん? んー?』
唇を引き結んで彼女はうなる。
『紺……?』
『なにかを見落としてる気がするんだよな。あとちょっとでつながりそうというか……うーん。ま、いまはいいか。アオオニから聞きだしゃ済む話だし』唐突に紺はあきらめたようだった。『どうせ近いうちに、お祖母様や楓があいつの知ってることを吐かせるだろ』
いまは眠くてあまり頭働かねーしなとつぶやいてから、紺は山内くんにちらと目をやった。
『でも確かに……どっちにしろ神隠し事件は、おまえへの呪詛とは別件だった。いまとなってはそう思う』
『……そうなの?』
『あの事件は、尻尾をまるで掴めない。たとえて言えば無色で無臭なんだ。どんな力もいっさい関わっていないかのように、術の気配がまったく感知できない。
一方でおまえにかけられていた呪詛は、巧妙ではあるけれど、楓にもオレにもわかる「尋常な術」の範囲だった。だから別モノ。
で、おまえを呪詛してたアオオニは片付いたことだし、おまえの見鬼はもう封じても問題ないと思うぜ』
紺はまた気が抜けた様子になって、背を長椅子の背にあずけた。
『これでオレが世話焼いてやる必要もなくなったな。あー、やっと楽になったー』
わざとらしくあくびする彼女を見つめて、山内くんは(あれ、なんで)と自分の心がわからなくなった。おかしなものが見えなくなる――かれはその日を待ち遠しく思っていた、はずだった。しかし終わりを実際に告げられてかれはなぜか、笑顔を浮かべられなかった。
嬉しくなくは、ないのだが。もやもやするものが心に残っている。
『紺……そんなに急いで封じなくても』
口が勝手に動いていた。
あくびをやめて意外そうに眉を上げる紺にためらいがちに問いかける。
『僕はもうすこしこのままでもいいよ。だって、神隠し事件のことも解決するんだろ。君は僕に手伝わせようとしてたじゃないか』
『それか』
ちょっと照れくさそうに紺は言った。
『あのときはまだ、おまえを術者の世界に引きずり込めないかなって思ってたから。
でもおまえには、ちゃんとした夢があるんだろ。だから、もういいよ。おじさんとも仲直りできたんだし……こっち側の事情に関わらず、真っ当に生きりゃいい』
温かい笑みを向けられて、ずきんと山内くんの胸が強くうずく。
自分たちのあいだに、決定的な立場の隔たりができてしまったかのように感じたのである。黙りこんだ山内くんを冷やかすかのように、紺がいつものいたずらっぽい笑顔になる。
『あはは、なんだその反応。オレに構ってもらえなくなりそうで寂しくなっちゃってんのー?』
『うん』
からかわれたのは明らかだったが、するっと首肯してしまった。言葉こそしっかりつむいでいるが、山内くんは静かに泥酔している。いろいろ本音がむき出しになっていた。
素直なその態度に、かえって紺のほうが強く動揺したようだった。居心地悪さと強いはにかみが交互に少女の顔に浮かぶ。『おい、よせって』紺は戸惑うようにまばたきしたのち、ふいとそっぽを向いて、小さな声で悪態をついた。
『なんだそれ。情けねーこと言うなよ。別にこれでさよならでもねーだろ』
『じゃあ……また、会いにきていいかな』
『そうしたけりゃしたらいいだろ』
通常なら、この会話はそこで終わっただろう。
しかし山内くんは天地が回って見えるほど酔っている。
『紺』かれは上体をねじって隣の紺に向き直り、真剣な声で呼びかけた。
『君に言っておかなくちゃいけないことが、ほかにもあるんだ』
『な、なんだよ』
『ごめん、昨日八つ当たりしちゃって。
ありがとう、助けてくれて』
『へっ、別に大したことじゃねーし……』
忘れていーからと、紺はいよいよきまり悪げに言う。その頬がはにかみ色に染まりはじめている。山内くんは据わった目で生真面目に首を振った。
『そういうわけにはいかない』
『な、なんでだよ。オレが忘れていいっつってんだろ』
『紺、僕は』
思考の輪郭がぼやけた山内くんの脳裏でも、はっきりしていることがひとつあった。
(僕は紺に対して、大きな借りがいくつもある)
借りは返さなければならない。それが筋というものだ。
山内くんはいつのまにか紺の右手をとっていた。『ふぇっ』少女がしゃっくりみたいな声をあげて目を見開く。
(そうだ、筋は通すべきだ……僕は、パパと血がつながっていないけれど、信念ならば受け継げる)
酩酊と、徹夜のテンションと、新しい生き方を見つけたという昂ぶりがかれを突き動かしていた。勢いが突っ走り、かれは紺の手を両手でぎゅっと握りしめた。無意識のうちにひたむきさを伝えようとするかのように。
『なにかお返しさせてほしい。一度くらい君の役に立ちたい』
がちがちに肩をこわばらせている紺に、熱っぽく語りかける。
『僕の見鬼が必要なら使ってくれていいんだ。君の力になれるなら怖いのは我慢するから』
『な、な……にゃ……』
『だって、いろいろ助けてくれた君のことを、僕はずっと前から』
恩人だって思ってたんだ。と山内くんが告げる前に、
『に゛ゃ――――っ!』
もう限界とばかりに紺が妙な叫びをあげた。『に゛ゃ――っ、に゛ゃ――っ!』握られていないほうの手で彼女は、山内くんの手をべしべし叩きはじめる。『なななにしやがるヘンタイ、まず放せー!』声は惑乱に裏返り、顔はすっかり夕日の色。
さすがに驚き、山内くんは手を引いた。紺はつかまれていた手をばっと胸前に抱えこみ、目を固くつぶって震える声を絞り出した。
『そんなこと、きゅ、急に言われたって困るしっ!』
『そうなんだ』朦朧とした頭で、山内くんは思う。“じゃあ遠慮なくこき使ってやる”と、紺なら言うかと思ったのに。『僕は本気で言ったんだけど……君は困るの?』
『だ、だって……おまえ個人がどうとかじゃねーもん!』紺はかれと目を合わせず、弱り切った様子でもじもじしている。『オレはそういうことまだぜんぜん考えてねーもんっ!』
『そうなの?』
微妙に噛み合っていない会話を周囲の患者たちが興味しんしんに見守っている。ほどなく看護師がすっとんできて、病院ではお静かにお願いしますとふたりに雷を落とした。
その後の検査の結果、“異常はなし。念のため後日に再検査”と診断されて帰された。
タクシーで十妙院家に送られた帰り道、紺は車内で山内くんとけっして口をきこうとしなかった。山内くんのほうも、疲労と悪酔いがピークに達し、グロッキー状態で意識を失い――
翌朝、布団で目覚めた後、顔を手で覆って悶絶することになった。なにがどう行き違ったのか、頭がしゃっきりするなりおのずと理解したのである。
その朝、かれの布団の横に紺の布団はなかった。寝所が別々に戻っていた。
もっとも、もとが呪詛対策であったのだから、アオオニ退治が終わったいまそうなることは不思議ではないのだが……起きてからも、彼女の姿を見ることがないのは同じであった。
避けられているのではないかと山内くんはうすうす気付きつつある。
(ほんとに紺はどこ行ったんだろ。
あれは告白とかじゃないからって、すこしでも早く訂正しておきたいのに)
少年は頭を抱えざるをえないのだった。
そのとききし、きしと廊下を軋ませる足音が聞こえた。
楓さんの、こわばった声。
「――お母様」
ぎょっとして山内くんも顔を上げ、廊下へと向けた。
いびつな雰囲気をまとって、十妙院銀がそこにいた。長袴のすそを引きずり、開いた障子の陰から半身をのぞかせるようにして立っている。
妖気を放つ女は、山内くんの前で笑みを刻む。
「無事に戻ったようじゃないか。心配していたよ」
「……はい」
山内くんは硬い表情で応える。未来を詠めるのだから結果は知っていただろうにと少し鼻白んでいる。それはさておき、かれは礼を述べた。
「ありがとうございます。パパ……父に助言していただいたそうで」
パパのバイクがあのとき都合よくやってきたのは、やはりというべきか銀の指示に従った結果だったらしい。
ただ、占術に助けられたのが確かであっても、山内くんはやはり銀に好感は持てそうになかった。パパと楓さんの話を盗み聞きするようそそのかされたことといい、どうしても彼女にはもてあそばれている気がするのだった。
「しかし青丹の跡継ぎは、やはり期待はずれだったね」
山内くんの示した感謝を無視し、銀はつまらなさげにひとりごちた。
「予想をくつがえしてくれやしなかった。ま……勘違いが明らかな時点で、わかっちゃあいたが。しょせん浅い邪道しか学べなかった尻の青い小僧だ」
「……勘違い?」
「数え唄で霊を集め、自分の周りに陰の気を
銀は庭に向き直った。
午後の光はまだ強烈だが、太陽はすでに傾こうとしている。
「『神界の
● ● ● ● ●
「紺ちゃん」
「あん?」
路上に
「アオオニたちとのこと片付いたんやろ、そんならなんでまだ男の子のカッコなん」
「……いきなり変わってたまるか」
紺の格好はいつものごとくショートパンツにTシャツ、スニーカーだ。この日はそこに夏用のパーカーをはおり、キッズ用鹿撃ち帽をかぶっている。いずれにせよ彼女はまだ童男姿を解いてはいなかった。
「ひらひらのスカートでも穿けってか、冗談じゃねー」
こんなのしてたまるかと、紺は目をすがめて穂乃果を見る。薄いブルーのワンピースに麦わら帽子をかぶり、ラメの入ったミュールを履いた、いかにも少女らしい格好。視線を注がれた穂乃果が微妙に視線を揺らした。頬の赤みは夕日を浴びているからだけではなさそうである。
「えへへ。直文のとこの家族といっしょに果樹園に行ってきたんよ」
「今年もかよ。仲のよろしいこって」
紺は顔をそむける。「とにかくそういう服、オレにはまっぴらだね。似合うとも思えねーし」
「えー。そんなことないと思うよっ」
「趣味じゃねーし。オレには見せたい誰かとかいるわけでもねーし」
最後の一言を言うとき、無意識に語調が強まった。それに気づいて紺は怒りを覚えた。山内くんに手をつかまれて吐露された言葉が、記憶から離れない。どうすればいいかわからず、紺は、山内くんがまだ滞在しているはずの家に帰るに帰れないのだった。
怒りは少年と、平静を保てない自分に向けられている。
(なに考えてんだあの馬鹿。いきなりあんなこと言いやがって)
想いを告げてきたとしか思えない言葉。
詳細を思い出したとたん強烈な羞恥がぶりかえし、かっと頬が燃えた。うずくまりたくなる。
「……紺ちゃん?」
「ちょ、ちょっと待て」紺は自分も西日に向き直った。赤面していることをごまかさねばならない。
無駄な努力だった。
頬の熱がすこし引いたところで穂乃果をふりかえった紺は、きらきらしたまなざしを浴びてのけぞった。
「紺ちゃん、もしかしてなにかあったん? ひょっとして男の子がらみ?」
「なにもねーよっ!」
瞬時に頬の赤熱が戻ってきて、反射的に紺は否定していた。なにかあったと答えたも同然の態度に、穂乃果の目のなかの星屑の数が増える。追求が厳しくなった。
「なになに? なにがあったん? ひょっとして告白でもされたん?」
こいつなんでこういうことだけ鋭いんだよ、と紺は悲鳴と悪態を心中で吐く。
「きゃー! だから言ったやん、紺ちゃん告白されるかもって! それにしても電撃的やね、アオオニ退治終わってすぐやろ? うわぁ手が早いやつもおったもんやなあ! 誰、だれだれだれ?」
「うるせーこのやんやん蝉! なにもねーって言ってんだろ!」
きゃあきゃあぎゃんぎゃん路上で騒ぐ二人に、声がかかった。
「なにをやかましくしているんだ、おまえら」
グレーのハンカチで額の汗をぬぐう壮年の男性だった。神経質そうな細い面に銀縁眼鏡をかけ、眉間に軽いたてじわを刻んでいる。夏ばて気味なのか足取りに力がない。
腕に巻いた補導員の腕章を見るに、夏休みのあいだ行われる非行取り締まりの声かけボランティアに今日も参加していたようだった。
穂乃果が目に見えてうろたえる。生活指導に熱心で、校則違反物とみるや片端から没収するこの厳格な教師は、多くの子供に敬遠されていた。
「い、石田センセイ。こんにちは」
「大浜に十妙院か……元気なのはいいが、往来の迷惑も考えんとならんぞ。夏休みの宿題はやったのか」
いつものように小言を口にする石田先生に、穂乃果はううと情けない顔になる。「大丈夫ですよお、二学期には提出しますって。その、あたしこれでっ」
穂乃果が駆け去っていく。苦みばしった表情で見送る石田先生に、紺はくすりと笑った。
「あいつ石田センセのことちょっと苦手だからさ」オレもだけどとは言わない。「気にしねーでやって」
「大浜に特別厳しくしたつもりはないが……」
「でも先生、あいつのビー玉没収したことあるじゃん。まわりまわってアカオニから取り戻すはめになったんだぜ……あ」
紺の脳裏で、思考の火花がぱちっと散った。
(アカオニ?)
闇に一筋の光の道がついた気がした。急速になにかがつながっていく。
闇宮に落としたはずの牙笛を、アオオニが持っていたこと。
アカオニの、ものを盗む癖のこと。
(アオオニのやつは、闇宮に行けたわけじゃなかった。けれど力を持つ呪具の見分けくらいはついたはずだ。
あいつはアカオニが盗んだものを取り上げたのだとしたら……)
アオオニとアカオニの力関係は、常にアオオニのほうが上だった。もしもアオオニが命じたら、アカオニは手に入れたものを渡しただろう。
もちろん、アカオニが闇宮に踏み込んだというわけではない。
かれはどこかから盗んだのだ。
「じゃあ先生は行くぞ、十妙院。暗くなる前に帰れよ」
そばを通りすぎようとした石田先生を、紺は呼び止めた。
「石田センセ」
立ち止まってうろんげに見下ろしてくる石田先生に、彼女はたずねる。
「穂乃果のビー玉は夏休みのあいだ石田先生が持ってて、オニどもを補導した夜にアカオニにすられたんだよな?」
「そうだが……」
「あのさ、もしかしたらだけど」
紺はショートパンツのポケットをまさぐって、牙笛を取り出した。石田先生の鼻先に突きつける。
「こういうものも一緒にとられたりしなかった?」
石田先生はとまどいあらわに牙笛を見つめた。沈黙――なにかを思い出そうとするかのような考えこむ顔つき。それからあっさりとうなずいた。
「そういえば、こんな違反品も没収した気がするな」
――どくんと紺の心臓が強く打った。
ものはためしで何人かに聞いていくつもりが、最初から大当たりを引いたのだ。
「だ……誰? だれから没収したの、これを」
「だれだったかな」石田先生は首をひねり、「六年の
「西荻?」同級生の苗字に、紺は反応した。「西荻絵美?」
絵美。
紺の同級生、青丹家の近所の少女。
昔からアオオニと親しく、極楽縄を受け取って“くちなわさま”の騒ぎをもたらしたこともあった。
絵美が牙笛を持ち帰ってきていたというようなことがあるだろうか。
(考えてみれば、あいつだって祝部の血を引いててもおかしくない。この町には祝部から分かれた家だらけなんだ)
顔色を変えて紺は考えこむ。
まさかとは思う。絵美は子供であり、極楽縄すら御すことのできない素人だ。
けれど……
(オレだって子供だし、アオオニもせいぜい中学生だった)
素人という点についても、そう装っていないとなぜ言い切れるだろう?
しかし、脈を速めている紺の前で、石田先生はさらに首をかしげた。
「いや、四年の瀬戸だったか、五年の安城の持ってきたものだったかもしれん」
「な……なんだよそりゃ。だれから没収したかちゃんと覚えてねーのっ!?」
ことがことだけに紺はつっかからざるをえない。うとましげに彼女を見つめ、石田先生は眼鏡を指で押し上げた。
「没収品については詳細を違反者名簿につけている。校則違反は、日々の素行として通知簿の成績にからむ事項だからな」
「それ見たい! どこにっ」
「むろん学校だが」
小学校はさほど遠くなかった。
紺がついていくと言うと、石田先生は露骨に面倒そうにしたが、彼女を追い返すことはしなかった。かれは職員室に紺を招き入れたのち、「名簿は生徒指導室に置いてあるはずだ。待っていろ」と言い残してふたたび出て行った。
紺はパイプ椅子に座ってかれを待つ。
職員室は静かだった。前と違い、この日は他にだれもいない。かびくさい冷風を吐き出す古いエアコンの音が大きく響いていた。
紺は椅子の上で片ひざを引き寄せ、なんとはなしに窓から校庭を見た。西の山の上にさしかかった夕日は黄金色に変わりつつあった。
ようやくだ、と彼女はつぶやく。
石田先生が名簿を持ってくれば、闇宮に踏み込んだ人間が誰かわかるかもしれない。
「ようやく、手がかりをつかめたのかも……!」
昂ぶりにぐっとこぶしを握ったとき、パーカーの胸ポケットから声がした。
〈……ニ……〉
「わ」
不意をつかれたこともあり、紺は少々驚いた。
スマートフォンだが、こんなところでそれが音を出すとは思わなかったのだ。なにしろ、その携帯は壊れている。十妙院家の蔵から発掘したもので、まともな使い方はいっさいできない代物だ。
それは、周囲の怪しいものの声を拾うスマートフォンだった。
たまにぶつぶつとつぶやきだすそれを、紺は面白がって身につけるようにしていた。ごくまれに、有益な情報の断片を聞くこともできるからだ。
が、さすがにいまは楽しむ気にも長く付き合う気にもならない。
(学校なんかで鳴るなよ。つーか、こんなとこにまで霊がいたのか)
無視していたが、声は止まずに徐々に大きくなっていった。
〈……テ……〉
かまってもらいたがる霊が多いのはなんなんだろ、と紺はうんざりする。少し相手してやれば、満足したようにふつりと電話が切れたりもするのだ。逆にしつこく話しかけてくるような手合いもいる。
まともな話はまずできない。死ぬ前にすでにおかしくなっていた場合、人間の霊はこちらの言葉を聞かないほうが多い。恨み事、みさかいのない呪詛、意味なくぶつぶつと呟き続ける。
ちょっと相手してやって、終わりがないようならスマフォを校庭にでも放り投げて完全黙殺しかねーや、と紺は決めた。
携帯を耳に当てて投げやりにたずねる。
「なに? オレになにか言いたいことあんの?」
〈逃ゲテ逃ゲテ逃ゲテ逃ゲテ逃ゲテ逃ゲ逃ゲ逃ゲ逃ゲテ逃ゲ〉
ぞわりと紺の背筋に悪寒が走った。
思わず携帯を耳から離してまじまじ見直した。
流れだす音はざあざあ乱れ、複数の声がいちどきに携帯の向こう側から流れてくる。
〈おまえも死ぬおまえも死ぬ死ぬ死ぬ今夜死ぬはやく早く死ねはやく〉〈まぶたヲ切ラレタヨウ赤ク焼イタ針デ目ヲ刺サレテ見エナイ見エナイなんにも見エナイじゃきじゃきはさみデおなかヲ開カレルおなかノ中身ヲくるくる棒ニ巻キ取ラレル〉〈熱いようもうしないで油かけないで熱いいいい〉
紺は呆然と、手にしたスマートフォンの黒い画面を見つめる。彼女の背後の光景が、黒い鏡のような液晶表面に映っていた。
背後は、職員室の入り口。
石田先生が戸口から半分顔を出し、彼女の背中をうかがっていた。
手に、刃がひどく汚れた斧を持っている。いっさいの感情が宿っていない表情。底なしの黒い穴のような瞳。
紺はふりむきかけた自分を渾身の努力で抑えこんだ。
〈きぃきぃきぃきぃきぃ……〉
窓のほうから無数の音。視線を動かして見やれば、蹂躙され尽くした人の残骸のようなものがべっとりと窓ガラスに貼り付いている。骨がむき出しになった指先でガラスをひっかき、職員室内をのぞきこんでいる。
かれらの背後の校庭は、墨をぶちまけたかのように暗くなっていた。日没までは間があったにもかかわらず。
〈ひと、ふた、みい、よう、いつ、むゆ、なな、や……〉
スマートフォンが震え、重くどす黒い悪意の声が数え唄をつむぐ。
いまだかつて知らなかった強烈な恐怖のなかで十妙院紺が悟ったのは、自分が罠に引きこまれたことと、古い古い呪術の奈落が彼女の足元に真っ黒な口を開けていることで……
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