第25話 ひふみよいむなや〈2 長縄落秘法〉

 かなたの山道にバイクのライトが輝いている――闇を走ってくるそれを横目にとらえたとき、山内くんは周囲に死霊が満ちていることも、窒息しかけていることさえも一瞬忘れた。


 明かりは直線距離にしてもまだ五百メートルの向こうにあり、しかもすぐ木立にまぎれて見えなくなった。しかし山内くんの胸と網膜には希望の光が焼き付いた。


(人が来てくれる)


 アオオニもその光を見たようだった。


「邪魔が入るか」アオオニがうなってちらりと林の暗がりに目をやる。かれは最初、車が通りかかる前に、山内くんの体を周囲の木立のなかに隠すつもりだったのだろう。だが怯えたアカオニが手を貸さなかったうえ、いまとなっては林に踏みこめる状況ではなかった。


 林からただよってくる嫌な気配は刻一刻と強まっていた。

 路上に出てきている物言わぬ死者たちに加え、複数の黒い影が木陰からさまよい出てくる。ここに及んで、結局アオオニは山内くんを林に運ぶことを断念したようだった。


 舌打ちせんばかりにいらだった表情となると、アオオニは山内くんの襟首をつかんだ。路上をひきずり、少年の体をふたたび後部座席に押し込む。

 短い距離でも人をひきずるのは重労働である。呼吸を荒げながら、アオオニは運転席にせっつく。


「車を出せ。ひとまずここから離れる」


「た、崇くん、待てよ……どうすんだよ、これよう」


 アカオニが唇を震わせながらカーラジオを指さす。数え唄はやんでいたが、ぶつぶつささやく低い声がそこから漏れ出てきていた。アオオニがそれどころではないとばかりに叱咤する。


「あとで処理する! 一体二体なら霊などどうにでもなる、生きた人間に見とがめられるほうが面倒だ。出せ」


 どう見ても納得した表情ではなかったが、しぶしぶと前に向き直りアカオニはアクセルを踏み込んだ。焦った声で罵りながら。「気持ちわりいな……ハンドルが重い」


 山内くんはアオオニの横で必死に細い息を吸い込みながら、首をふった。


(重いに決まっている)


 運転席の足元から、焼けただれてずるりと皮が剥けた赤い手が伸びている。それはぶらさがるようにハンドル下部をつかんでいた。

 それに、車の天井や窓に、血の手形がべたべたとつけられている――内側から。助手席のシートの向こうからはきつぶされた子供の顔が半分のぞいていて、後部座席を見つめてきている。眼球が飛び出した眼窩でものが見えているとしたらだが。山内くんの左隣の席にも、さっきからなにかが腰掛けていた。視界の端に白髪まじりの裂けた頭部が見えて血のにおいが鼻をついた。見るまいと顔をそらす。


 しぜん、反対側の隣に座っているアオオニの横顔に視線が向く。アオオニは見えているのか見えていないのか、腕を組んでむっつりと前方に視線を据えたままである。


「どう見ても一体二体じゃ、ないよ……それに収まるとも思えない……」


 どうにか非難を絞りだした山内くんに、アオオニは目を向けず答えた。


「ふん、霊など大したものじゃないというのはほんとうのことだ」


 その声にはまだ強がりが感じられたが、ふてぶてしさが取り戻されていた。


「いいか、陰陽の理にしたがえば、生者と死霊はそれぞれ『陽』の存在と『陰』の存在に対置される。

 ひなたからかげが退くように、本来は生者のエネルギーのほうがはるかに強い。比べれば霊など幻影のようなものだ。

 ああ、たしかに例外はある……波長が合うかにもよるが、生者に影響を及ぼせる強い念を持った死者もいる。

 それに、特定のフィールドにおいて陰の気そのものが強まれば、あらゆる陰の存在は活性化する。けれど、生者死者の力関係を完全に逆転させるレベルの『陰の極まる場』などそうそうない。たとえこの町で、この盆の時期でもだ」


 一気にしゃべったあと一息ついて、


「そんな場がこの町で出現するとするなら、それはおそらくただひとつだ」


 闇宮。

 暗い神の領域。


「それこそは僕の求めているものだ。このまま陰気を強めていけば、闇宮への扉が開くはずだ……見ろよ、この霊どもはどう見ても和御霊にぎみたまじゃない。祀られ、供養され、時とともにしずめられて祖霊や自然の一部となった霊じゃない。

 どいつもこいつも鎮まっていない荒御霊あらみたまだ。闇宮の神が好む、『穢れ』に満ちた迷える霊だ。

 こいつらが集まるのが闇宮が開く前兆であれば、多少の危険があろうとも問題じゃない」


(正気?)


 山内くんはそうとがめようとしたが、断念した。なにを言っても無駄なことが明らかで、息が真剣にもったいなかった。

 それにアオオニの誤算は予想よりも早く明らかになった。

 アカオニがけたたましい恐怖の叫びをあげたのである。


 かれにも「見えた」のだと気づくより先に、ハンドルが右に切られた。山内くんはアオオニもろとも横倒しになりかける。かろうじて姿勢を保ったと思ったとたん、反対側へ車は振れた。金切り声で車窓を震わせるアカオニが、ハンドルを左右に無茶苦茶に切っていた。アクセルが踏み込まれて速度計の針がじりじり上がってゆくのに、車は支離滅裂に蛇行しはじめる。乗り込んでいるものを振り落とそうとしているのだと山内くんは気づいた。

 空は白みはじめていたが、路上はいまだ闇が濃い。こんな運転は剣呑きわまりない。アオオニがさすがに危惧の叫びをはりあげる。


「陽一っ、落ち着いて運転しろ! 道から飛び出して木に激突させる気か!」


「じゃあどうにかしてくれよおっ、こいつらを!」


 泣き叫ぶようにアカオニが怒鳴り返す――ひどい混乱のなか、絶望しかけていた山内くんは気づいた。


 バックミラーに、さっきのバイクの光が写っている。

 ふたたび山内くんの胸中に太陽が上ってきた。

 みるみるうちに車に迫ってくるそれは、見た覚えのある大型バイクだった。重い排気音を響かせて、後方にちぎれかけた肉塊――もんじゃくん――を幟旗のぼりばたのようにひるがえしている。

 バイクを駆っているのは黒いライダースーツの巨躯。気迫をみなぎらせて追走してくる。


(パパ)


 山内くんは驚かなかった。来るとどこかで信じていたのだ。

 ただ、嬉しさと切なさの混じりあった想いだけがこみあげてきていた。それは炭酸の泡のようにみぞおちからふつふつと浮いてきて、胸やのどや鼻の奥をちくちく刺していた――それでいてじんわりと温かかった。


 もう、周りでうごめく死霊のことも気にならなかった。

 アオオニは今度も山内くんのまなざしで状況を悟ったようだった。かれはがばと振り向いて、強く舌打ちした。


「紺か!」


 言われて今度は山内くんが気づく。パパの体で隠れていて最初気づかなかったが、たしかにライダースーツの屈強な胴に、白い着物の袖が後ろからしがみついている。パパと同じくフルフェイスメットをかぶった少女は、水干すいかん姿と呼ばれる服装をしていた。テレビ番組で以前に見た、いわゆる陰陽師おんみょうじの格好。


(紺も来てくれた)


 昨日ひどく突っぱねちゃったのに、と山内くんはまぶたを閉じた。今度の嬉しさは慙愧をともなっており、同時にほのかな甘みを帯びていた。

 もちろん、それに浸っていることなどできるはずもなかった。アオオニの冷笑が響いた。


「運転しているのはおまえの親父か? あんなでかぶつ、そうそういないからそうだろうな。おい陽一、いいかげんにしゃっきりしろ! 霊なんか無視してろ、おまえより先にまちがいなくこいつが死ぬ。慌てるならそれからでも遅くないだろう」


 わかりやすい生きた敵が現れたことは、皮肉にもアカオニの精神をぎりぎりのところで持ち直させたようだった。半ばしゃくりあげながら、アカオニは運転を安定したものに戻す。

 アオオニは安堵の息をついてそれを見届けたのち、口の端をゆがめてさらに山内くんを嘲った。


「こっちは車だぞ、バイクで来たからどうだというんだ? 僕たちがこうして走っているかぎり、紺にもおまえの親父にもなにもできはしまい。

 ははっ、あいつらはまさに無駄骨折りだな! 悔しいだろう、おい?」


 そんなことはない。

 山内くんは苦悶のはざまで、ほんのかすかに頬をゆるめた。暗い車内で目ざとくそれを見て取ったアオオニが不可解そうに眉を寄せた。


「息が詰まる寸前でなにを笑っている……気持ち悪いやつだな」


 もう浅い呼吸しか肺に流れ込まない。せわしなく息を吸おうとしつつ、山内くんは消えそうな声で言った。


「思い出せた、から」


「……なにをだ」


「パパは……僕があぶないときは、いまみたいに」


 飛ぶようにして駆けつけてくるのだ。自分の危険はかえりみずに。

 それを聞いたアオオニが無言となる。だが山内くんはかれの変化には気付かずさらに記憶を掘り起こした。


「そうだ……小さなころから……ずっと、いつもそうだった」


 そして大きな手のひらで、肩に抱き上げた山内くんの頭をくしゃくしゃと撫でるのだ。大変だったな邪鬼丸と、いたわりと安堵を太い声ににじませながら。

 あの声と手のひらの温かさにはたしかに、絆と呼んでもいいものがあった。それならば、


(血がつながっていなくても……パパは僕のパパだ)


 温かい記憶の浮上が、安らぎをかれにもたらしていた。まことに平凡な結論だった――だが、たとえばこれを昨日悩んでいたとき誰かに言われていたとすれば、かれは反発していただろう。頭では受け入れても、“上っ面のきれいごとじゃないか”と。人生三度目の誘拐という災難のまっただ中で、駆けつけるパパを見たからこそ、かれは「納得」できたのだ。そういう意味では、アオオニに感謝しなければならないのかもしれなかった。


 ……が、


 いきなり、それまでにもまして山内くんの喉輪が強烈に締めあげられた。酸素がたちまち脳に供給されなくなる。完全に言葉も出なくなり、のどをかきむしるように山内くんはもがいた。

 車内に充満していた死霊が、いつのまにか消えていた。否――気配はむしろ濃密となっていたが、すべての死霊が山内くんの首のなか……内側からかれを絞殺しようとする極楽縄に吸収されていた。


 横からかれを見つめるアオオニの目が据わっていた。


「黙れよ。なにがパパだ?」


 低い、押し殺したその声は、ふだんの嘲笑ではなかった。


「危ないときは来てくれるだと? そりゃあそうだろうよ。生かしておけば自分の役に立つだろう異能持ちの子供を、簡単に捨てるはずがない。それだけのことだろう、夢見てんじゃない……!」


 アオオニはみずからの手で絞めにきているわけではない――しかしこのとき、暗く燃えたかれの瞳には、いまにもそうしかねない危うさが宿っていた。

 窒息死しそうになりながら、山内くんは気づく。

 いま、アオオニのむき出しの感情を……心底からの憎悪を初めて浴びているのだと。かれの悪意の昂ぶりが、極楽縄の呪を強化したようであった。アオオニは馬鹿だと山内くんは先刻確信していたが、少なくとも術者としての素質に乏しいわけではないようだった。


 もうひとつ悟ったことがあった。


(こいつは、僕だ)


 周りの人間に恵まれなかった場合の僕だ。毛一筋ほどの細さとなった気道をひゅーひゅー鳴らしながら、山内くんは呆然としていた。かれへの哀れみがつかの間胸を満たした。けれどそれもアオオニが、悪意のこもった命令を運転席に出すまでだった。


「おい陽一! 後ろから来ているバイクにうまいこと車を当てるんだ。あちらが追突してきた事故だと見せかけてしまえばいい……うわっ!」


 反射的に山内くんはアオオニの横顔に頭突きし、のしかかってのどに噛み付こうとした。手を縛られている状況ではそれがもっとも効果的な攻撃だった。「おい、崇くん!?」アカオニがあわてた声を出す。


 だが、どんどん強まる呪いのために山内くんはすでに酸欠状態にある。かれはあえぎ、口を放さざるをえなかった。髪や服を乱したアオオニは、口汚く罵って山内くんの髪をつかみ、かれを自分の上からぐいと押しのけた。


「いいかげんにあきらめろ。おまえの親父と十妙院どもの役立たずっぷりを恨みながら、荒御魂の一柱になってしまえ。

 霊どもが陽一にも見え始めていたのは、場の陰の気がどんどん強まっているからだ。

 もうすぐおまえは謎の窒息でくたばる、僕は闇宮を開ける! おまえらにとっては時間切れだ!」


 アオオニがわめいたとき、車窓がふっと陰る。

 ぐんぐん速度を上げていたバイクが、ついに車の右横に並んだのだった。

 そしてパパがハンドルから左手を離して、紺のしがみついている背中のほうに回し、


「………………へっ?」


 アカオニが横を見て目を丸くした。アオオニも言葉を切ってまじまじ窓を見つめ「なんだそりゃ」といぶかしげにつぶやく。

 パパがピッケルの柄を左手につかんでいた。背にくくりつけて運んできたのか紺に持たせていたのか、ともかくそれをパパは振り上げ、二メートルの巨体から猿臂えんぴをぶうんとしならせて――


 騎士の戦鎚ウォーハンマーよろしく、振りぬいた。

 車の後部タイヤめがけて。


 岩盤をも叩き割りそうな勢いの尖った鉄は、高速回転する分厚いゴムのタイヤを貫いた。突き刺さったピッケルは瞬時に回転に巻き込まれ、折れた柄が宙にはねあがる。パパはタイヤを破裂させた瞬間にすぐピッケルから手を放している。

 アカオニがうめく。


「タ、タイヤがバーストした……なんてことしやがるあのおっさん!」


 バイクが先行してゆくが、アカオニにとってはそれどころではないようだった。動揺でコントロールを失ってハンドルを左右にぶれさせ、きりきり舞いしつつあわてて速度を落とす。


「くそっ!」アオオニにも状況はわかったようだった。一気に目を血走らせる。「ああ、車が……!」絶望的な声をあげているアカオニに、かれは叱咤を飛ばした。


「タイヤ一輪くらいなしでも走れるだろう、行け!」


「無茶いうなようちの車だぞ、修理できないくらい傷んじまったら……それにどうせこれじゃ山道をまともに走れねえよ!」


 アカオニの抗議にアオオニがぎりっと歯噛みする。

 山内くんの襟首がつかまれた。


「……こうなったらしかたない。停めざるをえなくなってもこいつを人質にして時間を稼ぐことができ……!?」


 道の前方を見た瞬間、アオオニは口をぽかんとあけて声をひっこめた。山内くんからは見えなかったが、アカオニもおなじ顔をしているように思われた。

 前方、紺を残してバイクを降りたパパが、道のそばに積まれていた杉の丸太材――林業で伐採したのち枯らすために一定期間放置しておくもの――を抱え上げていた。

 三メートルもの長さと相当の太さがある丸太を軽々かまえたパパの姿は、熊か鬼が巨大なバットを手にしているようにも見える。


「なあ。おまえの親父って人間か?」


 驚愕が極まったのか、かえって平坦な声でアカオニが聞いてきた。

 減速しつつもトヨタ・クラウンは道に立ちふさがったパパへと突っ込んだ――「ぬうん」と地響きめいたうなりをあげてパパが丸太を豪快にスイング――トヨタと丸太の正面衝突、フロントバンパーが轟音とともにへしゃげる。車の後部が一瞬浮く。運転席でエアバッグが飛び出してアカオニを押しつぶす。後部座席のアオオニと山内くんも、入った箱ごとシェイクされたゴムボール同然の目にあう。


 慣性エネルギーを丸太との衝突で使い果たし、路上でクラウンは強制停車した。


 パパが後部座席のドアを開ける音がした。山内くんと折り重なるようにしてのびていたアオオニが路上に引きずり出されて投げ捨てられる。

 その次は山内くんだった。かれはパパによってトヨタ・クラウンからかつぎ出された。助け方が荒っぽすぎるよと文句を言う余裕もない。


 呼吸が完全にできなくなっていた。

 苦しさにもがくかれを、パパがとつぜん路面に伏せさせて体を押さえつけた。


(な、何)


 涙でかすむ視界に、水干姿の少女が駆け寄ってくるのが見えた。


 フルフェイスメットを脱ぎ捨てた紺。鞘に入った刀を胸に抱いている。秀麗な眉をはねあげ、これ以上なく真剣な表情で彼女はなにごとか吟じている。紺がさらに近づいたとき、その凛呼とした声が聞こえるようになった。


「――至期ときに果たして大虵おろちあり!」


 彼女の歩調が変わった。刻むように半歩ずつ進む足は、禹歩うほすなわち魔除けの歩法をなしている。


かしらおのおの八岐やまたあり!」


 少女の手はそのふところに抱いた蛭巻拵ひるまきごしらえの太刀の柄を抜きつれる。

 半ばで折れた刀身が現れる。


 地鉄じがねは青白き小板目肌。刃紋は乱れてところどころ小足が入り、三日月の相をあらわして匂いは深い。妖しく危うく美しく、古刀ならではの凍るような気品。“小狐丸”――三条小鍛冶宗近こかじむねちかが作、霊狐を相方として打たれたという伝承の刀――その成れの果て、“中折小狐”。


 パパによって地面におさえつけられた山内くんの前で、紺は手にした刃を上段にかまえる。山内くんは首をねじまげて彼女を見上げ、凍りつく。まるで首をはねられるかのようだと思いあたり、縮み上がったのである。紺は厳しい目でかれを見下ろして、


まなこ赤酸醬あかかがちのごとし! 松柏背上まつかやそびらひて八丘八谷やおやたにの間に蔓延はひわたれり、酒を得るに及至いたりて頭各一槽ひとつさかぶねに入れて、飲み酔ひてねぶる! 時に素盞鳴尊スサノオノミコトすなわかせる十握剣とつかのつるぎを抜きて――」


 そしてとどめの呪禁詞じゅごんのことばが、一閃した刃とともに場を切り裂いた。


「――づだづだに其のおろちを斬りたまふ!」


 存在しないはずの切っ先が、形のない力となって山内くんの首を薙ぐ。うなじがぞくりと冷たさを感じ、ほんとうに斬られたかと山内くんは一瞬ひやりとする。

 もちろん、実際に山内くんの首が断たれたわけではなかった。

 斬られたのは……


(あ、息、が)


 突如として気道に空気が通り、山内くんは胸をあえがせて酸素をむさぼった。のどを締め付けていた違和感が急速に消え、鎖骨のあたりからずるりとなにかが抜け出る。地面にぼとりと黒いものがふたつ落ちた。


 見れば落ちたのは、極楽縄の黒い蛇だった。前見たときよりずっと太い胴体を両断されている。断末魔の動きで数瞬激しくもがいてから、それは塵となって朝の風に消えていった。


 黒い霧が晴れるように、嫌な気配は完全に消失していた。

 何度も深呼吸しているかれを、だしぬけにパパが引き起こした。パパはかれの前にひざまずき、恐ろしい表情でにらみつけてきた。


「邪鬼丸」


 パパの右の手のひらが振り上げられ、山内くんは思わず首をすくめる。頬を叩かれると思ったのである。

 思えば自分が勝手に飛び出していったのがアオオニに拉致された直接の原因なのだ。パパの筋を通すというポリシーからして、まずけじめをつけるのはありそうなことのように思われた。が、アカオニに殴られて腫れた山内くんの頬を見たからか、パパの手のひらが顔に触れることはなかった。パパはただ、山内くんの肩をつかんで深々とため息をついた。


「心配させるんじゃねえ……」


 パパの声は、震えていた。弱々しいといっていいほどに。山内くんは呆然としていたが、「うん」とようやくうなずいた。パパは顔をあげ、ずしりと腹に響く太い声で宣言した。


「おまえは、俺の息子だ」


 山内くんの迷いを根から断つように。


「……うん」


 鼻の奥がつんとして、あわてて山内くんは目をしぱしぱさせて涙をごまかす。男として、パパの前で泣くのはごめんだった。パパの瞳がふっとゆるみ、手のひらがかれの頭を撫でてくる。


「おまえの出生については、もっと大きくなってから話すつもりだったんだ」


「もういいよ。別に聞かなくたっていいんだ」


 山内くんは本心からそう言った。大切なのはこの手のひらの感触で、それ以外は瑣末なことだったから。


(撫でられるのは、ひさしぶりだな)


 撫でてもらうのは男としてどうだろうと思ったが、いまくらいは浸っていてもいいはずだ。

 しかし横合いから視線を感じた。

 見れば、中折小狐を鞘に収めた紺がかれらを見つめていた。山内くんはあわててパパの手をつかんでのけさせる。パパが軽く傷ついた表情になる。

 紺はというとむずむずして嬉しげな表情――山内くんと目が合うや、おもいきり破顔した。


「山内、よかったなっ!」


「う、うん」


 ひまわりの大輪のような笑顔を向けられて心臓がはねた。山内くんは動悸に戸惑いつつも素直にうなずいた。そういえば、彼女に謝らなくてはならない。その前にお礼だろうか。「あの……紺……」


 おずおずと切り出した山内くんの声は、地の底から噴き上がるような別の声でかき消された。


「『長縄落としの秘法』だと」


 起き上がったアオオニだった。車体に手をついて気息奄々でひざ立ちになったかれは、紺をなじった。


「ふざけるなよ、そんなむちゃくちゃな使い方があるものか……それは蛇霊を祓うための法じゃないか。おまえがいま斬ったのは、蛇ではなく大勢の人間の霊だぞ。霊力にまかせて、無理やりあいつらを散らしやがったな」


 難詰を、紺は涼しげに流した。


「まーね。あれだけたくさんの良くないモノをいっぺんに片づけるなら、中折小狐で斬るのがいちばん手っ取り早い。おまえ極楽縄を呪詛の媒に使ってただろ、あれは蛇みたいなもんだと“見立て”られるのさ。近いものに見立てて術をふるうのはよくある応用だから覚えとくといいぜ」


 それから紺の声は微妙に変化した。


「残念だけど……おまえにもう術をちゃんと学ぶ機会はないだろうけどな。アオオニ、おまえはやりすぎた。放置できない」


 紺の声は、勝ち誇ってはいなかった。むしろ気の重い仕事を一刻も早く終わらせようとするかのように、感情を排除した声で淡々と彼女は告げた。


「おまえのことは楓とお祖母様が処理することになる。

 それも警察に引き取ってもらったあとのことになる。もう少しアカオニといっしょに車内で寝てろ」


 紺が指先に秘火あけだまひを灯し、アオオニの顔に突きつけた。火が複雑な軌跡を描く。霊縛術。


 術くらべは、紺の勝利で幕を閉じた。

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