碧潭夜月

もちもち

***

 雲の欠片さえない、青い青い夜だ。

 冷たく澄み切った空気が流れている。湖面は鏡のように静かに凪いでいて、冴え冴えとした天上の月をそのまま映し返していた。

 水面に手を伸ばせば、簡単に月に触れることができる。

 指先を刺すような冷たさに、俺は分かっていても驚いて手を引っ込めてしまった。水面の月が、これは偽物だと嗤うように揺れる。


「月は取れたか、猿猴」


 背後から声が掛かり、振り返るとニヤニヤと面白そうな笑みを浮かべた幼馴染がいた。

 やや吊った黒目がちの双眸を、猫のように細めて俺を見る。

 幼馴染が故事をネタに揶揄ったのだと気づいた。


「本当にこれで取れるなら、猿も落ちた甲斐があっただろうに」

「結果より経過が大事って話か」


 幼馴染はそう言って、やはり笑う。冷えて色を失いかけているのか、青い月の光のせいなのか、白い唇から白い呼気が上る。

 ふと視界の端が霞んだのは、俺の口元からも白い影が上ったからだ。

 体が呼吸をするたびに、その分だけ質量を失うのではないのかと思ってしまう。


「諦めちまえよ。

 明日はどうしたって来るし、明日、どうあがいたって死ぬんだ」


 冷え冷えとした夜の空気と、同じくらい冷えた幼馴染の声が突き刺さる。

 幼馴染が見た未来。

 明日、この湖のほとりで死ぬ。青い夜の中で。


「どうしても避けられないのか。

 分かっているのに」

「明日、雨が降ると分かっていても雨を止められる術が無いのと同じだ」

「だが、傘を差すことはできる」


 淡々と答える幼馴染に、食いつくように俺は反論した。

 は、と幼馴染は笑う。俺の意思など歯牙にもかけない様子で。


「雲が白いことや、夜が青く暗いことと同じだと言ってるんだ。

 見えているだけで介入することはできない。

 俺が悪いわけでも、お前が悪いわけでも、誰が間違っていたわけでもない。

 だから、」


 そうして、幼馴染は少し寂しげに笑うのだ。


「お前が気に病むなよ。俺が悲しくなる」


 明日、この湖で死ぬのは、目の前の幼馴染だ。

 避けられようのない運命の縁に立たされてなお、俺の気持ちを思いやる。この優しい幼馴染だ。


「諦めてたまるか」


 食いしばった歯の隙間から零れるように吐き出された吐息と決意。

 青い月に照らされた幼馴染の白い顔が、困ったように笑った。



 手を伸ばして命を落とした猿が掴もうとしたのは、湖に映った虚像の月だ。

 虚ろを手に入れようとして死んだ猿にはならない。人一人の命を望むのは、身分不相応か? だとしても。

 俺が掴まなければならないのは、熱を持った幼馴染の命だ。

 俺はすっかりと凪ぎ、月を戴く湖面を見下ろした。相も変わらず。


 ただただ夜は冷たく青く、美しいばかりだ。

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碧潭夜月 もちもち @tico_tico

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