第8話 夏への脱出 ⑧ (最終回)
晴天だった。ゆうべの夕立がうそのようだ。
腕時計を見ると午前十時四十分だった。
バスターミナルの安全地帯に立つのは、蒼依と瑠奈だけだ。
蒼依の右に立つ瑠奈は、ブラウスにジーンズという装いであり、スポーツバッグを右肩にかけ、スポーツキャップをかぶっている。帰省してきたときと同じ姿だ。
一方の蒼依も、肩フリルのシャツにプリーツスカート、という出迎えたときと同じ服装であるが、今日は忘れずにつば広ハットをかぶっていた。筑波研究学園都市に戻る瑠奈を見送るための装いだ。
この日も恵美の運転する特機隊専用車が近くの駐車場で待機していた。恵美は前日の夜まで「向こうまで送る」と申し出ていたのだが、瑠奈はかたくなに「高速バスで行く」と言って聞かなかった。ゆえに瑠奈は、駐車場で恵美に別れの挨拶を済ませていた。
「あのね」蒼依の右に立つ瑠奈が、恥じらうように言った。「実はね、ゆうべ、隼人さんから電話があったの」
「ゆうべ……ええ?」
あれ以来、隼人は蒼依に対してなしのつぶてだったのだ。とはいえ、隼人は瑠奈のスマートフォンの番号はわからないはずだ。仮に四年前の事件以前に番号の交換をしていたとしても、その後、瑠奈のスマートフォンの番号は変わったのである。
「固定電話にかかってきたの?」
ならば隼人が電話番号を知っている可能性はある。だが瑠奈は首を横に振った。
「ううん。わたしのスマホにかかってきたんだよ」
「どうやって番号を知ったんだろう?」
「わからないけれど、非合法な手段かもしれない」
「え……」
開いた口が塞がらなかった。そこまでして瑠奈と話したかったのだろうが、蒼依には何も連絡がないのだ。お腹いっぱいといった感じだが、話を繫げてみる。
「で、野暮なことを訊くようだけど、何を話したの?」
むしろ、瑠奈は言いたそうな顔をしていた。
「隼人さん、今年いっぱいは忙しいんだって。部隊が再編成されて、その副隊長を務めることになったらしいの」
「また副隊長?」
昇格しなかったわけだ。
「でも、あの若さで副隊長だよ」
瑠奈はそう返した。
「まあ、そうだけど」
確かに、二十五歳という年齢では類い希な例だろう。
「でね」瑠奈はわずかにはにかんだ。「いつになるかわからないけれど時間が取れたら会おう……って、隼人さんは言ってくれたの」
「へえー、よかったねえ」
ただでさえ暑いが、気温が増した気がした。顔を真っ赤にしている瑠奈を見て、体温を下げる意味もあり、さすがに水を差したくなった。
「お兄ちゃんと話した内容、おばさんは知っているの?」
「ううん」瑠奈は首を横に振った。「自分の部屋にいたときだったから、悪いけれども、お母さんには言っていない。好都合」
「好都合……ってねえ」
蒼依はうなだれた。
さすがに事件の経過はすぐに真紀にも伝えられ、彼女は隼人が無事に生還していたことを喜んだのだ。泰輝の旅立ちには愕然とした趣を呈していたが、娘の帰宅とも併せて隼人の生還は、真紀が抱き続けていた罪悪感を少しでも減らしてくれたに違いない。
そんな真紀なのだから、瑠奈に隼人からの電話があったのは、それも一つの吉報であるはずだ。何しろ真紀は、瑠奈の隼人への思いを支持していたほどである。ゆえに蒼依は、瑠奈の動向が理解できなかった。
「どうしておばさんに話さないの?」
「だって恥ずかしいでしょう」
瑠奈は横目で蒼依を睨んだ。
「おばさんは瑠奈とうちのお兄ちゃんとの仲を認めているんだよ」
「それは知っているよ。でも、なんていうか……あっ」と瑠奈は蒼依に顔を向けた。
「何よ?」
「女心が理解できないだなんて、蒼依、もうおばさん?」
「ひどっ……」と絶句するものの、聞き流すわけにはいかなかった。「道理っていうもんがあるっしょ。あたしにも、おばさんにも、とても失礼!」
言いきって、蒼依は胸を張った。
沈黙があった。
気分を害したのかもしれない。
焦燥した蒼依は、瑠奈に顔を向けた。
瑠奈はうつむいて笑いをこらえていた。
「何がおかしいの!」
自分のほうが熱くなっているのかもしれない。冷静になろうとすればするほど、蒼依は暑さを覚えた。
「だって、ムキになっているんだもん」
涙目で笑いをこらえながら、瑠奈は告げた。
「ムキに?」
しかしそれ以上の熱は続かなかった。蒼依はついに噴き出してしまう。
「でもね」片手で涙をぬぐいながら、瑠奈は言った。「隼人さんは蒼依のことをとても気にしていたよ。それで、蒼依のスマホの番号も調べたらしいけれど、どうしてもわからなかった、って言うから、教えてあげたの。たぶん、そのうちにかかってくるよ」
「本当?」
思わず喜びそうになるが、それはどうにか抑え、「まあ、あたしはおまけだね」と添えた。
「そんなことないよ。ご両親のお墓参りは蒼依と一緒に行きたいんだって。そう言っていたもの」
「そうなんだ……」
気のないそぶりを見せようとしたが、つい、しみじみと返してしまった。
ふと、バニラの香りが鼻に届いた。
瑠奈が深刻そうな趣で蒼依を見た。気のせいではなさそうだ。
「このにおい」
言って蒼依は、周囲に目を走らせた。
すぐ後ろを、小学生とおぼしき二人の少女が通り過ぎるところだった。二人とも、手にしたソフトクリームを食べながら歩いている。彼女たちが遠ざかると、バニラの香りも消えてしまった。
蒼依と瑠奈は互いに笑顔を向けた。
「たいくん、どうしているんだろう?」
「きっと、ぐにゃぐにゃたちとがれれとしてくれてやっているんだよ」
そう言って、瑠奈は笑った。
ぐにゃぐにゃたちの姿を想像したくはなかったが、蒼依も笑いをこらえなかった。
演習場での事件から二週間がたってようやく笑えるようになった――と蒼依は実感していた。無論、瑠奈はゆうべの隼人との電話で笑顔を取り戻していたに違いない。
あの日の夕刻、演習場から無事に帰宅するなり、瑠奈は自ら進んで演習場内での事件のいきさつを蒼依と榎本から、真紀とともに聞いたのだった。瑠奈は自分のクローンが作られていたことに驚愕し、そのクローンや塩沢、特殊部隊の隊員たち、無貌教の信者たち、多くのハイブリッド幼生どもが命を失ったという事実に胸を痛めたのである。
「来た」
瑠奈の声で、蒼依もそちらに目を向けた。
陽炎の向こうから一台のバスが走ってくるところだった。
気づけば、どこかでセミがかまびすしく鳴いていた。
蒼依の額を汗が流れ落ちる。
バスが目の前に止まり、乗車口のドアが開いた。
ステップに足を乗せようとした瑠奈が、ふと、蒼依に顔を向けた。
「わたしね、この先、何があっても、後悔しないよ」
笑顔でも悲しみの顔でもなかった。真剣なまなざしである。
「うん」頷いた蒼依も、真剣なまなざしで瑠奈を見た。「あたしも後悔しない」
現実の夏がそこにあった。
しかし、あの出来事のすべても現実なのだ。
蒼依はそれを忘れたくなかった。
遠くの学び舎へと戻る瑠奈も、陸上自衛隊特殊部隊の任務に就く隼人も、フリージャーナリストとしての仕事にいそしんでいる榎本も、神宮司邸の結界をそのままにして蕃神たちの元へと帰った泰輝も、同じ気持ちでいるに違いない。
七人の探索者 岬士郎 @sironoji
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