第8話 夏への脱出 ⑦

 蒼依は目を凝らした。飯綱権現の姿はない。幻覚だったのかと訝ってみるが、士郎の頭部はもちろん、その体も消えているのだ。そして――。

「たいくん」

 声にして、蒼依は周囲を窺った。

 泰輝の姿もなかった。

 バニラの香りと腐臭がわずかに残っているが、幼生の気配と飯綱権現の気配はない。

 見れば、黒い巨獣の体と舌も完全に消失していた。湯気さえ立っていない。

 残っているのは、アリスの体の一部と、かみきりまるだけだ。

「一瞬にして消えてしまった」

 呆気にとられたように榎本が言った。

「ああ」

 隼人が頷いた。

「泰輝が……行っちゃった」

 つぶやいた瑠奈が、遠くを見ながら涙をこぼした。

「うん」

 慰めの言葉が出なかった。蒼依が今の瑠奈にしてあげられるのは、ただそばにいること、それだけだ。

「フーリガン」榎本が隼人に顔を向けた。「山野辺士郎は本当に死んだのか?」

「泰輝の言葉が正しければ、そうなるだろうな。あの魔道士のことだから、赤首の集落で首なしの状態でさまよう、という可能性もあるかと思ったけど、蕃神に連れ去られたのでは、それも無理だろう」

 隼人はそう答えて、ため息をついた。疲れの色がわずかに浮かんでいる。

「ねえ、お兄ちゃん。このあとはどうする?」

 とりあえずはそれを確認したかった。

「そうだな……おれはあっちへ戻らなければならないが……」

 考え込むような趣で、隼人はフェンスの向こうの杉林を見つめた。

「隼人さん」瑠奈が隼人に顔を向けた。「今からうちに来ませんか? うちで少し休みましょう」

 まるで相手の機嫌を伺うかのごとく、おどおどとした口調だった。

「それは無理だな。任務中なんだよ」

 ほんのわずかだが、隼人は引け目を呈していた。

「任務……って、その格好が気になっていたんですが、隼人さんはいったい……」

「陸自の特殊部隊での任務……なんだ」

 そう説いた隼人は、ライフルを背中に固定し、足元のあやかし切丸を左手で拾った。そしてそれを軽く掲げ、苦笑する。

「これは特殊な武器だけどね」

「陸自? あの……そうなんですか……」

 隼人の立場も彼の手にする日本刀が意味するものも、瑠奈には飲み込めていないようだった。

「とにかく」隼人は蒼依に視線を移した。「蒼依たち三人はここから去ったほうがいいな。それから先は、三人次第だ」

「うん」と答えたものの、考えはまとまらない。

「アリスの遺体やもう一本の日本刀は?」

 榎本の質問を受けた隼人は、アリスだった残骸に目を向けた。

「ほうっておくわけにはいかないが……」

 言いさして、隼人は周囲に目を走らせた。

「何?」

 胸の高鳴りを覚え、蒼依も一帯を見渡した。しかし、何が起きているのか、まったくわからない。幼生の気配もなかった。

 瑠奈と榎本も周囲に目を配っている。

 草を踏み締める音がした。

 車を止めた場所へと至る道から、何者かが姿を現した。さらに、そこより奥の茂みと、手前の茂みからもそれぞれ一人ずつ、日差しの下に姿を現す。三人は皆、隼人のような武装した姿であり、それぞれがライフルを構えていた。加えて三人は、スモークシールドつきのヘルメットをかぶっている。

「特機隊?」

 蒼依は声を漏らした。

「蒼依ちゃんか?」

 一番手前の武装姿が声を出した。聞き覚えのある声だ。

「小野田さん」

 その名を呼んだのは瑠奈だった。

「瑠奈さん!」

 声を上げたのは、小道から出てきた一人だった。女の声である。

「尾崎さん!」

 蒼依も声を上げた。

「二人とも無事だったのか」小野田がシールドを上げた。「それから……榎本さんも無事なようだな」

「特機隊がおれの心配をしてくれるとは」

 榎本が皮肉っぽく返した。

「三人ともけがはありません」とまとめた蒼依は、ようやく、FA0833から無事に瑠奈を連れ出すことができた、という実感を覚えた。

「あ……」

 声を詰まらせた隊員――恵美が、シールドを上げ、隼人を見つめた。

 隼人も恵美に顔を向ける

「久しぶり、尾崎さん」

「知り合いなのか?」恵美に顔を向けて尋ねた小野田が、思い出したように隼人に視線を戻した。「まさか……空閑隼人……」

 隼人は頷いた。

「そう、おれは空閑隼人。写真くらいは確認しているはずだから、わかるよね。あんたは特機隊第六小隊隊長の小野田さんだ」

「あ……ああ」声をうわずらせた小野田が、眉を寄せる。「しかし、どうして君がここにいるんだ? それにその姿は……」

「話せば長くなる。あとは、蒼依に訊いてほしい」

 そう答えた隼人を、蒼依は睨んだ。

「なんだよそれ。お兄ちゃんに何があったのか、あたしだって詳しい話は聞いていないんだ。ちゃんと説明しろよ」

「そんな時間はない、って言っているんだ。ほら」

 面倒そうに告げて、隼人は空を見上げた。

 音が聞こえた。

 蒼依やほかの者も見上げる。

 音が大きくなり、南の方角から三機のタンデムローター式ヘリコプターが現れた。三機は北の杉林の向こうへと飛び去るが、いずれもが低空飛行だった。

 やがてローターの音が遠くなり、そして聞こえなくなった。

「隼人さん」恵美が隼人に視線を戻した。「あなた、陸自の特殊部隊の隊員なの?」

「そうだよ。特務連隊特殊潜行第三小隊に所属している」

「いきさつは、いろいろとありそうね」

「尾崎さんはあっさりしているから、会話がスムーズに進む」

 そう繫げた隼人を、小野田が睨んだ。

「あっさりしていなくて、申し訳ないな」

「別に、小野田隊長がくどい、というわけでないよ」隼人は言った。「それより、小野田隊長、尾崎さん、蒼依がいつも世話になっている。本当にありがとう」

 礼を告げられた小野田は、意外そうな表情で恵美に顔を向けた。

「隼人さんはしっかりしている人なんです」

「そうか」

 恵美に諭された小野田が、隼人に視線を戻した。

「なんというか、おれはしっかりしていないイメージだったのかな?」

 尋ねつつ、隼人は片眉を上げた。

「あくまでもイメージだよ」小野田はそう返した。「それより、無貌教は? あと、泰輝くんの姿が見えないが、彼は?」

「無貌教に関しては、まだわからない、というのが本当のところだ。ただ、山野辺士郎はもう死んだよ」

「死んだ? あの山野辺士郎がか?」

 そう尋ねた小野田だけではなく、恵美も目を丸くした。

「まあ、それも詳しいことは蒼依から訊いてほしい」

 またしても指名され、蒼依は口を引きつらせた。

「それから泰輝についてだが」隼人は横目で蒼依を一瞥した。「彼はもうここにはいない。遠くへ行ったよ。詳しいことは、これも蒼依に訊いてくれ」

「よくはわからないが、なら、蒼依ちゃんにあとで訊くとしよう」

 小野田は首を傾げるが、恵美は得心がいったらしく、小さく頷いた。そして恵美は、瑠奈を見る。

「瑠奈さん、大丈夫?」

「はい」

 力なく、瑠奈は答えた。

「尾崎、池田、ライフルの構えを解け」

 言いつつ、小野田はライフルの銃口を下に向けた。恵美と池田がそれに倣う。

「小野田隊長」隼人は小野田の頭に目をやった。「そのシールドのセンサー、ちゃんと機能しているのか?」

「ああ、機能しているよ」

 小野田は答えるとシールドを下ろし、ヘルメットの顎の左右にあるスイッチを何度か押した。そして「問題ないな」と付け加える。

「そうか。この辺は影響を受けていないか、もしくは障害が収まったかだな」

 隼人が独りごちると、小野田はシールドを上げて首を傾げた。

 ふと思い、蒼依はリュックを胸に抱いて中からスマートフォンを取りだした。それを操作し、通信機能が復帰していることを知る。

「小野田隊長」

 一番奥にいた隊員が言った。その声を聞いた蒼依は、池田であることを知った。池田はシールドを下ろしたままだ。

 小野田が池田に顔を向けた。

「どうした?」

「日本刀が落ちています。それから、いくつかの血痕と……あの……人体の一部が……」

 池田は言葉を濁らせた。彼の言う「血痕」は、士郎のものに違いない。

 眉を寄せた小野田が、池田に近づき、それらを見下ろした。

「これは?」

 小野田は隼人に顔を向けた。

「山野辺士郎の武器と、おれの仲間の体だ」

 重い表情で隼人は答えた。

「処理班を呼ぶが、いいか?」

 小野田は尋ねた。

「フェンスの外はあんたらの管轄だ。しかし、それはおれの仲間の体なんだ。大切に扱ってくれ。その日本刀は山野辺士郎のものだからかまわないが、仲間の体はあとからでも返してくれ」

「わかたった。検視がすんだら、君らに返還する」

「頼む。それから、榎本さんなんだが」隼人は榎本を一顧し、小野田に視線を戻す。「彼は瑠奈ちゃんを救うために命がけで協力してくれたんだ。くれぐれも処置なんてしないでくれよ」

「そうだったのか。彼にはおれたちにも協力してほしいところなんだ。いろいろと訊きたいしね。処置はしないよ。大丈夫だ」

「やっぱり尋問は受けるんだな」

 榎本は肩を落としてうつむいた。

 そして隼人は、瑠奈に顔を向けた。

「おれは任務に戻る」

「また、会えますよね?」

 瑠奈が目を潤ませた。

「当然だ。おれはそのためにこの世界に帰ってきたんだ」

 目を逸らさずに、隼人は言いきった。

 瑠奈は頷く。

「はい」

 それだけで意思は通じたのだろう。蒼依が間に入る必要などなかった。

「尾崎さん」隼人は恵美を見た。「これからも蒼依を頼むよ」

「ええ、大丈夫よ」

 逡巡なく恵美は答えた。

 背中を向けた隼人が、蒼依を横目で見た。

「じゃあな、蒼依。いい隊員になれよ」

「やっぱり知っていたんだ?」

 スマートフォンを手にしたままの蒼依に睨まれて、隼人は肩をすくめた。

「そりゃあ、大事な妹だしさ。気にもなる」

「大事な妹? 気にもなる? うそばっかり」

 そんな蒼依の言葉を聞き流したふうの隼人が、フェンスのほうへと歩き出した。

「あのね、お兄ちゃん」

 蒼依が声をかけると、隼人は足を止めた。

「そのフェンス、飛び越えないでね。裂け目をくぐっていってよね。変な行動を見せると、あたしがあれこれ訊かれるんだから」

 そんな言葉に小野田は得心のいかない様子だった。

「はいはい、わかったよ」

 再び歩き出した隼人は、進路を右寄りに取った。そしてフェンスの裂け目をくぐって演習場内へと入る。

「あとね、お父さんとお母さんのお墓に、ちゃんと挨拶に行くんだよ」

 蒼依その訴えに、隼人は歩きながら右手の親指を立てて答えた。

 やがて隼人の背中が杉林の中に消え、瑠奈が寂しそうにため息を落とした。

 スマートフォンをリュックに戻し、そのリュックを背負って、蒼依は小野田を見る。

「小野田さん、瑠奈を休ませたいんです」

「蒼依ちゃんも休んだほうがいい」小野田はそう返して、榎本を見た。「あんたもだ、榎本さん。特機隊の分註所でゆっくりしてくれ。尋問はそれからだ」

「はたして、特機隊の秘密基地でゆっくりできるかな」

 げんなりとした表情で、榎本は頷いた。

 恵美が胸のインカムで何かをささやいた。そして頷き、小野田に顔を向ける。

「待機中の佐川さんに一号車の発進準備を頼みました」

「わかった。尾崎は三人を一号車まで連れていってくれ」

「了解」答えて恵美は、榎本に顔を向けた。「榎本さん、ご同行願います。広い車がいいのなら、ミニバンも停めてありますが」

 揶揄なのだろう。恵美はあくまでもすまし顔だが、蒼依にはそれがわかった。

「狭いほうでいいよ」

 にこりともせずに榎本は答えた。

 恵美が蒼依と瑠奈に視線を移す。

「行きましょう」

「はい」

 蒼依と瑠奈は声をそろえた。

 セミが鳴き出した。

 暑さが増したような気がした。

 泰輝の着替えは使わずじまいだった。

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