第8話 夏への脱出 ⑥

 時間が止まったかのようだった。

 隼人は神切丸の刃を左脇に――蒼依から見て反対側の脇に、挟んでいた。

「くっ」と顔をしかめて、士郎が息を吐いた。神切丸を引き抜こうとしているが、隼人の左脇に挟まった刃が動かないらしい。

 しかし、それで終わったわけではない。榎本は身動きもせず、行く末を見守る。

「貫かれるのは、もうごめんだ」

 そう告げた隼人が、左脇に敵の刃を挟んだまま、右手だけで構えるあやかし切丸で、自分の正面の門を突いた。隼人の右腕は、肩の近くまで門に飲み込まれていた。

 大きくい目を見開いた士郎が、固まっていた。

 士郎の正面に浮かぶ門から、あやかし切丸の刃が飛び出していた。それが士郎の左胸を貫いている。

 隼人があやかし切丸を士郎の胸から――そして門から引き抜くと、士郎もようやく神切丸を自分の正面の門から引き抜いた。

 地面に右膝を突いた士郎が、左手で胸の辺りを押さえた。その手から鮮血が漏れ落ちる。「このぼくが……やられるとはね。しかし……この程度の傷は……すぐに……癒やしてみせるさ」

 上目遣いに隼人を見ながら、士郎は息も絶え絶えに言った。

「それは困るな」

 そう返すなり、隼人は右手にあやかし切丸を持ったまま、正面の門を飛び越え、さらには前方宙返りひねりでもう一つの門も飛び越え、士郎の左脇に立った。

「その剣でとどめを刺してくれるのか?」

 横目で隼人を見上げつつ、士郎は笑みを浮かべた。

「貴様の望みどおりになんて、させるわけがないだろう」

 士郎を見下ろす双眼が、冷酷な光をたたえた。

 刹那、隼人は飛び上がり、その場で反時計回りに体を横回転させた。一周した瞬間に彼の右足が士郎の背中を蹴った。

 両膝を突く士郎が、前方に倒れ込んだ。その体が地面に突っ伏す前に、彼の頭部が門にかかった。

 榎本は息を吞んだ。彼の右では蒼依と瑠奈が小さな悲鳴を上げた。

 地面にうつ伏せに倒れた士郎には、頭部がなかった。

 胴体側の首の切断面から鮮血が噴き出し、地面をけがした。

 ふと、二つの門が消失した。

「終わったの?」

 おずおずと、蒼依が隼人に尋ねた。

「これで無貌教の脅威がこの世から消え去ったわけではないが……とりあえず、山野辺士郎は死んだ」

 答えた隼人は、士郎の亡骸から離れ、鞘を拾い、あやかし切丸をそれに差し入れた。さらにライフルを拾うと、そのベルトを右腕に通し、本体を背中に回した。

「隼人さんが何メートルも飛んだよ」

 瑠奈が声を落とした。

「うん……飛んだよ」

 どう説明してよいのかわからず、蒼依はそう答えた。

 冷気が引いていった。じっとりとした暑さが戻ってくる。

「ここは演習場の外だし」言いながら、隼人は榎本の前に立った。「拳銃を返してもらおう」

「そうだな。銃刀法違反というやつだな。貸してくれて、ありがとう」

 榎本は銃身を持ってグリップを差し出した。

「おれが無理に預けたんだ。礼を述べるのはこっちだよ。榎本さん、ありがとう」

 そう返した隼人は、拳銃を受け取り、それをホルスターに収めた。

 無貌教の脅威がこの世から消え去ってはいないのだろうが、これでようやく、榎本の肩の荷が下りた。

「でも……泰輝が……」

 瑠奈がうなだれていた。彼女の肩を蒼依が抱いている。その蒼依も、同じようにうなだれていた。

「泰輝くんは不死身なんだろう?」

 意図せず、榎本は口にした。蒼依と瑠奈、隼人の視線を一手に浴びる。

「ならば」榎本は続けた。「また会えるじゃないか」

 精神体とやらが遠い場所に行ったとしても、それは可能と思えた。

 顔を上げた蒼依が、榎本を見た。

「脳を破壊された純血の幼生は親たちの集うところに戻りますが、それだけじゃないんです。脳に蓄積された記憶……思い出が、精神体には残りません。脳と一緒に破壊されてしまうんです。たいくんがのちに肉体を再生させたとしても、もう元のたいくんじゃないんです」

「じゃあ、泰輝くんは蒼依さんや瑠奈さんのことを忘れてしまうのか?」

「はい」蒼依に代わって瑠奈が頷いた。「なんらかの事情でこの地球に再来することがあって……もしわたしの目の前に現れたとしても、以前の記憶はないから、このわたしを襲って食べてしまう可能性があるんです」

「そんな……」と言いさして、榎本は口を結んだ。

 昨日までの自分なら、白い巨獣がどうなろうと気にもしなかったはずだが、今は蒼依や瑠奈と同じ心境だ。この白い巨獣は、ともに苦難を乗り越えた仲間――泰輝なのである。

 隼人が蒼依と瑠奈を見た。

「瑠奈ちゃんも蒼依も、まだ動揺しているみたいだな」

 蒼依と瑠奈は、同時に顔を上げた。何かに気づいたのか、二人とも驚嘆の色を呈していた。

 うつ伏せに倒れている二体の巨獣を、榎本は見比べた。湯気を立てるタイキはミイラのごとくしなびているが、泰輝はしなびるどころか湯気さえ立てていない。そればかりか、噴き出して飛び散ったはずの紫色の体液が、蒸発したのだろうか――地面からも彼の頭部からも消え失せている。神切丸に貫かれた跡も、見当たらなかった。

 榎本は隼人に視線を移した。

「泰輝くんは?」

 不死身なのだから死にはしない、というのはわかる。尋ねたかったのは、泰輝の精神とやらが巨大な肉体に残っているか否かだ。

 隼人は「すぐにわかるさ」と答え、泰輝に顔を向けた。

 冷気は完全に失せていた。


 泰輝の気配は感じるが、泰輝の体に動きはなかった。

 蒼依は瑠奈に顔を向けた。

「たいくんの気配、感じるよ」

 泰輝を見つめていた瑠奈が、驚いたように蒼依に顔を向けた。

「蒼依、泰輝の気配を感じるの?」

 そう問われて、蒼依は説明していなかったことに気づいた。

「あたしね、覚醒……したんだよ。でも、その話はあとにしよう」

「覚醒した?」そして瑠奈は、得心したような表情を見せた。「わかった。あとで、ね」

「うん」

 答えた蒼依は、さらに思い出した。山ほどの聞きたいことを隼人に答えてもらう――という約束もあったのだ。

「動いた」

 榎本の言葉を聞いて、蒼依は泰輝に目を向けた。

 白い巨軀が微動を繰り返していた。

「泰輝……」

 瑠奈の声にはわずかな希望を垣間見た趣があった。瑠奈は見鬼だがその能力は限定的であり、不可視状態の幼生を見ることはできるが、その気配を感じることはできない。

 顎を地面につけたまま、泰輝が目を開けた。赤い眼球が日差しを反射する。

 蒼依は瑠奈の顔に赤みが差したのを見て取り、彼女の左腕から手を離した。

「起きたか」

 隼人が声をかけた。

 おもむろに首をもたげた泰輝が、隼人に顔を向けた。

「隼人お兄ちゃん、山野辺士郎をやっつけたんだね?」

 口を閉ざしたままでのしわがれ声だった。多少こもっているのは、口の中で舌が声を出しているためだろう。

「ああ、やっつけたよ。見ていたのか?」

 隼人が問い返すと、泰輝は首を横に振った。

「目が利かなかった」

「だろうな」隼人は苦笑した。「脳を移動させたからだよ」

 蒼依は「なるほど」と口に出しそうになり、それを抑えた。

 横を見れば、瑠奈も理解した様子で小さく頷いている。

「脳を移動する?」

 榎本が蒼依に顔を向けて尋ねた。

「純血の幼生は脳をほかの部位に移動させることが可能なんです」

 蒼依の問いを受けて、榎本は呆れたように首を横に振り、泰輝に視線を戻した。

「なんてやつだよ」

 そうこぼしつつも、その横顔には安堵があった。

「でもね」しわがれ声が言った。「お腹に移動させた脳が、なかなか頭に戻らなかったんだ。初めてやったから、よくわからなくてさ」

「上等だよ」

 言った隼人が、周囲を見渡した。

 泰輝も左右に首を巡らせている。

 蒼依も感じ取った。

「何か、来る」

 蒼依の言葉に反応を見せた瑠奈が、「また敵が来るの?」とおびえた声を漏らした。

「みんな、周囲を警戒しろ」

 そう告げた隼人が、あやかし切丸を足元に置き、ライフルを構えた。

 純血の幼生ともハイブリッド幼生とも異なる気配だった。塩沢が呼び出したあの存在とも違う。果てしない暗さと圧倒的な狡猾さを有する何かだ。

 泰輝が士郎の亡骸に顔を向けた。

 気配の規模が急に大きくなった。

 すぐそばにいるのだ。

 巨大な黒い何かが、士郎のすぐそばの地面から身を起こした。

 それは大地を割って現れた――のではなかった。地面をすり抜けるように姿を現したのだ。まるで実体がないかのようだが、全身が現れるや、わずかに宙に浮き、そして地面に両足をつけ、弱い振動を起こした。

 身の丈が三メートル以上はありそうだった。人の姿にも似ているが、鳥の翼のような一対の何かを背中に有し、全身は羽毛に覆われている。手足には鋭いかぎ爪があった。顔は漆黒の闇に覆われ、目も鼻も確認できない。

 その姿はどうであれ、蒼依が目を見張る要因はほかにもあった。その何かの左手には人の頭部が提げられているのだ。かぎ爪によって髪をつかまれたその頭部を見れば、目を半開きにした士郎だった。

「飯綱権現」

 つぶやいた隼人が、ライフルの銃口を下に向けた。

「飯綱……天狗?」

 蒼依は高三土神社の主神を思い出した。

「飯綱権現……千の異形を持つ無貌の神……」

 声を震わせたのは瑠奈だ。

「神……」

 榎本も声を震わせた。

 絶望のような空気を感じ、蒼依は体を動かせなくなった。声さえ出せない。

 その存在――飯綱権現の顔に、何かが生じた。双眼とくちばしだ。それらは猛禽類を思わせる意匠だった。

 バニラの香りと腐臭とが混交した。


 この絶望は、果てしない暗さと圧倒的な狡猾さがもたらしているらしい。しかし蒼依は、それが自分――否、自分の仲間に向けられたものではないと悟る。

「山野辺士郎は契約したんだ」

 泰輝の声だった。しわがれ声ではない。つい先ほどまでの泰輝――巨獣の姿となる前の泰輝の声だ。

「生きている間はこのおじちゃんの恩恵を受けられるけど」泰輝は言った。「死んだら、その魂を譲らなくちゃいけないんだ。そういう契約なんだ」

 蒼依は声を出せない。だが、蒼依以外の誰もが黙していた。

「だからおじちゃんは、山野辺士郎を迎えに来たんだ」

 泰輝の言う「おじちゃん」とはこの飯綱権現に相違ない。

「山野辺士郎の頭と体は、おじちゃんや、ぼくの本当のお父さんや、ぼくの本当のお母さんや……たくさんのぐにゃぐにゃたちのおもちゃになるんだ」

 意味は、なんとなく通じた。

「本当のお父さんや本当のお母さんやたくさんのぐにゃぐにゃがいるところは、とても遠いんだ。だから、おじちゃんがぼくも連れていってくれるんだってさ。ぼくはそこへ行っていつも楽しくぐにゃぐにゃたちとがれれとしてくれてやるんだ。だから、ぼくも今からそのぐにゃぐにゃにならなくちゃ」

 さすがに、だんだんわからなくなってきた。

「もう行かなくちゃ」

 赤い双眼が輝いた。

 何か言わなければ――と考えるが、蒼依の口はまったく動かない。

「お母さん、蒼依ちゃん、隼人お兄ちゃん、榎本のおじちゃん……ばいばいだよ」

 泰輝が空を仰いだ。

 腐臭が動いた。飯綱権現が右腕で士郎の体を抱えた。

「泰輝!」

 瑠奈が声を上げた。

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