第6章 緋色の雪花
最終話
淵の側に立てられた粗末な小屋で老人はじっと座っていた。
父親の跡を継ぎ、淵の番人になってはたして何回目、何十回目の冬だろう。
鈍色の空から雪片は絶え間なく降り積もる。
白く白く。
淵から流れ出る小川に沿って伸びる道を
白く白く。
こちらに向かって歩いてくる人影があった。
真白な雪の道を、真っ赤な着物を着た人影がやってくる。
近づいてきたその人影は、金襴の刺繍に彩られた豪華な緋色の打掛を羽織った女人だった。髪は武家の娘の結い方で高々と上げられて、真っ黒な髪は一筋乱れて肩口に零れる。
白く、白い雪の上を、真っ黒な髪が、真っ赤な着物が、それだけが命を持った生き物のように動いている。滑るように、這うように、緋色が雪上に蠢いて、やがて女人は小屋の入り口に立った。
「環姫様」
老人は小屋から出てその女人の足元に額づいた。
それは黒河藩家老にも佐宮司神社の神主にも礼を示さない老人が、唯一、膝を折る相手だった。
「月牙の剣は」
環姫と呼ばれた女人は硬い声音で老人に尋ねた。その目は老人を見ていない。
「ここにあります。けれども、ここにはございません」
環姫は淵の水面を凝っと見つめたまま重ねて老人に尋ねた。
「有れども在らず。ならばそなたは何を守ってここにいる」
「我が守るべきは剣が在ったことを知る人の記憶、剣が有ることを信じている民の心にございます」
「そなたの信じるところは仏の教えには背かないのか」
「仏の教えは人そのもの。人の内にあって、その心の在り方を解き明かすもの。ならば人の心は仏と一つに溶け合いましょう」
「では神とはなんだ」
「神は人ならざるもの。人の外に歴然と有ってその存在を人に知らせるもの。信じる者がいなくても仏は万物に在り、信じる者が無ければ神は消えましょう」
「ならばおぬしを殺せば、おぬしが信じる神をこの世から完全に消し去ることができるのか」
ただならぬ気配に思わず老人が顔を上げると、環姫はいつのまにか老人を見ていた。
美しい女人の、美しい眼が、透徹した巌の硬さで老人を見据えていた。
老人は答えを持っていなかった。だから目を逸らして地面を見た。
真白な雪に覆われた地に、真白な雪片が降り積もる。
鈍色の空から雪片は絶え間なく落ちて、環姫の緋色の着物に、老人の背に、降り積もる。
動こうとしない老人の姿をしばらく見つめ、やがて環姫は来た道を戻っていった。
白い雪、赤い打掛。
淵から流れだす渓流の水は、環姫に追いすがるようにその後ろから流れていく。
月牙の剣が眠る淵から流れる水は狂狼の呪いで黒く染まり、黒い河となってこの地を奔る。
狂狼はかつての月狼。月牙の剣は月狼の剣。月狼が日輪の巫女を守るための。
伝承は入り組んで絡まり、その姿を変容させていく。そして形も定まらなくなって雪に埋もれて消えていく。
月牙の剣を守る事。
老人は淵の側に作られた粗末な小屋の中に戻り、いつもの場所に再び座った。
月牙の剣を守る事。
黒河の地に降り積もる雪はやがて全てを覆いつくすだろう。真白なその平原。まるで誰かが見た夢のようなその景色。
老人は一人、淵を守り続ける。雪は黒河に白く、降り積もる。
静かに。ただ静かに。
海鷹の翼 葛西 秋 @gonnozui0123
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