第7話

 夜、羽代城二の丸御殿の私室で、弘紀は修之輔から矢根八幡宮の状況を聞いた。

「朝永の廟所はたたむことにします。元々徳川公にこの地を拝領するその前に、朝永家は別の地に住んでいたのです。朝廷がこの後、どのような枠組みで国を動かすのか分かりません。ならば私の判断で御霊を天上へお返しする方が良いでしょう」

 弘紀の口調はいつものように明晰だが、どこか空虚が紛れ込む。その感情は、東北で今も続く旧幕府軍との戦闘の影で、残務処理にのみ追われる多くの藩の領主にも共通するものだろう。藩主に課せられた務めとはいえ、その辛苦は修之輔にも伝わってくる。

「……大丈夫です」

 けれど気遣おうとした言葉は、弘紀に事前に封じられた。弘紀の手には江戸から届いた書状がある。修之輔の報告を聞く間もその書状はずっと弘紀の手の中にあった。修之輔の視線の先に気づいた弘紀が、ようやくその書状を文机に置いた。

「江戸の下屋敷で松寿丸の元服を行うそうです」

 松寿丸は弘紀の兄の子で、元服を行えば朝永家の世継ぎとなる。

「この時世ですから略式ですが、それでも将来の当主に相応しいものとなるよう取り計らっています。十月には間に合うでしょう」

 それで一つ片付くことになります、そう云った後、弘紀は沈黙した。

 灯明の灯りが揺れて羽代城の岸壁を打つ波の音ばかりが聞こえる。珍しく、その沈黙を解いたのは修之輔だった。

「弘紀、すべてが片付いたなら、どこかに出かけてみてはどうだろう」

 弘紀が不思議そうに修之輔を見た。修之輔が口にしそうにない話題に、単純に驚いている。

「どこか、とは」

「羽代でもなく、江戸でもなく、これまでに弘紀が行ったことのない地だ」

 修之輔の言葉に、弘紀の目には関心を示す光がともる。

「私にとっては行ったことのない土地ばかりです」

「長崎など、どうだろう」

「長崎ですか」

「ああ」

 自身も思いがけずに口にした長崎という土地の名は、いつかの外田との会話のせいだった。言い訳ではないけれど、修之輔は違い棚に置かれている望遠鏡や晴雨計、装飾が美しい異国の本の背表紙を見た。

 修之輔につられるように弘紀も自分の部屋の中を見まわして、

「そうですね、長崎に行くのはとても楽しそうです」

 そう云って目も唇も笑みに綻ばせた。久しぶりに見た弘紀の華やかな表情に修之輔の口元にも思わず微笑が漏れる。弘紀は書棚に手を伸ばして、舶来の博物図譜を取り出した。ぱらり、と頁をめくれば鮮やかな色彩の鳥の絵が灯明の光の中に現れた。

 

 最後にこの本を開いたのは、いったいいつのことだっただろう。

青い羽をもつ二羽の鳥が描かれた絵は、確か修之輔にも見せたはず。


 思いがけず想起された記憶に弘紀は小さく息を吐き、本を閉じた。

 そうして弘紀はそのまま修之輔の前に歩み寄り、膝を付いて修之輔と間近に顔を見合わせた。


「ずっと、私の側にいて下さい」

 弘紀のそれより明るい色の虹彩の、修之輔の瞳がすぐそこにあった。

「……何があっても側を離れない。そう約束した」

それはこれまでに何度も交わした二人だけの約束だった。


 ふと弘紀が目を開けて、平常の口調で修之輔に問いかけてきた。

「そういえば、あの薩摩浪士を切ったのは貴方でしたか」

 竜景寺を見捨てた寅丸を追っていた薩摩浪士のことだった。明確な肯定の言葉ではなく、弘紀の目を見返したその修之輔の様子で弘紀は修之輔の答えを読み取った。

「寅丸を、逃がすためですか」

 修之輔は、今度は明確に首を横に振った。

「弘紀が、寅丸を切る必要は無い、と言ったから寅丸を斬らなかっただけだ」

「……そうですか。そういえば、私は貴方にそんなことを言いましたね」

 修之輔の応えを聞いても弘紀は驚かなかった。またしばらくの沈黙の後、弘紀はおもむろに立ち上がった。

「外に、出ませんか」


 そうして城の主しか知らない隠し通路の一つを使い、修之輔は弘紀と共に夜の浜辺に降り立った。戦国時代に立てられた城の名残で、断崖に立つ羽代城には当主が外に逃れるための通路がいくつも張り巡らされている。


 今夜、海まで下りたこの通路は、修之輔が初めて知るものだった。表の砂浜ではなく、反対側の岩礁の海に通路の口は開いていて、その先の岩陰に小舟が隠されていた。弘紀は躊躇いなく小舟を引いて海に浮かべ、修之輔に船に乗るよう促した。


 修之輔が櫓を大きく動かすと、舳先の弘紀がそれに合わせて岸壁を蹴る。二人を乗せた小舟は羽代の海へと音もなく漕ぎ出した。海風が凪いた水面にさざ波を立て、月の光が銀色に映る。修之輔が櫓をこぐ手を止めると、天の星空が海の表にも広がった。

 弘紀が夜空を見上げながら云った。

「私のしてきたことは、無駄だったのでしょうか」

 北の空に並ぶ北斗の星が弘紀の瞳には映っているのだろう。修之輔は櫓を留め船の中ほどに、弘紀のつま先が触れる近くに膝を付いた。

「弘紀は十分に対応した。為したことの全てが無に帰ったわけではない。これから先の物事の土台を作ったのは確かだ」

「たしかに目に見えるところはそうかもしれません。それでもこの土地に住むものは信仰を失いました。竜景寺は焼かれ、八幡権現は大きく形を変えました。多くの民が心の拠りどころを欠いたまま与えられた信仰を盲信し、この国はこれから本当に欧米に立ち向かうことはできるのでしょうか」

 強い感情に揺れる弘紀の声は海面に撒かれて、波がそれを消していく。

 修之輔は黙って弘紀の言葉を聞いていた。弘紀の本当の憤りは、きっとそこではなく。


 やがて星空を映す弘紀の目から一筋、涙が頬を伝った。

「……秋生、今だけだから」

 そう云って最初は声を抑え、そのうちに声も涙も抑えきれずに肩を震わせて、弘紀は慟哭した。

 星空を映す海面に向かって泣く弘紀の体を、修之輔は海に落ちてしまわないよう支え続けた。


 例え海に落ちてしまったのだとしても。

 もう一度、濡れた羽を羽ばたかせて空へ戻らなければならない。この海に棲む海鷹、鶚のように。


 明治元年年十一月、朝永弘紀は家督を兄の嫡子に譲り、羽代藩主の座を降りた。


 翌明治二年一月、この時を境に日本全国の領主の版籍奉還が始まり、すべての大名はそれまで治めていた土地から、領主の任から、離れることになった。

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