最終話

 フルフェイスの黒いヘルメットを被り、キーを捻ってエンジンをかけようとした時、家の中から母親が出てきた。


 浩史はいったん被ったヘルメットを脱ぎ、歩いてくる彼女の方を見た。


 スクーターのそばまでやって来ると、母は、


「どこへ行くの?」と、訊いた。


「図書館」


「少し話があるんだけど、オートバイから降りてくれない?」


 浩史はスクーターから降りた。


 母は初めちょっと言いにくそうにしていたが、すぐ彼の方へまっすぐ向き直って口を開いた。


「これからどうするか、もう決めた?」


「いや」


「そろそろ決めていい頃じゃない?」


 問い詰めるような口調ではない。


 心から心配している様子だった。


「まだ考えてないよ」と、浩史は答えた。


「父さんも心配してるのよ」と、母親は続けた。「そりゃ、あんたがあんなことになってガッカリしたのは確かだけど、別にあんたに失望してるわけじゃないのよ。父さんはね、あんたが希望をなくしてどうやって生きていったらいいかわからなくなってるんじゃないかって、それを気にしてるの。ほら、こないだ手紙をくれたあんたの友達も、いい仕事に就いて、もうすぐ結婚するそうじゃない。若い男はね、みんなそうして身を固めようとしてるの。何かを始めようとしているのよ。家庭を持ったり子供を作ったりするのは、社会に対する大人の責任なんだってことぐらい、あんたにもわかってると思うけど」


 浩史は何も言わなかった。


 スクーターのバックミラーに映った自分の顔を、じっと見ていた。


「あたしがあんたを追いつめるつもりで世間の話をしてるんじゃないことぐらい、あんたにだってわかるでしょう。心配なのよ。あんたがもし、誰かステキな娘さんを紹介したいと言うなら、あたしたちはこんな嬉しいことはないの。その人とあんたのことをいろいろ話し合ってみたいと思うのよ。でも、とにかく職に就いて、身を固めてくれなくちゃね。父さんもあたしも、あんたが何の仕事を始めようがちっとも構わないんだから。父さんが昔から言うように、仕事というのは、どんな仕事も貴いものなんだから。とにかく、毎日ブラブラしてちゃいけないわ。何か始めなきゃね」


「話したいことって、それだけかい?」


「あたしたちが信じられないの?」


「うん」と、浩史は肯いた。


 母の顔色が変わった。


「俺は誰も信じてなんかいないんだ」と、彼は言った。


 無意味な言葉だった。


 母にうまく説明できないし、わからせることもできなかった。


 彼を心から愛している母親に対し、そんなことを言うのはバカげている。


 彼女を傷つけるだけだった。


「あんなことを言うつもりじゃなかったんだ」


 浩史は弁解した。


「俺はただ、やりきれなかっただけなんだ。何かにムカついてたんだ。母さんたちを信じないなんて言うつもりじゃなかったんだよ」


「わかってる」と、母は眼鏡をちょっとずり上げて、右手のひとさし指と親指で目頭を押さえた。


「あんただって、もう一人前なんだから。でも、これだけは忘れないで。あんたがあたしたちをどう思おうと、あたしたちはあんたを信じてるってね」


 浩史は日常からあらゆる感動を排斥しようと努めていた。


 なぜなら、彼が言葉であれ、事実であれ、イメージであれ、他のどんなものにであれ、感動を覚えた時には、決まってその後により大きな失望や挫折を味わうことになっていたからだ。


 だから、母親の親身な言葉を聞いても、とりたてて何とも思わなかった。


 気の毒になっただけだった。


 とりあえず、ハローワークへ行って何か仕事を探そう。


 そうすれば、彼女も安心するだろう。


 職種によっては、またひと騒動持ち上がるかもしれない。


 ともあれ、サラリーマンになることだ。


 やがて、母は身を翻して家へ帰った。


 その姿が門の向こうへ消えてしまうのを見届けてから、浩史は緩慢な動作でヘルメットを被り、キーを捻ってスクーターのエンジンをかけた。


 分厚いヘルメット越しに、真夏の熱気に押し潰されそうな排気音が聞こえてくる。


 彼は図書館へ着いたら、坂口安吾の「堕落論」を読もうと思った。

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ニートですが何か? 令狐冲三 @houshyo

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