第11話 熱帯魚

 セーフティーハウス。彼らはこの場所をそう呼んでいた。


 階段を下りたところにあった小さな地下室で俺を出迎えたのは、佐久間だった。

 佐久間とは、飯島と一緒の時に何度か顔を合わせたことがある。


 ただ、佐久間が何者なのかは知らなかった。

 飯島と親しくしているということから、堅気な商売をやっている人間ではないだろうということは想像できていた。


「飯島の親父さんは残念だった。南雲、私はお前のことを助ける。それが飯島の親父さんからの依頼だ」

 佐久間によれば、飯島は生前から自分にもしものことがあったら、南雲を救い出すようにということを佐久間に依頼していたとのことだった。飯島は、このようなことになることを想定していたということだろうか。


「いまの名前は捨てて、新しい自分に生まれ変われ」

 テーブルの上に書類の束が置かれた。そこには俺の顔写真付きで、まったく別人名義の運転免許証とパスポートなどがあった。


「もう、誰もお前を南雲なんて呼ばないさ。元々、南雲も偽名だろ」

 鼻で笑うようにしながら佐久間はいうと、席を立ちあがった。


 佐久間の言う通りだった。

 南雲という名前も孤児院で一緒だった奴から頂戴した名前だった。

 本当の名前は知らない。苗字は何度も変わった。呼び名など、所詮は記号のようなものだと思っていた。

 だから、新しい名前もすんなりと受け入れることが出来るだろう。


「もし次に俺たちと顔を合わせるようなことがあったら、それはお前に死が訪れる時だと思え」

 佐久間はそう言って笑うと、俺を送り出した。



※ ※ ※ ※



 壊れた水槽から抜け出した俺は熱帯魚という名前を捨てて、空へと舞い上がった。


 風が吹いている。

 この風が凪ぐことのない限りは、空を飛び続けることが出来るだろう。


 もう足枷は存在しない。

 これからは、ひとりで生きていく。


 雲の切れ間からまばゆい光が見えた。

 そこには観音様がいた。


 おれは観音様に別れを告げて、地上を目指して翼をたたんだ。

 この先、なにが待っているかはわからない。


 わからないから、おもしろいのだ。

 人生ってそんなもんだろ。



【熱帯魚:完】

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熱帯魚 大隅 スミヲ @smee

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