第3話 南へ

村長宅に

大連行きを探していた班のメンバーから

連絡がきた

「斉斉哈爾(ちちはる)に行こう、斉斉哈爾から大連までの列車がある。

大連からは博多まで船で帰れるぞ」


1946年5月

村長宅から出発し

とある川沿いの村についた。

この嫩江(なんこう)という川を南に下れば、斉斉哈爾に到着する

距離は150㎞だ

筏は3つ用意されて、漕ぎ手は朝鮮族。そして護衛は中国八路軍だった


筏に乗り込み出発

最初はとても怖かったけど、

朝鮮族の方も八路軍の兵士もとても親切で、

冗談を言って私達を楽しませてくれた


夜は岸辺につけて野営。

狼に襲われないように焚火をしたけど、とても寒い

八路軍の兵士は布団にくるまり暖かそうに寝ている姿は、今でも覚えてるわ


さて、残り30㎞となった時に、八路軍の兵士はさっきまでの優しい顔が嘘のように

恐ろしい顔で命令したの

「もうあなた達は食事がないんだろ、これ以上は進めれないよ!降りな、降りな!」と


私達は、仕方なく降りて歩く。

もう食事はない。

乳飲み子の弟ひろしも心配だし、

母も弱っている。

弟ひろしを、私とすぐ下の妹よう子と交代で背負った。


やっと村落を見つけた。すると村人は

「あんたら日本人も戦争の犠牲者ですよ。食事をとりなさい」

とても親切な言葉


助かった!


しかし、


「え?こんな赤ん坊も一緒なのかい?」


と私が背負ってる弟ひろしを指した


「この子も日本まで連れて行くのかい?

無理だよ!悪い事は言わない。

この子は私が責任をもって預かるから」


すると父と母が「でも、それでは・・・」


「大丈夫だよ。日本と中国はきっと近く国交が正常化する。

そうしたら受け取りに来たらいい。

でなきゃ、あんたらも皆全滅するよ。信頼して、この私を」


息子を、弟を置いていくなんて、親として家族として最低でしょう?

でもね、もう私達は限界だったの。

私達家族は弟ひろしを最後に抱きしめて別れを告げたんだ。


そしてその日の夕方

斉斉哈爾の郊外に到着すると

なんと人力車があったの!


なるべく弱ってる人を人力車に乗せて、その日の夜中に斉斉哈爾に到着したの

日本人が経営してたっていうホテルにね


何か臭う。とても臭い。

でも疲れたから眠ったわ。

そして日が空けると、臭いの理由が分かったの


このホテルにはね

満州中から集まってきた日本人だらけで、

殆どが病人だったの。いや、死んでる人もいたかもしれない。

ウジ虫が湧いていたから


そして中庭の筵(むしろ)をめくると、

大量のハエで真っ黒だ。そこがトイレだったの


「こんなところで生活できる訳がないわ」

私は、すぐ下の妹よう子とホテルを出て、うどん屋に住み込みで働いた


2ヵ月程経過したかしら


8月になって、一番下の妹ひで子が、うどん屋に飛び込んできた

「お姉ちゃん!列車の切符が取れたんだって!大連に行けるよ。日本に帰れるんだよ」


・・・

こうして我々は助かった

斉斉哈爾から、大連まで1,100㎞。

屋根の無い貨物車だが、歩くよりはずっとましだ。

途中、列車を乗り換えたりしながら

大連に到着し、


そしてついに大連から日本に向けて船に乗り込んだ。

玄界灘は揺れる、でも看板から父と見た空が綺麗だったあ

快適ではなかったけど、家族皆でよく笑ったっけ


博多について米国進駐軍に白い粉を噴霧され、1週間も検便をとらされ

ようやく日本の地を踏んだ


・・・

令和4年秋、私けい子は、92歳になりました。

元気でしょう?丈夫なのよ!だってね、弟ひろしが生まれてすぐ、

私は結核にかかったらしいの

あの村長の家の時よ。


お医者さんが診察しようとしたのを父母は止めたの

何故ってね、

もし結核だったら、

皆に伝染するから、

置いていかないといけないから

黒竜江省のこの村長の家に


冗談じゃないって!って、母は、医者がそっと渡してくれた薬すら捨てたんだから。

だからね、私はね。自力で結核を治癒したのよ


でもね

一番下の妹ひで子はね、私と違って丈夫じゃなかったみたいでね


博多に到着して1年後に亡くなったの。

まだ9歳だったわ。

うどん屋に「お姉ちゃん、列車の切符が取れたんだって」って、

元気よく言ってくれた笑顔が忘れられなくてね

なんで、私より先に、あんな明るい子がって思い出すとね。。。


すると隣の父がね。正座したまま

「ごめんな、ごめんな。ひで子。お父さんのせいやで。かんにんやで」って

小さい声でね。。

「ひで子、俺はな、お父さんはな、広い農園を経営したかったんや。

お父さんが小さい時にな、家に馬が2頭おったんやで。

でも日本は狭いやろ。せやから広い平原に馬に乗って走らせて生活するのが夢やったんや。

俺が悪いねんで。ほんまにごめんな。ひで子、ひで子・・・」


・・・

けい子の言葉はこれで途切れた。

ここからは私作者である商社城が語ります


さて、このけい子は?家族はどうなったのか?


中国人に預けた弟ひろしは、

なんと父が斉斉哈爾まで引き返し

日本に連れ帰った

父の意地でしょう。ひろしまで死なせてはいけないって。


そして中国人の村人も親切で

信頼できる人だったのでしょう

ひろしを預かりちゃんと育ててくれたんだから


その父は20年後の60歳に他界し、

母は長生きし87歳で逝った。


すぐ下の妹よう子は

今から30年前にガンで世を去った。63歳

弟ひろしは

抜群の成績で大手企業に就職し一生勤め上げ、

そして3年前に他界した。73歳だった


だから

この逃避行を共にしたこの家族には、

もうけい子しか残って居ない。


この物語は、けい子の息子しんすけが、母から聴き取った真実です。

・・

以上で、私筆者はこの物語を終えようとしたが


けい子の息子しんすけが私に言った

「商社城よ、俺の事に気を使わなくて良いんだよ。最後はさあ・・・、最後までだよ・・、

真実を書いて欲しいんだ。結末はこうだよ


『90歳になったケイ子が、誰の力も借りず、自らの記憶を辿り自らの手で書いた物語だ』


ってね」


「そうだ、商社城さんよ、週明け出張から東京に戻ったら、

俺の手元にある直筆の原稿をPDFで送るよ。

是非それも見てあげて、母の力強い筆跡をさあ・・・、

どうか、見てあげてヨ。

90歳を越えてるのに息子の俺に伝えうようとした字を」


高架下の焼き鳥屋で私としんちゃんは

ビールを傾けていた。私は言った

「しんちゃん、もちろん見ますよ。」


令和4年秋

けい子は今もよく話し、よく食べ、よく笑う、よき老母で、健在です

以上

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逃避行 商社城 @shoushajoe

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