精神科医・虚井華子のカルテ
真花
Case 6 田島 春
人間には二種類いる。努力したい人間と、努力したくない人間だ。優劣はない。努力したくても努力しない人もいれば、努力したくなくても努力する人もいる。でも快適なのは、したい人がして、しない人がしない状況だろう。私は努力はしたくない。したくないけど必要に迫られてしている。患者の中にも、こういうアンマッチに苦しんで発症する人がいる。多数派ではない。精神疾患の全体像からしたら少数だ。それでも、そう言う人達がいる。
「
受け付けの声に返事をしてカルテを開く。今どき紙カルテなのには閉口するけど、田島さんの件のように診療に融通を効かせてくれるから、このクリニックでまだ働こうと思う。アナウンスで田島さんを呼ぶ。
診察室のドアを開けて入って来た彼女は、エネルギーが十分にある顔をしている。話をするまでもなく調子がいい。一礼する彼女に椅子を勧める。彼女は荷物をラックに置いて、ちょこんと椅子に座る。小柄で、品のいいセーターを着ていて、外で見かけたらごく普通のおばあちゃんだろう。
「調子はどうですか?」
「大丈夫です」
「睡眠、食欲、どうでしょう?」
「問題ないです」
「気分の落ち込みはないですか?」
「ないです」
テンポよく必要な質問に答えが返って来て、三分も経たない内に状態の把握が済んでしまった。調子いいなら帰って貰おうかと考えてみても、彼女とは話をすることが決まりになっているから「じゃあまた次回」とはいかない。いつも何かしら彼女が話題を持って来る。最初の頃は夫のこと介護のことが中心で、まさに重大なストレス因であり、ここで話すべきことだった。だが、状態が改善するに従って雑談のようなことが増えて来て、でも、そう言う話の中に彼女の今の問題が潜んでいることがあるから、それを話した。過ぎ去った日の問題で今にも尾を引いているものもあった。夫が壮年期に愛人を作り、
だけど、病状が本格的に改善すると、治療として意味のある雑談が減り、本物のどうでもいい話が紛れ込んで来るようになった。面談はそれでいい。最終的に、ここで話すべきことがなくなると言う状態になって、面談は終わる。私達はその瀬戸際に立っていて、そうなれば、面談のある診察は終わりになる。最も余白の多い面談。
「先生には本当によくして頂いて、感謝の言葉もありません」
「いえ」
「ところで、先生には守秘義務がありますよね?」
彼女の言葉に、空間がじとっと歪むような感覚。私の中身がさっと身構える。
「もちろんあります」
彼女は居住まいを正して、ひと呼吸をゆっくりとする。
「夫の、本当の死んだ理由を、聞いてくれませんか?」
「肺炎じゃ……。聞きます」
彼女は薄く笑う。さっきまでの溌剌さからはほど遠い、幽鬼のような顔だ。私はカルテに乗せていた右手からペンを置き、彼女に向き直る。
「夫が本格的にボケて、寝た切りの生活になりました。私はその世話をしていました――
来る日も来る日も、食事を食べさせ、おむつを替える。
「いつまで続くんだろう」
彼が呼んでいる。私はベランダから部屋に戻り、彼の側の椅子に座る。
「あなた、どうしたの?」
彼は私のことを呼んだことを忘れたのだろう、とぼけた顔をする。いつものことだ、気にしてもしょうがない。
「じゃあ、私、向こうに行くからね」
私が立ち上がると、彼が「待って」と制する。
「どうしたの? 待って、なんて珍しい」
「あ、あ、……」
彼は何かを言おうとしている。私は笑顔を作って耳を傾ける。でもなかなか彼の言葉が出て来ない。
「何?」
促すと彼が目を見開く。
「ありがとう」
自分の耳を疑った。そしてその意味が自分に浸透して来ると、労われた言葉に、温かい涙が零れた。
「あなた、当然じゃない、だって私達、夫婦なのよ」
彼は頷く。私の言葉が分かっているのかも知れない。
「ありがとう」
「私こそ、そう言ってくれて嬉しいわ」
「ありがとう、恵美子」
エミコ? ……あの恵美子? あの恵美子!? この人は私じゃなくて恵美子に世話をされていると思っているの? いや、ボケているんだ。単純に間違えただけの可能性は十分にある。
「春よ。恵美子じゃないわ」
「恵美子。春はいらない」
私から血の気が一気に引く。腹の底にずっと昔に埋めた炎が、柱になる。この人はずっとそう思って生きていた。私のことじゃなくて恵美子のことを想って、私と暮らしていた。
「あなたがいらない」
こんな生活一日も早く終わりにしなくちゃならない――
「夫を殺すことに決めたんです」
私は声を出せなかった。子供のように頷くことしか出来なかった。
「殺し方は簡単です。飲み込みの機能が落ちていましたから、普通の食事を普通に与えただけです。三日目で熱が出て、それでも食べさせ続けたら、二週間で死にました」
私は頷く、とてもぎこちなく。
「先生、私がおかしくなったのは、介護疲れでも、夫を失ったからでもないんですよ。夫を殺した罪悪感から、おかしくなっていたんです。先生のお薬はよく効きました。今はすっかり元気です。本当にありがとうございます」
何かを言わなければならない。彼女は私の言葉を待っている。
「よくなってよかったです。今回で、診察、終わりにするのはいかがですか?」
彼女は人間に戻ったような顔をして笑う。でもそれが全部が人間で出来ているようには見えない。
「私もそう思っていました。これまで、ありがとうございました」
彼女はそう言うと自ら席を立って、深々と一礼して、診察室を後にする。出る瞬間にチラと振り返って、もう一礼する。そのときの口角が上がっていた。
彼女がどうして最後に罪を告白したのかは分からない。私の見立てが大間違いだったことを伝えたくなったのだろうか。夫を喪ったことではなく、夫を殺したことが不調の原因だった。それは私に対する慈悲のようだ。その慈悲の一部でも夫に向けることをしたなら、夫は死なずに済んだのかも知れない。だけど、誰かに負担だけをかけて将来性もない人物を、殺していけないと言い切ることが私には出来ない。もちろん、この国の法はそれを許していない。それでも、そのような状態にあることは、殺意が生まれたら容易に実行される状況のような気がする。私はプロだから、失敗から学び、次を改善する義務があり、権利がある。田島さんの殺人は私に出会う前に成されたものだけど、今後同じようなことが起きそうなケースでは、気を配ってみる価値はある。
私は「田島春」のカルテを閉じた。
(了)
精神科医・虚井華子のカルテ 真花 @kawapsyc
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