精神科医・虚井華子のカルテ

真花

Case 6 田島 春

 人間には二種類いる。努力したい人間と、努力したくない人間だ。優劣はない。努力したくても努力しない人もいれば、努力したくなくても努力する人もいる。でも快適なのは、したい人がして、しない人がしない状況だろう。私は努力はしたくない。したくないけど必要に迫られてしている。患者の中にも、こういうアンマッチに苦しんで発症する人がいる。多数派ではない。精神疾患の全体像からしたら少数だ。それでも、そう言う人達がいる。

 田島春たじまはるは今日の最後の患者だ。話をすること自体に治療効果があると考えて、面談に近い形態を取っている。彼女は七十五歳の女性で、認知症の夫の介護疲れに引き続く、夫の死をきっかけに発症した。投薬とともに話を繰り返す中で改善し、もう終診が近い。話の中で浮き出て来たのが、アンマッチだった。彼女は私と同じかそれ以上に努力をしたくなくて、だけど孤独に、強いられた介護という努力を重ねて来た。それが、夫が死亡したことによって一気に緊張の糸が切れ、それまで溜めて来たストレスが爆発しての発症と言うのが私の見立てだ。

虚井うつろい先生、患者さん見えました」

 受け付けの声に返事をしてカルテを開く。今どき紙カルテなのには閉口するけど、田島さんの件のように診療に融通を効かせてくれるから、このクリニックでまだ働こうと思う。アナウンスで田島さんを呼ぶ。

 診察室のドアを開けて入って来た彼女は、エネルギーが十分にある顔をしている。話をするまでもなく調子がいい。一礼する彼女に椅子を勧める。彼女は荷物をラックに置いて、ちょこんと椅子に座る。小柄で、品のいいセーターを着ていて、外で見かけたらごく普通のおばあちゃんだろう。

「調子はどうですか?」

「大丈夫です」

「睡眠、食欲、どうでしょう?」

「問題ないです」

「気分の落ち込みはないですか?」

「ないです」

 テンポよく必要な質問に答えが返って来て、三分も経たない内に状態の把握が済んでしまった。調子いいなら帰って貰おうかと考えてみても、彼女とは話をすることが決まりになっているから「じゃあまた次回」とはいかない。いつも何かしら彼女が話題を持って来る。最初の頃は夫のこと介護のことが中心で、まさに重大なストレス因であり、ここで話すべきことだった。だが、状態が改善するに従って雑談のようなことが増えて来て、でも、そう言う話の中に彼女の今の問題が潜んでいることがあるから、それを話した。過ぎ去った日の問題で今にも尾を引いているものもあった。夫が壮年期に愛人を作り、恵美子えみこと言うその女の影にずっと腹の焼ける思いをしたこと。夫はその後別れたと言うけど、そうだと信じられるまで時間を要したこと。子供が出来ずに親戚からの視線がずっとずっと痛かったこと。

 だけど、病状が本格的に改善すると、治療として意味のある雑談が減り、本物のどうでもいい話が紛れ込んで来るようになった。面談はそれでいい。最終的に、ここで話すべきことがなくなると言う状態になって、面談は終わる。私達はその瀬戸際に立っていて、そうなれば、面談のある診察は終わりになる。最も余白の多い面談。

「先生には本当によくして頂いて、感謝の言葉もありません」

「いえ」

「ところで、先生には守秘義務がありますよね?」

 彼女の言葉に、空間がじとっと歪むような感覚。私の中身がさっと身構える。

「もちろんあります」

 彼女は居住まいを正して、ひと呼吸をゆっくりとする。

「夫の、本当の死んだ理由を、聞いてくれませんか?」

「肺炎じゃ……。聞きます」

 彼女は薄く笑う。さっきまでの溌剌さからはほど遠い、幽鬼のような顔だ。私はカルテに乗せていた右手からペンを置き、彼女に向き直る。

「夫が本格的にボケて、寝た切りの生活になりました。私はその世話をしていました――


 来る日も来る日も、食事を食べさせ、おむつを替える。秀信ひでのぶさんが天寿を全うするまではこの生活が続く。私の人生って、こうやって浪費するためにあったのかな。私はベランダで空を見ることが多くなっていた。だからってそこから飛び降りようなんて思ってないし、夫婦として生きて来たのだから、責任がある。それでも漏れるため息が止められない。

「いつまで続くんだろう」

 篠田しのださんは私と同じ状況から、旦那さんを亡くして、「今は自由よ。あなたもそうなるから、それまで耐えなさいね」と励ましてくれた。親族は冷たく、私のやるべきことと扱う。でも、どっちにしろ介護を肩代わりしてくれないのは同じだ。

 彼が呼んでいる。私はベランダから部屋に戻り、彼の側の椅子に座る。

「あなた、どうしたの?」

 彼は私のことを呼んだことを忘れたのだろう、とぼけた顔をする。いつものことだ、気にしてもしょうがない。

「じゃあ、私、向こうに行くからね」

 私が立ち上がると、彼が「待って」と制する。

「どうしたの? 待って、なんて珍しい」

「あ、あ、……」

 彼は何かを言おうとしている。私は笑顔を作って耳を傾ける。でもなかなか彼の言葉が出て来ない。

「何?」

 促すと彼が目を見開く。

「ありがとう」

 自分の耳を疑った。そしてその意味が自分に浸透して来ると、労われた言葉に、温かい涙が零れた。

「あなた、当然じゃない、だって私達、夫婦なのよ」

 彼は頷く。私の言葉が分かっているのかも知れない。

「ありがとう」

「私こそ、そう言ってくれて嬉しいわ」

「ありがとう、恵美子」

 エミコ? ……あの恵美子? あの恵美子!? この人は私じゃなくて恵美子に世話をされていると思っているの? いや、ボケているんだ。単純に間違えただけの可能性は十分にある。

「春よ。恵美子じゃないわ」

「恵美子。春はいらない」

 私から血の気が一気に引く。腹の底にずっと昔に埋めた炎が、柱になる。この人はずっとそう思って生きていた。私のことじゃなくて恵美子のことを想って、私と暮らしていた。

「あなたがいらない」

 こんな生活一日も早く終わりにしなくちゃならない――


「夫を殺すことに決めたんです」

 私は声を出せなかった。子供のように頷くことしか出来なかった。

「殺し方は簡単です。飲み込みの機能が落ちていましたから、普通の食事を普通に与えただけです。三日目で熱が出て、それでも食べさせ続けたら、二週間で死にました」

 私は頷く、とてもぎこちなく。

「先生、私がおかしくなったのは、介護疲れでも、夫を失ったからでもないんですよ。夫を殺した罪悪感から、おかしくなっていたんです。先生のお薬はよく効きました。今はすっかり元気です。本当にありがとうございます」

 何かを言わなければならない。彼女は私の言葉を待っている。

「よくなってよかったです。今回で、診察、終わりにするのはいかがですか?」

 彼女は人間に戻ったような顔をして笑う。でもそれが全部が人間で出来ているようには見えない。

「私もそう思っていました。これまで、ありがとうございました」

 彼女はそう言うと自ら席を立って、深々と一礼して、診察室を後にする。出る瞬間にチラと振り返って、もう一礼する。そのときの口角が上がっていた。


 彼女がどうして最後に罪を告白したのかは分からない。私の見立てが大間違いだったことを伝えたくなったのだろうか。夫を喪ったことではなく、夫を殺したことが不調の原因だった。それは私に対する慈悲のようだ。その慈悲の一部でも夫に向けることをしたなら、夫は死なずに済んだのかも知れない。だけど、誰かに負担だけをかけて将来性もない人物を、殺していけないと言い切ることが私には出来ない。もちろん、この国の法はそれを許していない。それでも、そのような状態にあることは、殺意が生まれたら容易に実行される状況のような気がする。私はプロだから、失敗から学び、次を改善する義務があり、権利がある。田島さんの殺人は私に出会う前に成されたものだけど、今後同じようなことが起きそうなケースでは、気を配ってみる価値はある。


 私は「田島春」のカルテを閉じた。


(了)

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