散るゆえによりて

柚木呂高

散るゆえによりて

 雨が淋漓と地面を刺すと、跳ねる水玉がはたはたと音を鳴らす。亜弓と珠名はオールナイトのイベントを途中で抜け出して、珠名の家で幽密を交わそうということになった。クラブの軒下で雨を眺めていると、音楽の低音は扉をすり抜け雨音を貫いて二人の足元で響いた。酒と混ざり物に酔いながら、濡れることをも厭わず街へ出ると、眠りを知らぬネオンと車の灯りに照らされて白百合色から唐紅へと斑にふたりの女の肌を塗る。珠名はこの汚れた光の下にあっても楚々たるを変えず、長い金色の髪が頬に張り付いたままに亜弓に微笑みかける。化粧が落ちても、カバンの中がずぶ濡れになっても、二人は互いに笑い、踊る様に夜雨を駆けて行く。やがて外人街とされる地域にたどり着くと、そこの小さな襤褸アパートに笑い声は吸い込まれていった。アパートの入り口ではマウスドラムスを口ずさむ骨と皮ばかりの老人が、遠のいていく姦しい笑い声の方に目を向けて、遠い母国の女たちへ蓴羹鱸膾を惹起させた。扉を閉じると二人は口づけをしながら互いの肌に張り付いている服を脱ぎ去っていく。まるで軟体動物のように服が床に這う、そこから雫が流れて廊下を静かに濡らしている。水で重みを増していた布はすべて取り除かれ、二人の周りには未だに音楽でも鳴っているように軽やかだった。肌刺すような寒さの中で、二人の体温と内臓が湯気を上げている。重なっては離れる唇と唇の間に互いのほけが混ざり合い、人を酔わすような香りを漂わせていた。やがて女の気が上昇し、その先で果てると、二人はぐったりとして布団の上でぬれ煎餅のようにひっついて伸びた。

 間接照明が柔らかく二人の裸体を浮かび上がらせて、時計の音が午前三時の鐘を鳴らす。すると俄に雨音の隙間から秒針を刻むチチチという音が複数に折り重なって聞こえる。亜弓は薄暗い部屋の中を目を凝らして眺めると、アンティークの家具の隙間隙間に時計が犇めくように置かれていることに気が付いた。部屋のどこを見ても視界の何れかに時計が入ってくる。

「時計の音って豺狼なのよ」と珠名が言う。「それが如何にも肉に食い込むようでわたしは好きなんだ、自分の脈や血の温かみを感じられるみたいで」時計の針の軋む音に血を滴らせる彼女の姿を想像して亜弓は背筋に快い寒気が走るのを感じた。熱の冷めていく体が目の輝きを強くさせ、先程まで闇とほけに曇っていた部屋の中を仄かに明らかにした。本棚はガラス戸が閉じていて中がよく見えない、布団の脇にはノートPCが閉じて置いてある、レコードやCDの棚の上にはターンテーブルが置いてあり、その脇には灰の落ちた香皿がそのままになっていて、部屋の三箇所にある鏡は全て裏側を向いている。

「鏡」と亜弓が言うと、「うん、好きじゃなくて」と宛転蛾眉な娘は言った。亜弓は唇を歪ませて笑った。

「自分自身のことって、自分がイメージしているものと実際のものは、ずいぶん乖離するものだしね、それはわたしが鏡を見るときも感じるよ」

「あなたも鏡が嫌いなの?」と珠名は共感を得られたように喜んで亜弓の黒い髪を柔らかく撫でた。亜弓もまた、珠名ほどではないが美しい顔をしていた。その唇の枸杞の実のような皺を珠名は細く青い指でなぞった。指は唇の熱で溶けそうだった。すると玄関でバタバタと扉が慌ただしく開閉する音が聞こえて来た。

「お母さんが帰ってきたわ、もう寝る時間ね、これヘッドフォン、よかったら使って」

 そう言うと珠名は自分もヘッドフォンを付けて布団をかぶった。亜弓は訝しみつつもそれを真似てヘッドフォンを付け、珠名と同じ布団に入り込んだ。スマートフォンに接続したが、音は流さず耳を澄ませていると襖を隔てた向こうの部屋からうめき声が聞こえて来る。

「アバズレが、また女を連れ込んで腰を振って! 誰の血だ! 誰の血だ!」

 テーブルに置かれた色々な物が跳ね飛ばされて、子供がおもちゃ箱をひっくり返したようになにやら陽気に鳴った。

「海外で子供を買わなきゃ祥太が離れることもなかったんだ、この淫乱が!」

 財布を床を叩いて中の小銭が踊り出る音が聞こえてくる。珠名の母親による一人のサーカスが開かれていた。客は実質亜弓だけだった。珠名は音楽の中に沈んで帰ってくる様子はない。

「お前なんて産まなきゃ良かった! 聞いてるのか! 睡蓮の液汁に沈めて殺せば良かった!」

 彼女は毎日親からのこの強い呪詛を聞きながら眠っているのだろうか。いや、聞いていたからこうやって耳を閉じる術を身に着けたのだろう。隣の部屋で殺気立った実親が暴れ喚いている。彼女はいずれこの親に殺されるだろう、それは直接的な方法でなくとも、精神の摩耗によって死を選ぶかもしれない。亜弓の唇が再び歪に笑った。小さく誰に聞かれないような二十五番糸のような細い声で紡いだ「珠名は物語の主人公だ、彼女はそれを取り巻く環境、自分の脆い感性の上に生きている」それがどうにも嬉しい。もし彼女が死んだとき、それはそう遠くないような気がする、そのときは亜弓は物語の登場人物として名前が連ねられるだろう。珠名の青白い額を小指で優しく撫でる。「わたしのかわいい子、あなたの物語に早くわたしを刻んでちょうだい」時計の捻じれる音が幾重にも重なって、亜弓の細い吐息のような声をかき消した。布団の横の丸鏡をくるりと回して珠名の寝顔を映した。親からの悪意を浴びてそのひび割れそうな青白いなめらかな肌に、亜弓は見惚れた。それは盆に捉えた月に似た。

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散るゆえによりて 柚木呂高 @yuzukiroko

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