おやすみ、僕の半身
聖願心理
どう足掻いたって、それは僕の半分。
別に、高望みをしたわけではなかった。憧れた仕事で生きていければ、それでよかった。
憧れというものは、きらきらと輝いて、僕の真ん中に居座り続けるくせに、決して僕を救ってくれない。手放してもくれない。本当にそこに在るだけ。支えにもなるし、枷にもなる。残酷なものだった。
*
ああ、もう無理だ。
そう思ってしまったのは、いつだっただろうか。
はっきりとは思い出せない。
毎日毎日、同じようなことを思っていた。ただ、それは一時の感情でしかなかっただけで。決定打にはならなかっただけで。
憧れが、現実に呑まれてしまったのは、いつだったのだろう。
「……やめるのか」
「うん」
居酒屋の端の席で、僕は同期の賢也と飲んでいた。その居酒屋は繁盛しているとはいいがたく、時間帯にしては静かだったし、人もまばらだった。
「そうか」
賢也はそれだけ言って、ビールをぐいっと飲む。
「すぐにってわけでもないけど。やめるために、やらないといけないことは色々あるし」
「誰かに話したのか」
「マネージャーと社長だけ。同業者に言うのはお前が初めてだよ」
「そうか」
初めて話すなら、賢也にと決めていた。同じ事務所に同じ時期に入った同期で、多くの時間を共に過ごしてきた。楽しさも、苦しみも。それらは確かに積み重なって、僕らの関係を深めてくれた。
「これは俺の我儘なんだが、決める前に相談してくれても良かったのにな」
そんな前置きができる賢也は、流石だなと思う。
「ごめんな。相談したかったんだけど、賢也は忙しそうだったから」
僕らは同じ事務所に所属する声優だ。賢也は売れっ子で、僕は知る人ぞ知る、そんな程度の声優だった。
賢也の実力は確かだと思うし、僕は何かが足りなかった。それは、実力かもしれないし、運かもしれない。何かをひとつに絞ることはできなかった。
絞ってしまったら、どんな理由であれ、立ち直れなくなってしまうだろうから。
「というのは、言い訳みたいなもんだよな」
賢也に相談しようと思えばできた。彼は真摯だから、どんなに忙しくても、時間をとってくれて、彼なりの助言をくれただろう。けれど、僕はそれをしなかった。
「自分でもよく、わからないんだよ。たぶん、話したくなかったんだと思う」
自分でも酔っているのがはっきりとわかって、口がよく回ることを感じていた。
「自分のことだから、自分で、自分ひとりで決めたかった。誰かに責任を押しつけたくなかった。相談なんかしたら、弱い僕はきっと、誰かに押しつけてしまって、ずっと後悔するだろうさ。これが、綺麗な感情」
「……汚い方は?」
「賢也にわかるかって思った。これで食っていけるお前に、何がわかるんだよって。醜い意地だよな」
「そうか」
賢也は不満ひとつ漏らさなかった。ただ、困ったような表情を浮かべていた。
「わかってるんだよ。そんなことないって。それに、売れっ子には売れっ子なりの悩みや苦しみもあるって」
「わかっていても、ままならないことってあるよな」
僕がやめることによって、賢也だって多少の傷はつく。売れてる者は、売れず、やめていく者を、何度も何度も見送らないといけない。やめる側はそれっきりだけど、見送る側に明確な終わりなんてない。
どちらが苦しいかなんて、わからない。比べる必要もなかった。
「決めたんだな」
「うん」
「なら、反対はしない。けど、理由を聞いてもいいか? 仕事、全くないってわけじゃないだろう」
彼は納得するために聞いてきたわけではない。だから、何の気兼ねもなく、ありのままを話すことにした。
「ああ、無理だって、思ったんだ。ある日、唐突に、なんの前触れもなく」
「……」
「今まで踏ん張ってきた。どんだけ辛くても、苦しくても、報われなくても。心の真ん中に、大きな柱があったから。けどさ、それがなくなった。さらさらって崩れて、綺麗になくなってしまった。そうなったら、もうおしまい。悔しさよりも、解放されたって気持ちの方が大きいんだ」
賢也は何も言わなかった。表情はよく見えなかったが、複雑そうな顔がなんとなく頭に浮かんだ。
その後、会話は止まり、飲んだり食ったりと、ぼんやりとした時間が過ぎていった。
「……なあ、俺にできることはあるか?」
そろそろ解散にしようかといった雰囲気になったとき、賢也がそんなことを切り出した。
「できること、か」
「今の仕事のことでも、仕事を離れたあとのことでも、俺にできることならなんでも」
どうやってこの言葉を言い出すか、彼なりに悩んでいたようだった。結局はストレートに言ってくるあたり、賢也らしい。
「そうだな。これからも、変わらずに良き友人でいてくれると嬉しい」
「ああ。勿論だ」
「それと、もうひとつあるんだが……」
*
翌日、マネージャーに呼ばれて、事務所に来ていた。
軽く世間話をしたあと、マネージャーは本題を切り出した。
「この話をどうやって伝えたらいいのか、わからないし、今でも迷っているんだけど。そうね。まずは、簡潔に事実のみを伝えるわね」
前置きが前置きだったので、急に緊張感が増してきた。心臓がばくばくと音を高めていて、指先もわずかに震えている。
「あのね、この間受けたオーディション受かったの」
「え……」
告げられた言葉を、僕はすんなりと理解することができなかった。
「えっと、それって、あの、主人公のやつ、ですか……?」
「そう。それよ」
やめると決める少し前に、受けたオーディションだった。割と大きな作品で、人気声優を含めた多くの人が受けたものだった。
まさか自分が受かるとは微塵も思っていなかったので、そのオーディションはすっかり終わった気になっていた。
「……ねえ、どうする?」
「は……」
マネージャーの問いたいことなど、わかっていた。
続けるか、このままやめるか。それだけの、シンプルな問いだった。
「これは大きなチャンスだし、これからに繋がる仕事だと思う。少なくとも数ヶ月は仕事があるだろし、その後の仕事も増える可能性は高い。確実ではないけれど、ほぼ確実と言える」
「……はい」
なんて答えて良いのか、わからなかった。なんて言葉を言えばいいのか、わからなかった。
「事務所としてはこの仕事を受けてほしい。だから、やめてほしくない」
「……」
「私個人としても、やめてほしくない。あなたという声優を終わらせたくはない」
真剣な瞳が僕を貫く。その瞳に飲まれそうで、押し切られそうで、思わず目をそらした。
そんな僕を見て、マネージャーは気を緩めるような気を吐いた。
「でもね、知ってる。あなたにはもう、そんな気はないんでしょう」
「……はい」
お見通しだった。
どんなチャンスが巡ってきても、僕には続ける気力なんてなかった。
僕はもう、全てを諦め、捨ててしまったのだから。
「そう、残念。本当に残念」
冗談めかした明るい声音だったが、その声はかすかに震えていた。
「未練がましいことを言うのでしたら。もう少し早ければって、そう思いますよ」
ああ、無理だ。そう思う前にその話を聞けていれば。僕の人生は変わっていたのかもしれない。
*
マネージャーとの話を終え、事務所を出ると、そこで後輩のユウと会った。
「先輩っ!」
ユウは僕にとてもなついていて、僕にとっても妹のような可愛い後輩だった。
「やめるって本当ですか?」
マネージャーあたりから聞いたのだろう。まだ、伝えてないことを、ユウは知っていた。
彼女には僕から伝えたかったような、伝えたくなかったような、複雑な心境だった。もしかしたら、マネージャーはそれを察して、伝えてくれたのかもしれない。
「ああ、本当だよ」
「なんでっ……」
僕より、彼女の方が悔しそうだったし、悲しそうだった。
「もう、無理だなって思ったんだ」
「なんでっ……」
僕の正直な気持ちを告げても、ユウは納得してはくれなかった。
わかってもらえるとは思ってなかったけれど、ここまで悲しそうになれると、胸が痛む。
「なんでっ。私、先輩とまだまだお仕事したいですよ。私、先輩の演技が好きなんですよ。そう思ってる人、他にもたくさん、いるはずですよ……」
「……ごめんな」
ユウの言葉は、本当に嬉しかった。僕が声優であったことの意味が、肯定された気がした。
だからこそ、謝ることしかできなかった。
「もう、決めたことなんだ」
「嫌です……。私は嫌です……!」
僕は諦めてしまったのに、彼女が諦めてくれなかった。
「私には、どうすることもできないことなんて、百も承知です。でも、嫌なんです。やめてほしくないんです。諦めて、ほしくないんです」
そう熱を込めて言う彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「ごめんな……」
「謝るくらいなら、諦めないで、くださいよ……」
ユウは自分が我儘を言っていることを理解しているようだった。理解していて、言葉をぶつけているようだった。
そんな彼女の姿に、僕は救われた気がした。
*
「忙しいのに悪いな」
「気にしなくていいさ。元はと言えば俺が言い出したことなんだし」
仕事の合間を縫って、賢也が僕の家にあるものを取りにやってきた。
「本当にいいのか?」
「ああ。手元にあると、やっぱり悔しくなるからな」
賢也が取りにきたもの。彼に預けようとしてるもの。
それは、僕が出演したアニメやらゲームやらの、円盤やグッズだった。
「他の人が出てるのは平気だけど、やっぱりこれだけはな」
「そうだな」
未練なんかはほとんどないけれど、こうしたグッズを見てしまうと、色々と思い出してしまう。嬉しかったことも、楽しかったことも、悔しかったことも、苦しかったことも。そして、少しだけ、後悔をしてしまう。
「大量に預けて悪い。置く場所がなかったら、捨ててもいいから。ただし、僕には秘密してくれ」
「そんなことしないよ。だってこれは――」
ダンボールに詰まったグッズたちを、賢也は子供を見守るようなあたたかい目を向ける。
「お前の、半身だろ?」
「そう言ってくれるの、嬉しいよ」
これらは、僕の夢や憧れの詰まったものだった。今は亡くしてしまったものたち。それらが形となって、残っているものだ。
だから、捨てられなかった。僕の半身で、軌跡で、支えてくれたものたちだったから。もういらないからと言って、ぞんざいに扱うことなんて、できるわけがなかった。
「もうひとつの僕なんだよ、これ。僕の声がする子たちってだけなんだけど、それでも、僕なんだよ。僕を作ってきた子たちなんだよ。やめるって決めてから、その思いが大きくなった。だから、信頼してる人に、預けたかった。僕の憧れや夢と一緒に。ここに置いていかなきゃいけない気持ちと一緒に」
思っていることを口に出してみると、ひどく陳腐で、格好をつけたような言葉だった。けれど、紛れもなく僕が思っていることだった。
「重くて悪い」
「そんなことないさ」
引かれても、笑われてもおかしくないところで、賢也は笑わなかった。真剣に聞いてくれた。それだけで、十分だった。
「きっと、この子たちは君に愛されて、幸せだろうさ」
「そんなこと、言わないでくれ。僕は捨てるんだ。捨ててしまったんだ……」
「それでも、だよ。愛していることには代わりないだろう?」
「……」
「それで、いいじゃないか」
驚くほど優しい声音で、賢也は言った。
目に涙が一気にたまるけれど、泣くわけにはいかなかった。
自分で決めたことだし、自分は捨てる側、置いていく側なんだから。
「……そうだな」
ぐっと堪えて、それだけを言う。これが、精一杯だった。
それを見た賢也は、よっとダンボールを持ち上げた。
「じゃあ、預かるな」
「ありがとう」
「これくらい、なんてことない」
そして、彼は背を向けた。ダンボールの中身がぶつかる音が聞こえる。
「またな」
「ああ、また」
そうして、彼は出ていった。
ドアの閉まる音がする。一気に静かになる。
だから、寂しくなってしまって、つい口から漏れてしまった。
「さようなら。また、どこかで。僕の半身」
また、どこかで会えたなら。今度こそ、きっと――。
〈了〉
おやすみ、僕の半身 聖願心理 @sinri4949
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