第10話 青でも赤でもない

 目の前に伸びる青。ペンキの匂いはもうしない。足を止めるひとはいない。歩きながら視線を少し向ける程度。それでも、一瞬でも誰かの視界を染めたことには変わりない。

「見せたいものってこれ?」

「うん」

 ガードレールを背に並んで立つ影が伸びていく。青い空間にふたりだけ取り残されているみたいだ。深く深く沈んでいくようで、優しく包まれているようにも見える。

「不思議な絵だね」

 美晴は「きれい」とは言わなかった。でも、それでいいのだと思う。それでいいと今は思える。

「これね、兄の大事な……大切なひとが描いた絵なの」

 胸の奥が痛むのは悲しいからじゃない。声が震えるのは泣きたいからじゃない。

「うん」

 小さな美晴の声が耳に触れ、繋いだままだった手からきゅっと力が伝わってくる。

「私ね、兄とそのひとが一緒にいるのを初めて見たときに……『気持ち悪い』って言ったの」

 込み上げてくるのは苦しさじゃない。伝えたかったのは赦されたいからじゃない。

「それなのに、兄は……お兄ちゃんは『ごめん』って言ったの」

「うん」

 小さな美晴の相槌が耳から落ちてくる。優しい熱が胸に積もっていく。

「謝るのは私のほうなのに。謝らなきゃいけないのは私だったのに」

「うん」

 輪郭がぼやけていく。視界が青く滲んでいく。痛くて苦しい。恥ずかしくて消えてしまいたくなる。閉じ込めていた想いを外に出すのはこわくてたまらない。自分がどれだけ最低なのかを思い知らされる。

「お兄ちゃんだけじゃない、美晴も……美晴も傷つけたよね」

 途切れた相槌にゆっくり顔を向ける。頬を伝う熱を拭うこともせず、揺れ続ける水面のまま美晴を見上げる。

「ごめん。美晴の気持ち最後まで聞かなくて、ごめん。気づいてないフリして本当にごめん。逃げて、ごめん……ね」

 ――「正しい」から、じゃない。

 目を逸らしたのは、気づかないフリをしたのは、誰かを傷つけている自分に気づきたくなかったから。最低な自分を見たくなかったから。嘘でも笑って周りに合わせていれば、見ないようにすれば、本当にいつか消えてくれるんじゃないかって期待したのだ。

 もしも兄が何事もなかったように帰ってきたとして。

 もしも美晴が親友のままの距離でいてくれるとして。

 あったことを、なかったことにはできない。たとえ見えなくても、消されてしまってもそこに存在していた事実はなくならない。痛くてたまらない傷も、見ないフリをしたい過去も意味があるとするなら、その意味を与えるのはほかの「誰か」じゃない。私自身だ。

 目の前の絵をきれいだと思える自分でいたいから。

「千映」

 美晴が呼んでくれる名前を嬉しいと思える自分でいたいから。

「ありがとう」

 聞こえた言葉が体の奥を震わす。込み上げていたものが一気に溢れ出す。眼鏡なんてもう意味ないくらいに視界が涙で覆われる。

「わたし、千映のことが好きだよ」

 美晴が今どんな表情をしているのかを見たいのに、ちゃんと覚えておきたいのに、次から次へと溢れ出す熱が視界を滲ませる。

「千映はわたしの気持ちに気づいていたのに、そばにいてくれた。それだけで十分」

「でも」

 震える声のまま返せば、ぼやけた視界の中で美晴が笑った――気がした。

 繋がっていた手が一瞬離れ、優しく抱きしめられる。ふわりと甘い美晴の香り。すぐそばを走る車の音も、流れ続ける風の音ももう聞こえない。ゆっくりと色を変えていく空も青い絵も見えない。美晴の小さな心臓の音とセーラー服越しの体温だけが私を包み込む。

「美晴。美晴が友達でよかった」

「うん。わたしも、千映が友達で――好きになったひとでよかったよ」

 そっと体を離せば、柔らかな夕陽が差し込む。

「あ、見て」

 美晴の声に視線を向ける。

 青い世界に取り残されていた影は、赤く色を変える世界で繋がっていた。

「……きれいだね」

「うん、キレイ」

 私の言葉に美晴の声が重なる。同じ言葉を重ねてもその視界まで同じだとは限らない。瞳に映る世界はそのひとだけのもので、そのひとにしか見えない。他人の視界を見ることができないからこそ、自分とは違う世界を否定することもできない。

 同じように返せないこともある。同じように見ることができないこともある。手を伸ばして傷つくことももちろんある。それでも自分の手で触れた世界は、目で見た世界はきっとどんなものでもきれいだ。


 ゆっくりと下がっていく気温と混ざり合う体温。私たちは手を繋いだまま、ただじっと目の前の世界を眺めていた。通り過ぎていくひとではなく、その奥の絵だけを。視界の端に増えた影に気づいて視線を向ける。自転車を押しながら歩く柿崎。両手に買い物袋をぶら下げた柿崎さん。そして……見つけた姿に息を飲み込む。

「千映……」

 兄の声は記憶のままちっとも変わっていなかった。

 ふわりと美晴の手が離れ、「千映」と腕を押される。涙はもう乾いていた。広がる景色はレンズを通しても、通さなくてもきっと鮮やかで。涙で洗われた色が私の視界を染めてくれる。足が前に動く。自分の意思で踏み出せる。

「お兄ちゃん」

 見上げた顔は懐かしさよりも深い安心を与えてくれた。知らない表情はきっといっぱいある。恋人の前でしか見せない顔もきっとある。だけど、私にしか見つけられない顔もきっとある。

「ごめんね」「たまには帰ってきて」会ったら言おうと思っていた言葉はたくさんある。あった、のに。

「この絵、きれいだね」

 口から出てきたのはまったく別の言葉だった。

 一瞬膨らんだように丸くなった目がゆっくり細められ、

「うん」

 兄が私の一番好きな表情をした。

 ガサリ、と乾いた音が響き、柿崎さんが袋を持ち上げる。

「これからうちでごはんするけど、二人も来る?」

 兄を、柿崎を、美晴を視界に入れてからゆっくり首を振る。

「今日は帰ります。うちでもう用意してると思うので」

 今度こそ、話そう。母の言葉の意味を、父の表情の理由を確かめよう。自分勝手に想像して、決めつけて、傷つくのではなく。自分の言葉で正面から向き合いたい。

「お兄ちゃん」

 もう一度兄と視線を繋ぐ。少しだけ滲む寂しさを私はもう見逃さない。

「今日は行けないけど、今度遊びに行ってもいい?」

 静かに息を飲み込んだ兄より早く、柿崎さんが「いつでもおいで」と言い、兄が小さく笑った。

「うん。いつでもおいで。千映」

 兄が私の名前を呼ぶ。聴き慣れていたはずの音が体の中で膨らみ、じんと胸が温かくなる。広がった熱が言葉を押し出してくれた。

「いつか、うちにも遊びに来てくださいね」

 これは私からふたりへの「ごめんなさい」を込めた約束。兄が失った居場所に私がなる。なれるように努力する。

「うん。いつかお邪魔するわ」

 躊躇うことなく口にする柿崎さんの言葉に、止めていた息をそっと吐き出した兄は柔らかく笑った。


 重なった影が溶けていく。青でも赤でもない、名前のつけられない色。

 視界を染める景色はとてもきれいだった。

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視界を染める景色 hamapito @hamapito

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