第9話 見せたいもの

 門へと向かうざわめきと部室棟へ急ぐ足音。放課後になったばかりの昇降口は騒がしい。空っぽの傘立ての隣で流れていく同じ制服を見送る。「職員室寄らなきゃなんだ。下駄箱で待っててくれる?」美晴の言葉を思い出しながら外へと視線を向ける。

 グラウンドではサッカー部が集まり始めていた。柿崎もあの中にいるのかな。昨日の出来事が夢のように感じるくらい、いつも通りの一日だった。もう少しだけ長く話せていたなら。もう少しだけそばにいられたなら。何か変わっただろうか。そんなことを考えていたときだった。

「これ、君と渡辺さんだよね?」

 突然、近くで聞こえた声にビクッと肩が跳ねる。意識を戻せば、すぐそばに人が立っていた。西園寺先輩だ。美晴はここにいない。どうして自分が話しかけられたのかわからないまま、差し出されたスマートフォンへと視線を動かす。

 長方形の画面には校舎から撮ったのだろう、見下ろす角度でふたつの制服が重なっていた。ひと気のない中庭。中央の桜の樹。これは――私と美晴だ。美晴の長い髪が顔を隠しているけれど、半分だけ解けた三つ編みを見つけて確信する。昨日の昼休みに撮られたものだ。

「……そうだと思います」

 確信はあったけれど、どうしてそんなことを聞かれているのか、西園寺先輩の意図がまるで見えず、曖昧に答える。

「渡辺さんって女の子が好きなの?」

 聞こえた言葉に思わず眉を寄せる。

 どういう意味だろう。どうしてそんな質問が飛んでくるのだろう。もう一度西園寺先輩の手の中にある画像を見つめる。女の子同士が抱き合っていたところでおかしさなんてこれっぽっちもない。そもそも美晴は私がバランスを崩したところを助けてくれただけだ。兄たちみたいにキスをしていたわけでもない。――ない、けど。私たちの顔は美晴の髪で隠されている。事実は見えない。見えないからこそ、悪意を持って見れば見えなくもない。

 咄嗟に口を開いたが、尋ねられているのは「美晴が女の子を好きかどうか」だ。私たちがキスをしていたかではない。特別な関係であるかどうかでもない。美晴の気持ちは美晴だけのものだ。私が答えられるものでも否定していいものでもない。

「……」

「何も答えないってことは、やっぱりそういうこと?」

 ――そういうことって、なんだろう。

「そうだ」と言えばいいのだろうか。美晴の心は私のものでも、西園寺先輩のものでもないのに。こんなよく知りもしないひとなんかに一瞬だって、欠片だって美晴をあげたくなんてないのに。だけど「違う」と言ったら、それは美晴を否定することになるのではないだろうか。ほかでもない私自身が。

「千映?」

 聞こえた声に振り返れば、美晴が立っていた。下駄箱から取り出したローファーに足を入れながら「どうしたの?」と視線を動かしている。私の隣にいる西園寺先輩に気づいたのだろう。きゅっと小さく眉が寄った。

「ちょうどいいや」

 ふっと漏れた息にはひどく心地悪い笑いが含まれていた。

「渡辺さんに聞きたいことがあるんだ」

 美晴が体を強張らせたのが固くなった空気でわかる。

「なんですか」

「渡辺さんって」

「それが……それが、なんだって言うんですか?」

 西園寺先輩の言葉に被せるように声は飛び出していた。

「千映?」

 驚き振り返る美晴ではなく、スマートフォンを手にしている西園寺先輩を見上げる。言ってしまったほうが美晴を傷つけることになるのかもしれない。だけど、目を逸らし続けるほうがきっと傷つける。触れてしまったほうがいいのだ。本当に大切なものこそ。触れて掴んで苦しくなっても、きっと距離は近くなる。同じ世界に立つことができる。

「何って、気持ち悪くないわけ?」

 ――気持ち悪い。

 兄たちを傷つけた言葉。私が放った言葉。なんてひどい言葉だろう。返ってきた言葉を飲み込む。体の奥へと落ちていく間にもチクチクと棘が刺さる。それでも目を背けることはもうしない。したくない。過去を消すことはできないのだから。もう逸らさない。目の前の西園寺先輩は二年前の私の姿なのだろう。自分を受け止めない限り、きっと前には進めない。

「美晴の気持ちは美晴だけのものです。先輩や私が言うことじゃありません」

「へえ。もしかして君もそうなの?」

 違う。違う、けど。そう伝えたら美晴をひとりにしてしまう気がして、声が出なくなった。

 ――誰かが誰かを好きになるなんて普通のことなんだからさ。

 不意に思い出されたのは柿崎の言葉。そもそも「女の子が好き」ということではなくて。美晴にとってはただ「好きな人がいる」というだけで。兄たちもきっと同じで。誰かが誰かを好きになる、それだけのことでしかない。

「……」

 どう言えば伝わるのだろう。どうしたらわかってもらえるのだろう。

 西園寺先輩は美晴を傷つけたくてこんなことを言っているのだろうか。

 逸らした視線の先、スマートフォンを掴んでいない手は固く握り締められていた。何かに耐えるように。

 遠巻きにこちらを見ている気配を、取り囲むざわめきを肌で感じる。すごく心地悪くてたまらない。それは西園寺先輩も同じなのではないだろうか。

 もう一度見上げる。向けられる言葉だけではない、その奥にある想いを見つけたい。自分から手を伸ばせば、自分の目で触れてみれば、今まで気づけなかったものがきっとあるはずだ。


 ――眼鏡は誰かの基準なんかじゃない。私が見たいと思うものを見るために手を貸してくれる。見やすくしてくれる。私自身が自分の目で見ようとしてこそ意味のあるものだ。

 今度こそ自分の目で、視界で世界に触れたい。


 固く閉じられた唇。ひきつった頬。震えるように揺らぐ水面。目の前にあるのは、不安を隠そうとする表情だった。美晴に想いを返してもらえなかったことがショックで、その理由を自分ではどうにもできないことにしてしまいたいだけなのではないだろうか。本当に意地悪をしているなら、きっとこんな表情しない。

 自分を守るために目を逸らしたいと、傷つかない理由を探すひとの顔。心地悪く感じていた笑いはもう壊れかけている。吐き出した言葉の数だけ西園寺先輩も痛みを負っている気がする。行き場のない想いをやりきれなさをどうにかしたくて、こんなことを言っているのではないのだろうか。西園寺先輩自身が周りの期待というフレームの中にいるから。だからその期待の外に出ることが許せなくて、それで……。

 ――心配性なんだよ、西園寺先輩は。

 柿崎のことを心配していた西園寺先輩が本当に悪い人だとはどうしても思えない。

「あ、あの」

 ぎゅっと噛みしめた唇を離した瞬間だった。

「何してんすか」

 聞こえた声に振り返れば、エナメルバッグを肩にかけた柿崎が立っていた。響いた声はいつもと変わらない。どうかしたんですか、と不思議そうに尋ねている。けれど纏う空気は違った。

「もう部活始まりますよ」

 笑っているけれど静かな怒りを感じる。先輩相手に有無を言わさない威圧感がある。

「あ、ああ」

 柿崎の空気に触れ、西園寺先輩の瞳が戸惑いの色を見せた。このやり取りが終わったことに安堵したのはきっと西園寺先輩のほうだ。もう何も言ってこないだろう。私は柿崎に小さく頷いてから美晴の手を掴む。

「帰ろう」

「……うん」

 校舎を出てから視線だけを振り返らせる。柿崎と西園寺先輩が並んで部室棟へ向かうのが見え、そっと息を吐き出した。

 校門を抜けて坂道を下る。美晴は何も言わない。握り返すこともせず、手を引かれるまま歩いている。きっと聞きたいことや言いたいことがいっぱいあるはずなのに。美晴は唇を噛んだままでいる。私のせいだ。私が美晴に言わせないようにしてきたから。

 ――ありがとう。千映なら話聞いてくれると思ったんだ。

 美晴がくれた言葉。自分でも勝手だってわかっている。だけど、もう一度聞きたい。その言葉を受け取れる自分になりたい。

「……美晴」

 足を止め、振り返る。もう少しで坂を下りきる、そんな中途半端な場所でふたつの靴音が止まる。

「千映」

 小さく紡がれる自分の名前。美晴の大きな瞳が私の顔を映しだす。繋いだままの手から美晴の低い体温が流れてくる。何を言えばいいだろう。何から言えばいいのだろう。間違えたくない。傷つけたくない。美晴の想いには応えられないけど、でも、この手を離したいわけじゃない。ズルいだろうか。わがままだろうか。それでも、それが私の本当の気持ちだ。

「美晴。あのね」

 びゅわっと駆け上る風に声を奪われる。いたずらな春の風が街路樹の葉を揺らし、セーラー服の襟を、スカートの裾を持ち上げる。一瞬にして押し出された空気が揺れながら戻っていく。微かな潮の香りが肌に触れ、自然と言葉は滑り落ちた。

「見せたいものがあるの」

 長い髪を片手で押さえた美晴が「うん」と小さく笑った。

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