第8話 意味はあるよ
柿崎の手を借り、堤防に上る。
完全に夜に染まったと思っていた空にはまだ太陽の欠片が残っていた。チラチラと小さな星が見え、海面には青とも紫とも言えない色が広がる。
「あっち、見える?」
離れた手は海ではなく街の方へと向けられる。まっすぐ伸びた爪の先を追っていく。坂道に沿って並ぶ建物。真上の星よりもはっきりと存在を主張する光。明るすぎて強い光にきゅっと瞼に力が入る。柿崎が指差す方角に、浮かび上がる青い帯を見つけ、思わず声が出ていた。
「え、あれ? なんでライトアップされてるの?」
取り壊す予定の建物を囲うただの塀。桜でもイルミネーションでもない。
「ふは、それ俺もこの前同じこと言った」
揺れた空気に弾んだ声に視線が引き寄せられる。
「『夜も見てもらいたいからに決まってるだろ』だってさ」
「でも……あれだとキレイっていうよりこわい、かも」
青く浮かんだ塀の中、ひと気のない建物がたたずむ。この距離からでもちょっと不気味に感じてしまう。遊園地にあるお化け屋敷が思い出された。
「――眼鏡、とってみ」
冷たさを増していく風の中で柿崎が小さく笑った、気がした。
「そのほうがきっとこわくないから」
どういう意味だろうか。すべてがハッキリ鮮やかに見えるほうが、輪郭を捉えられるほうが安心なはずで、正しいはずで、こわくないはずなのに。
テンプルに指を伸ばすが、摘まんだところで止まってしまう。外したら、どうなるのだろう。見える景色はどう変わってしまうのだろう。夏祭りの夜、手を離してしまったときのことを思い出す。見えていた、触れていたものが遠くなっていく感覚。あのぐらりと足元の地面がなくなってしまうような心許なさが蘇る。
柿崎はそんな私を急かすことなく、ふっと吐き出した息に言葉をのせる。
「芹沢はさ、取り壊されるものに絵を描くこと、どう思った?」
「え」
「意味なんかないって、思った?」
壊されることも消されてしまうこともわかった上で、柿崎さんは筆を握っていた。迷いなんてなくて。躊躇いすら感じられなかった。体の中にある景色を描くことだけに夢中になっている、そういう表情だった。私に声をかけたのも、兄の名前を口にするのも、どこにも不自然さはなくて。そんな柿崎さんの描くものだから、だから、惹きつけられたのだろう。
こうして柿崎に会ったのも、一緒に坂道を自転車で下りたのも、視界に収まらない景色に感情が溢れたのも、全部、全部あの絵があったから、あれを柿崎さんが描いてくれたからだ。
「俺は、意味はあると思うんだよね」
「壊されても?」
「うん」
「なかったことにされても?」
「うん」
「……」
「それでも、意味はあるよ」
背中からの光はもう消えているだろう。太陽の欠片はきっともう見えない。それなのに胸は温かくなっていく。
「芹沢はあの絵があったこと、覚えていてくれるだろうから」
眼鏡を新調するたびに感じていたのは、きっとこれだったのだ。ぼやけていく輪郭も、薄くなっていく景色も、そこにあるのに、全部なかったことにされる。間違いだったことにされる。はっきりと見えているものだけが正しいことにされる。見えないものは自分とは違う世界なのだと切り離されてしまう。
自分だけは切り離されたくなくて。弾き出されたくなくて。手を伸ばすことを、眼鏡を外すことをしなかった。与えられるものだけに頼っていた。でも――。
目を逸らし続けた兄の気持ち。気づかないフリを続けている美晴の想い。私がいくら見ようとしなくても、触れようとしなくても、そこにあることに変わりはない。フレームの外であろうと、なくなるわけではない。
指先に力が入る。震えが伝わっても構わず掴む。外すのはこわいことだろうか。自分の目だけで見つめるのは、知らない場所へと手を伸ばすのは、本当にこわいことなのだろうか。
誰かと同じでいることはきっと私を守ってくれる。誰かの世界で生きることは分かりやすく私を安心させてくれる。だけど、それを正しいとはもう思えない。
私は――その「誰か」じゃないから。
眼鏡を外す。震えたフレームが視界から消え、顔にあたる空気の冷たさが増す。目の前にあるのは隔てるモノのない世界。レンズ越しではない世界は輪郭を失っていく。だけど、ここにある。こんなに遠くても見える。感じられる。もう瞼に力を入れる必要もない。強さを失った光は痛くない。ぼやけた世界。不安定な景色。けれど不思議と温かい。丸い光のひとつひとつが溶け合う。不気味さを感じさせた建物ですら、柔らかな青で囲まれて優しく見えた。
「……きれい」
この景色をきれいだと、思える自分でいたい。
作られた世界でも与えられた基準でもなく。
目の前に広がる景色の全部が私の世界だから。
レンズを通した景色も通さない景色もずっとそこにあった。最初からひとつだった。見ようとしなかっただけで。気づこうとしなかっただけで。切り離されてなんかいなかった。
風が吹く。潮の香りを含んだそれはどこか昼間の温度を残し、涙を攫っていく。
「同じ絵なのに不思議だよな」
隣に立つ柿崎の視線が私のものと重なる。
「絵自体は変わらないのに、見え方も感じ方もひとによって違うし、同じひとでも変わっていく。それが面白いんだってさ」
目の前のものは変わらない。そこに存在している。でも受け取り方はひとによって違う。違くてもいい。違うからこそいい。違うと知っていることが大事なのだから。
鮮やかでなくてもいい。ぼやけていてもいい。輪郭が曖昧だから、境界が滲んでいるからこそ、受け止められる。混ざり合う色を美しいと思える。兄の見えている世界。兄の愛したひとが描く世界。混ざり合う世界を私はもう自分の目で見つけられる。
「ごめんな」
風が向きを変えたのに合わせて言葉が落ちてくる。
「もう覚えてないかもしれないけど。あのとき……話も聞かずに勝手なこと言ったから」
あのとき――浮かんだのは夕陽が差し込む放課後の教室。深く考えることなく話しかけてしまった自分。返された言葉に傷ついたのは自分に対して落ち込んだからだ。柿崎のせいではない。謝らなくてはならないのはきっと私のほうだ。
「あの」
口を開いたけれど一瞬早く柿崎の言葉が向けられ、続きを言うことはできなかった。
「芹沢が興味本位とか揶揄うためとかそんなことで聞いてくるやつじゃないって考えればわかったのにさ」
視線の先にあるのは傷ついたことがあるひとの表情だった。
「俺は兄貴たちのことずっと見てたから、だから何も知らずに言いたいことだけ言ってくるやつらが許せなかった。べつに悪いことしてるわけじゃないのに、誰かに迷惑をかけているわけじゃないのに、なんでって。なんでわからないんだろうって」
「柿崎……」
「でも、そうやって『全部わかってほしい』っていうは俺のわがままだったんだよな」
ふっと吐き出された息が潮の香りに溶けていく。
「受け入れ方もひとそれぞれで、全員同じようにできるわけじゃない。だからこそ自分と違うことを否定しちゃいけないって」
「それって」
「あの絵ができたときに言われた。絵と一緒だよって」
響いた声はどこか寂しさに似た色をしていた。柿崎には柿崎の時間があって、受け止めてきたものがあって、兄たちのことで傷ついた瞬間もあったのだろう。ずっと見てきたのなら、私よりもずっと前から、ずっと深く悩んだ時期があったのかもしれない。
私はまだ柿崎のことをよく知らない。知らないから知りたい。触れてみたい。「いつか」でいいから、ちゃんと聞いてみたい。自分の言葉で、自分の目で確かめてみたい。
「あの、……っしゅん」
弾けたくしゃみに柿崎が小さく笑う。
「そろそろ帰ろうか」
聞こえた声はとても優しかった。
ただいま、と声をかければ、廊下の奥から「千映?」と母の声が返ってくる。パタパタとスリッパを響かせ、玄関までやって来た母が「遅かったじゃない」と眉を寄せた。ローファーを揃えるため背を向けながら答える。
「ちょっと友達と寄り道しちゃって」
「遅くなる時はちゃんと連絡しなさいよ。心配するでしょう」
「――ごめんなさい」
答えながら胸の奥がざわつく。いつもよりほんの数時間帰るのが遅くなった私のことは心配するのに。二年も家に帰ってきていない兄のことは心配していないのだろうか。本当はどう思っているのだろう。聞いてみたい。聞いてみたいけど、でも……。
――千映は……千映は大丈夫よね?
耳の奥に貼りついたままの声。不安げに見つめる顔。思い出すだけで胸のざわめきが大きくなる。心地悪くなる。触れなければ、きっとこのままでいられる。飲み込んでしまえば、ここまで保ってきた形は壊れない。だけど――。
兄はここにいた。兄は今も生きている。兄は好きな人と幸せに暮らしている。
その事実はなくならない。目を背けようが、フレームの外に置こうが、消えることはない。目を閉じることも、触れずにいることももちろんできる。できる、けど。
――誰かに合わせるんじゃなくて、芹沢自身がどう思うかが大事なんだから。
私は忘れたくない。なかったことにしたくない。兄のことも。自分の気持ちも。意味はあると教えてもらったから。
「あ、あのね。今日一緒だったのは」
思い切って顔を上げ、振り返る。
「ご飯もうすぐできるから早く着替えてきなさいね」
母はすでに歩き出していて、エプロンをつけた背中しか見えなかった。
「……」
言えなかった。言えなかった、けど。そっと息を吸い込む。玄関に置かれている芳香剤の香り。母が開けた扉から流れてきたカレーの匂い。静かで温かな空気が体の中で混ざり合う。
「意味は、ある」
言葉にできなかった想いはまだ、ここにあるのだから。少しずつ。少しずつ。私だけの目で見える世界を作っていこう。
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