第7話 度胸試し
言われるままについてきてしまった。「絵が見たい」とは言えなくて。ただ頷くことしかできなくて。自分でもどうしたいのかわからなかったけれど、このまま何事もなく分かれてしまうのは嫌だった。
カラカラと回り続ける車輪の音。柿崎が両手で自転車を押していく。その後ろを歩きながら、この先に何があるのだろうかと考える。生まれたときから住んでいる街なのに、通り過ぎる景色に懐かしさはない。緩やかな傾斜と階段。住宅街の中を柿崎は上へ上へと進んでいく。風が軽くなるにしたがってローファーで歩き続ける足は重くなっていった。
「あの角を曲がったところだから」
聞こえた声に顔を上げる。いつの間にか下を向いていたらしい。白い塀に絡みつく緑色の葉と白い花。ふわりと甘い香りが辺りには漂っている。色を変えていく空。下がり続ける気温。傾きだした夕陽が柿崎の顔を染める。
――放課後の教室を思い出した。
柿崎とこうやって会話するのはあの日以来だ。「どうして声をかけてくれたのだろう」と今さらながらに思い、何か言わなくては、と口を開いた――そのとき。
風が吹いた。角を抜けた瞬間に頬を撫でた冷たさ。思わず首がすくむ。一瞬縮めてしまった視界をゆっくりと広げていく。そこでようやく「来てはいけない場所」に来たのだと気づいた。
「ここって」
思わずこぼれた声。広がる景色に恐怖が混ざり込む。
「ちょうどいい時間帯だな」
押していた自転車に跨った柿崎が振り返る。
「後ろ、乗って」
視線で指し示されたのは自転車の荷台。すぐには頷けない。前輪の先に待つ景色はもう見えてしまっている。それだけではもちろんない。二人乗りはいけないことだし、何よりも柿崎と近くなるのが恥ずかしくてどうしていいかわからない。ドクドクと心臓が音を立てる。立ち止まったままの影は伸び続ける。
「絵、見せてやるから」
大きな声ではなかった。風がもう少し強ければ掻き消されそうなくらい。それでも不思議と体の中に落ちてくる。まっすぐ胸の奥を揺らす。
「……」
繋がった視線。柿崎は急かすでもなくただ待っていてくれる。
自然と足を向けていたのはなぜだったのか。断ることもせずついてきてしまったのはなぜなのか。自分でもわからなかった答えを今なら見つけられる気がして、
「うん」
少しだけ強く頷いた。
視界の奥、まっすぐ伸びる道の先で夕陽は海の向こうへと沈んでしまった。伸ばされた光の欠片だけが空に散らばっている。間もなく夜の色に完全に染まってしまうだろう。目の前の坂道を駆け上ってきた風は冷たく、シャツを掴んでいる手に力が入った。手、だけではない。これから起こることへの不安で全身に力が入っているのがわかる。自転車の荷台は固くておしりが痛い。
「ほ、ほんとに行くの?」
「ここまできて、今さら行かないとかないでしょ」
「で、でも危ないよ」
体を預けたことで生まれた恐怖がいつも以上に言葉を引っ張り出す。一度決めたはずの心を揺り動かす。
「大丈夫だって。俺運転上手いし」
「そもそも二人乗りっていけないことだし」
「それこそ今さらでしょ」
はは、っと柿崎の笑い声が振動となって響いた。
私たちがいるのはこのあたりでは有名な坂道の頂点だ。車の通りは少なく、道の先には防砂林で塞がれた海岸がある。何で有名かと言えば「度胸試し」で、だった。決して緩やかとは言えない坂道の上から自転車で下りる。ただ下りるだけではなく、ブレーキをかけずに。加速していくスピードと恐怖にどこまで耐えられるかで試すところらしい。もちろん私は一度もそんなことをしたことはない。母にもきつく「あそこには行っちゃダメ」と言われていた。
絵の全部を見せてくれる、という話だったはずなのに。絵が描かれている塀は見えない。道の両側に広がる街の中に埋もれてしまった。柿崎の意図はちっともわからない。
「準備オッケー?」
柔らかな声が間近で響く。今ならまだ間に合う。自転車を下りてしまえばいい。そうすれば坂道を下らなくていい。こんなに近くで緊張し続けなくていい。頭では思うのに、体は動かない。
「……」
嬉しかった。恐怖や恥ずかしさ以上に。会えたことに、話しかけてもらえたことに。自然と体が動いてしまうくらいに嬉しかったのだ。兄にひどい言葉を投げたくせに。美晴にひどい態度をとったくせに。誰かの想いを傷つけておきながら、私は自分の想いを否定できない。これから坂道を下りる、ということ以外にも心臓は揺れ続けていた。
「ど、度胸試しじゃないよね」
「まさか。そんな危ないことしないよ。俺、病院帰りだし」
「え?」
「いや、大したことなかったんだけど、西園寺先輩に『うちの病院で診てもらえ』って言われてさ」
「だ、大丈夫なの」
「大丈夫じゃなきゃこんなとこ来ないでしょ。心配性なんだよ、西園寺先輩は」
ふっと片方のハンドルから離された手が伸びてくる。ポン、と頭に置かれた温かさに心臓がピクッと跳ねる。
「大丈夫だって。あ、どんなに怖くても目は開けたままな」
「え?」
「あと、危ないから手はこっち」
「ふえっ」
頭から下ろされた手が私の手首を掴み、前へと引く。腰に回すように促され一気に距離が近くなった。
「じゃ、しゅっぱーつ」
「え、え」
戸惑う間もなく前輪が下がっていく。ゆっくり引っ張られるように自転車が進みだす。体勢を戻す隙もなく頬に触れたシャツの香りが濃くなると同時にぎゅっと腕に力が入った。
ブレーキをかけると言っていたはずなのに。自転車はどんどん加速していく。膝を閉じていてもスカートの裾は暴れるし、風を切る音で耳は塞がれる。触れている部分だけが熱を持っていて、恐怖よりも戸惑いが体を埋めてしまう。
「芹沢、前見える?」
叫ぶように呼ばれた名前に視線を上へと向ける。白いシャツの襟の向こう、短い黒髪は風に遊ばれていた。
「前、見てみ」
そっと顔だけをずらし、柿崎の体を掴んだまま前へと視界を傾ける。
強い空気の流れに閉じかけた瞼を必死に持ち上げる。ハンドルを握る柿崎の隙間から覗いた景色。高さがあるため防砂林の向こうの海が見える。その先の空も見える。刻々と色を変えていく空に海が染められていく。光の粒が散らばり、白い波さえ青く彩られる。
「――」
きれい、とこぼれた言葉は風に攫われ音にはならなかった。きっと聞こえてはいないだろう。それなのに柿崎は前を向いたまま言った。
「ついてきた甲斐、あっただろ」
いつの間にかスピードは一定に変わり、キュッキュッとブレーキが鳴いている。
「あの絵、これなんだって」
「え」
「空と海と沈んだ夕陽と……ついでに言えばここでの『度胸試し』で見た景色らしいよ」
「そう、なんだ」
カラカラと回る車輪の音。びゅわびゅわと頬を撫でる風の感触。優しく流れる景色にじわりと染み込んでくる自分とは違う体温。視界の先に広がる景色の鮮やかさとは違う理由で胸の奥は痛み続ける。
こんな景色を見られるひとだった。兄が愛するひとはこんなにも美しい瞬間を見つけ、表現できるひとだった。
――本当は最初からずっと、わかっていた。
ふわりと風が止む。キュッと響いたブレーキ音が終点を知らせる。海岸に沿って伸びるコンクリートの堤防の前で景色は静止した。
「どうだった?」
振り返られてから思いきり抱きついていたことに気づき、慌てて体を離す。跳ねるように足を下ろせば固い地面の感触が伝わってくる。靴底からはジャリ、と砂とアスファルトが擦れあう音が鳴る。
「……こわかった」
途切れず強弱を繰り返す波の音に言葉が落ちていく。
吸い込んだ息には潮の香りが混ざり込んでいた。
「こわかった、だけで」
兄が知らない顔を見せたから。
「本当は」
美晴が距離を変えようとしたから。
「傷つけるつもりなんて、なくて」
言葉を間違えたことすら素直に謝れないままだ。
「芹沢?」
私の世界は与えられたフレームの中にしかなかった。正しさとか普通とか見えない基準で縛られた世界。収められた景色はひどく鮮やかなのに、心には響かなかった。
こんなこと柿崎に言っても仕方がない。言うべき相手は兄であり、美晴であり、両親だ。けれど一度溢れ出した感情は止まってくれない。柿崎は自転車に跨ったまま黙っていた。ただ静かに言葉が落ちるのを見つめているみたいだった。
「でも何も言えなかった。何が正しくて、何が普通なのか私にはわからないから」
ポタ、とレンズに雫が落ちる。いつの間にかついていた外灯の明かりの中、並んだローファーの先がぼやける。
「そんなの芹沢が決めればいいんだよ」
カタン、とスタンドが立てられ、地面に映る影が自転車から離れていく。
「誰かに合わせるんじゃなくて、芹沢自身がどう思うかが大事なんだから」
顔を上げれば、溜まっていた涙は流れ、外灯を背にする柿崎の姿だけが映る。
「――って、あのとき言えていればよかったんだよな」
「え」
「……あの絵、ここから見てみる?」
頼りない光の中でもなぜだか柿崎が笑ったことだけははっきりとわかった。
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