第6話 薄く淡く、濃く鮮明に
夜の景色を隠す遮光カーテン。毎週同じ健康番組。ふわふわと漂う湯気と食欲を刺激する匂い。ワイシャツではなくスウェットを着ている父の緩んだ空気。キッチンと食卓を行き来する母。「いただきます」という声は朝と変わりなく重なる。
――兄たちもこうやって一緒にご飯を食べているのだろうか。
そんなことを思ってしまったのは、柿崎さんに会ってしまったから。兄の名前を聞いたから。
目の前に並んだお皿へと視線を向けたまま箸が止まる。ふたりが暮らす部屋はどんなだろう。兄はキレイ好きだけど、柿崎さんはいかにも芸術家って感じのたくさんの物に囲まれていそうな気がする。私が訪ねていったら、兄はどんな顔をするだろうか。なんと言ってくれるだろうか。
「千映? どうかした?」
向かいに座った母の声に、パッと顔を上げる。
兄が柿崎さんと暮らしていること、ふたりは知っているのだろうか。部屋が変わったなら何かしら連絡をもらってはいるだろうけれど。
――千映ちゃんは千映ちゃんのまま、言いたいことがあれば言っていいし、聞きたいことがあるなら聞いていい。
柿崎さんの言葉が蘇る。唇がそっと離れていく。だけど……そこまでだった。まだ言葉にすることはできなかった。
「ううん。なんでもない。テレビ観ちゃってた」
きゅうっと痛み出した胸に気づかないフリをする。これ以上壊れてしまうのがこわい。兄がいなくなった食卓。三人分の食器。バランスが悪くて、歪で、それでも「家族」の形は保たれている。これ以上、壊れてほしくない。
「ハンバーグ美味しいね」
何度となく振り返っていた隣ではなく、正面に座る両親に向かって、私は言葉を向けた。
美晴が西園寺先輩を振ってから一週間。こそこそと廊下の端で何かを言われることはあったけれど、ざわめきは遠くなっていた。傷心の西園寺先輩を慰めようと女子たちは忙しそうだけど、美晴の「好きな人」が誰なのかという話題で盛り上がっていた男子たちはちっともそれらしい人物がわからず早々に詮索を諦めたようだ。中間テストが近いのもあって、中庭はもとの静けさを取り戻していた。
「千映はずっとこの髪型だよね」
きゅっとお弁当の包みを閉じた美晴の手が、三つ編みの先を持ち上げた。されるがまま私は小さく笑って返す。
「なんか、もう慣れちゃったんだよね」
胸にかかる長さ。一度も染められていない黒い髪。ふたつにわけて三つ編みにする。中学までとは違い、高校の校則はそれほど厳しくない。美晴みたいに髪を明るくしても、ふわふわと下ろしていても何か言われることはないだろう。それでも私は変えようとは思わなかった。
「たまには下ろしてみたら? 千映の髪きれいだからきっと似合うよ」
細く長い指がゴムにかけられ、あっさりと抜き取られる。すぐに解けてしまうほどではないけれど、支えを失った髪はゆっくりと緩みだす。
「ね、もう両方はずしちゃおうよ」
美晴の白い手がもう一方の三つ編みに伸びる。
「ダメ」
狙われているおさげを掴んで「ゴム返して」と手を差し出す。その間にも緩まった髪は自然と解けていく。きゅっと固く縛っていた感覚がなくなっていく。まるで眼鏡を取られたみたいな心許なさに心臓が揺れる。――壊さないで。
「えー、いいじゃん。ちょっとだけ。ね?」
美晴は笑うだけでちっとも返してくれない。それどころか全部解こうとしてくる。
「ちょっと、ダメだって」
美晴から逃げようと体を引いた瞬間、肘が机から滑り落ちた。「わっ」と声を出すよりも早く美晴が「千映」と私の名前を呼んだ。咄嗟に伸ばされた腕に体ごと抱きしめられる。
「あ、ありがと」
すぐに離してくれると思ったのに、美晴は先ほどよりも強く力を入れてきた。セーラー服の奥から振動が伝わってくる。ドクドク、と美晴の鼓動が速くなっていく。――気づきたくない。
「美晴……?」
視線をそっと動かせば、美晴はきゅっと小さく唇を噛んでいた。溢れそうになるものを必死に閉じ込めている。丸く大きな瞳がまっすぐ私を映したまま水面を震わす。美晴はもう笑っていない。ほんの少しでも揺らしたら泣き出しそうだった。美晴の柔らかな髪が頬に触れる。くすぐったい、と笑おうとしたけどうまく笑えなかった。向けられている視線に体が動かない。
「千映、わたしね」
ここから目を逸らしてはきっといけない。いけないけど、このまま美晴の言葉を聞くのはこわかった。今までの距離が消えてしまう。保っていたはずのバランスが壊れてしまう。聞きたくない。今はまだこわい。
過去に放った自分の言葉が耳の奥で響く。「気持ち悪い」なんて思っていない。思っていないのに。正しい言葉がわからない。変わらないで。知らない表情をしないで。この眼鏡に映るままの美晴でいて。そんな自分勝手で傲慢な考えばかりが浮かんでしまう。
――枠にはめられている気がして苦しくなるの。
不意に思い出されたのは美晴が伝えてくれた言葉だった。信頼と友情でできた言葉。今の私にそれを受け取る資格はない。美晴がはみ出さないように、変わらないようにと誰よりも願っているのは私自身だ。
風が吹く。葉っぱの擦れあう音が落ちてくる。わずかに逸らした視線の先には良く晴れた空があった。どこまでも青い空が。あの空みたいに変わらなければいいのに。何もこわいことなんてなければいいのに。
「……予鈴、鳴っちゃうよ」
出てきた言葉がどれだけ美晴を傷つけたのかはわからない。美晴が私に向ける想いを受け止められない。フレームの外側にしか置いてあげられない。
――千映は大丈夫よね?
大事な友達を傷つけて「大丈夫」だと思えるのが本当に正しいことなのだろうか。
いつもどおり美晴と駅で分かれたあと。どうやって歩いたのかを覚えていなかったから、たどり着くまでに随分遠回りをしてしまった。まだ辺りには薄くペンキの匂いがしていたけれど、柿崎さんの姿はない。どうしてかはわからないけれど、自然と足が向いていた。
「完成、なのかな」
フレームに収まらないほど大きな絵が視界いっぱいに広がる。薄く淡く、濃く鮮明に、どこを切り取るかで見え方が変わる。全体で見たらどうなるのだろう。自然と足は下がり、広がっていく景色に目線が釘付けになる。もう少し。もう少し。視線を固定したまま体を後ろへと移動させていく。絵を見たい、ということで頭はいっぱいだった。幸い、歩道は広めに設計されていて、ガードレールまで下がることは可能だ。ひとにぶつからないように気をつけながらゆっくり足を動かす。下がっても、下がってもなかなかフレームには収まらない。トン、とガードレールにぶつかり、体が止まる。目の前には溢れたままの青色。フレームからも視界からもはみ出している。
「芹沢?」
呼ばれた声に振り向けば、自転車に跨ったまま止まっている柿崎がいた。
「……柿崎」
「何? なんか用事?」
駅前でもない、家の方向でもない、取り壊し予定のビルの前。何か用事でもない限り来ることなどほぼないだろう。
「えっと」
「――絵、見に来たの?」
そうだよ。気になったから。素敵な絵だよね。返すべき言葉は浮かぶけれど、どれも口には出せない。柿崎にどう思われるのかわからなくてこわかった。柿崎はどこまで知っているのだろう。兄たちにはよく会っているみたいだし、話もしているみたいだった。私がふたりに放ってしまった言葉も知っているかもしれない。偶然会えた嬉しさよりも不安や恐怖のほうが膨らみ、自然と顔が下を向く。揃えてしまったローファーから伸びていく影が自転車の車輪に重なる。
「ここからだと全部見えないよな」
柿崎の声が街路樹のざわめきの中に落とされる。さわさわと葉を揺らす風が涼しさを肌に残していく。
「見たい?」
「え」
思わず顔を上げれば、「見せてやるよ」夕陽に変わり始めた光を浴びながら柿崎が笑った。
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