第5話 兄の恋人
***
いつもとは違う夜の空気。昼間の暑さを残した風。流れてくる美味しそうな匂いにカラコロと下駄が鳴る。屋台の中からかけられる大きな声も、途切れることのない祭囃子も胸をワクワクさせた。
夏祭りに来るのは初めてではなかったけれど、大人がいないのは初めてだった。浴衣の袖の先、繋いだ手は温かくくすぐったい。
「千映、何か食べたいものある?」
振り返った兄の言葉に「かき氷」と元気よく答えれば、「かき氷な。じゃあ、もう少し先まで歩こう」と今までよりも強く手を握られた。
五つの年の差。どんなときでも兄は私の前にいて、手を握ってくれて、守ってくれる。それは私が小学生になっても変わることはなかった。
兄の温かくて大きな手が大好きだった。大好きだったからこそ、離してみたくなった。
試したのかもしれない。確認したかったのかもしれない。兄はどうするか、と。きっとすぐに振り返ってくれる。すぐに見つけて、手を握ってくれる。さっきよりも強く。兄が私を置いていくわけがないという安心感から来るいたずら心。幼い私は人混みで手を離したらどうなるかなんて知らなかったのだ。
ほんの一瞬。緩んだ力の隙間から手を抜いた。気づいた兄がすぐに振り返ってくれることを期待して足を止める。
「……え」
小さな私が立ち止まったところで、体の左右を行き交う人の流れは止まらない。視界に映る兄の姿は一瞬で遠くなった。人の波に攫われていく兄をただ見つめることしかできない。追いかけることができなかった。追いかけたら余計にはぐれてしまう気がして。だって私の足では追いつけない。見失ってしまう。ここでおとなしく待っていたほうがきっといい。その間にも兄の姿はどんどん小さく、遠くなっていく。自分から手を離したくせに、どうすればいいかわからなくて、せり上がった不安と心細さで胸が押し潰される。
「あれ? ひとり?」
聞き覚えのある声に振り返れば、兄と同じサッカークラブに通っているひとたちがいた。
「芹沢の妹だよな?」
まともに話したことなんてなかったけど。ひとりになってしまった心細さで張りつめていた糸がプツン、と切れた。噛んでいた唇を離し、せり上がってきた不安のまま私は大声で泣き出した。
「っ、う、うわあああん……」
「え、あ、ちょっと」
戸惑う声も慌てる顔も見えていたけれど、載せられた手に兄と同じ温もりを感じて、涙はますます溢れた。ビックリした柿崎までつられて泣き出してきっとあのひとは大変だっただろう。
***
どこをどう歩いたのか自分でも覚えていない。気づいたらそこに辿り着いていた。取り壊し予定の表示がされている建物の塀の前。水色のシートを敷いて座り込む姿に息が止まった。すぐに引き返すこともできず、動きを止めてしまった影がシートの上に重なる。
塀へと向けられていた顔が上げられる。
会うのはあの雨の日以来だった。二年以上経つのに、すぐにわかってしまった。それは相手も同じだった。
「――千映ちゃん?」
「柿崎、さん」
「久しぶりだね。元気だった?」
柔らかな声。切れ長の瞳が細められる。大きな白い壁の前に座った姿勢のまま、柿崎さんが私を見上げる。
「……」
どうして。どうしてこのひとはこんな表情ができるのだろう。兄の――好きなひとの、妹だから? 誰よりも兄を傷つけたのは、ふたりを傷つけたのは私なのに。
「千映ちゃん、陸と同じクラスなんでしょ?」
「え」
「この前、うちに来た時に陸が言ってたよ」
柿崎が私のことを話していたという事実にも驚いたけれど、さらりと口にした「うち」という言葉のほうがひっかかった。響いた音の温かさに、まるく上がった頬にチリリと痺れが走る。
「千映ちゃんもさ、よかったら遊びにおいでよ。
兄の名前を呼んだその声があまりにも優しくて、温かくて、どうしようもなく胸が痛くなった。兄が家を出て二年、一度も家には帰ってきていない。兄がどうしているのか私は知らない。知らないままだった。父か母に聞けば教えてもらえたのかもしれないけど。聞くのがこわかった。知っていて内緒にされていたのだとしても、本当に知らないのだとしても、どちらにしてもうまく受け止められない気がして。
「一緒に……住んでるんですか?」
「うん。三月からだから、二か月くらいかな」
どうして。どうしてそんなに何も躊躇わずに答えられるのだろう。私たち家族をバラバラにしたのに。私から兄を奪ったのに。少しの戸惑いも、揺らぎも、申し訳なさも微塵も感じられない。嫌だな。目を逸らし続けている世界を見せられるのはこわい。私の世界はこの眼鏡のフレームの、小さな枠の中にしかないのに。
――千映。
私の名前を優しく呼ぶ兄は、どこにいるのだろう。思い出の中の兄は眼鏡のレンズ越しに見える。一番近くにいてくれる。だけど、今の、こうして私たち家族を避けている兄だって兄には変わらない。変わらないから、わからなくなる。
ツン、と鼻の奥が痛くなったのは柿崎さんが缶の蓋を外したから。青色のペンキへと筆の先が浸される。白い毛先が青く染まっていく。空のように鮮やかな色が目の前に広がっていく。
「……兄は、元気ですか?」
「うん。元気だよ」
柿崎さんは振り返らなかった。視線は筆の先、白い壁に向けられている。声は柔らかく響く。
「千尋、元気だからさ」
兄が私の名前を呼ぶのと同じ、翳りのない愛おしさで満ちている。ふたりで過ごしてきた時間が見えるようだった。
「だから千映ちゃんも普通に会いに来てよ」
付け足された言葉がぎゅっと胸の柔らかい部分を刺した。「普通」ってなんだろう。何も知らなかった頃のように? 知った上で知らないフリを? 投げてしまった言葉の罪悪感を忘れて? 私にはもう何が「正しく」て、何が「普通」なのかわからない。いくら眼鏡を新調しても、あの雨の日から私の景色は遠いままだ。
筆の先からは鮮やかな景色が広がっていく。私が兄と話せなくなった原因を作ったのに。柿崎さんの視界はきれいな景色を捉えている。私はどこにも行けずに立ち止まっているのに。私よりもずっと広い世界にいる。それがひどく悔しくて苦しくて許せなくて。言葉は勝手に滑り落ちた。
「――普通って、なんですか」
壁から離された筆が空中で動きを止める。
「何もなかったようにすればいいんですか」
静かに視線が向けられる。
「何もなかったように笑って話して忘れたフリしてそれで」
「しなくていいよ」
大きくはなかった。それでもまっすぐ響いた声に溢れていた言葉が止まる。
「千映ちゃんは千映ちゃんのまま、言いたいことがあれば言っていいし、聞きたいことがあるなら聞いていい。本当に会いたくないならもちろん無理にとは言わない。でも……そうじゃないでしょ?」
――そうじゃないでしょ?
問いかけが頭の中で繰り返される。
「どうして、そんな……」
兄たちを傷つけたかったわけじゃない。私の知っている兄ではなかったから。いつでも笑って「千映」と呼んでくれる兄でも、お日さまのように明るく優しく笑う兄でもない。どこか翳りを帯びた、それでいてひどく幸福そうな、手の届かない、全く違う世界のひとに見えた。隔たりを感じた。兄の世界から弾き出された自分がひどく惨めで悲しくて寂しくて。そんな顔をする兄も、ふたりだけの世界に連れていってしまう柿崎さんも許せなくて。
咄嗟に滑り落ちた言葉の鋭さが後悔となって沈んでいる。
あの瞬間の心地悪さを私はまだ忘れられずにいる。
こんな私が「会いたい」なんて今さら言ってはいけない気がした。
「そんな、こと……」
繋がった視線の奥、少しの揺らぎもない水面。そこに映る私はあの日と同じ迷子の顔をしている。兄を探し求めている顔。
――本当はずっと会いたかった。
会いたかったけど、どうすればいいかわからなかった。部屋を訪ねてきた兄を無視したのは私で、「ごめん」と謝ったのは兄で。本当は仲の良かった頃に戻りたい。何も知らなかったときに。でも、時間を戻すことも、過去を変えることもできないってわかっている。わかっているからこそ何もできない。会いに行ったら兄はどんな顔をするだろう。会ってくれるのかもわからない。拒絶されたら、と思うとこわくてたまらない。
「千映ちゃん、千尋にそっくりだから」
「え」
「千尋もするんだよ。その
「……」
「会いたきゃ会えばいいのに。ぐるぐる難しそうな顔してさ」
ふっと息を落としながら、柿崎さんが眉を下げて笑う。
「そんな簡単じゃないっていうのもわかってるんだけど、でも、そんな顔いつまでも見ていたくないし、千尋にはなるべく笑っていてほしいからさ」
トポン、と筆の先が再び染まっていく。
「あと、ふたりが拗れたの俺のせいでもあるから、できれば仲直りしてほしい……かな」
あんなにまっすぐに向けられていた視線が気まずそうに逃げていき、色が重ねられる。
「ごめんね」
聞こえた声は悲しさを纏ってはいない。吸い込んだ空気にツンと鼻の奥が痛くなったけれど、胸の痛みは少しだけ縮まった気がした。
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