『あなたが、自由に生きられるように』その願いのさきにある未来

 本作の前作『暁天の双星』(※)を拝読したとき、私は「歴史はだれのものか?」という問いを立てた。
(※)https://kakuyomu.jp/works/1177354054887670705
 そして、大国の属国となり、これから苦難の道を歩むことになるニアーダ国民のために、その実像を失い、虚像となって歴史に名を刻んだ人々に思いを馳せた。
 そう、『歴史』はその一面として『いまを生きる人々』のためにある、というのが、私が『暁天の双星』を拝読したときに受け止めた、作品からのメッセージだった。

 いま、本作を拝読し、私はもう一度「歴史はだれのものか?」という問いを立ててみたくなった。
 歴史の教科書を紐解けば、歴史は少数者のものだ……そんな印象を抱いてしまう。
 時代を駆動させるのは一握りの「歴史に名を残した人物」、織田信長であり、カエサルであり、始皇帝であり……賢き統治者、果断なる勇者、あるいは蒙昧な帝王である……そう思ってしまう。

 しかし、ほんとうにそうだろうか?

 本作は、国を傾け、祖国を逐われた元王と、彼の国を属国とした宗主国の第三王子とのささやかな交流譚で物語の幕を開ける。
 なにひとつ不足はなくとも不自由な王子としての暮らし。
 虜囚の不自由さを従容として受け入れ、自身の『失敗』ですら斯くあるものとして受け止めてきた元王、アテュイスの有り様に、ハーレイ王子は心を開く。
 ふたりの出会いをきっかけに、ハーレイ王子はひとつひとつ、身の回りの人々に対する新しい視座を得て、みなが『自身を犠牲にしても、他者が望むままに生きて欲しい』そう願っていることを知る。
 もちろんハーレイ自身も。そして……おそらくはアテュイスもまた。
 彼らの願いの行き着くさき。それが本作の結末である。

 『あなたが、自由に生きられるように』

 本作を読んだ読者は……時代がおおくの登場人物たちの願いや祈りの果てに動き、『賢き為政者』『果断なる勇者』『蒙昧なる帝王』などという虚像の玩具ではないことを知るはずだ。
 そして、『歴史』が、その時代を生きる人びと、ひとりひとりの手に渡された、その瞬間を目撃することになると、私は確信している。