隠者は払暁に眠る

泡野瑤子

序文

序文 ――ターミ・ポアット教授によるまえがき

 本書をお読みいただく前に、まず誤解のないように明記しておかねばならないことがある。

 ソアント出版では、新人作家からの原稿は募集していない。持ち込みや郵送の類も一切受け付けていない。ましてや文学賞の類は主催していない。彼らの専門は我がニアーダ王国及び周辺国の歴史書であり、歴史小説については今後刊行する意向はないとのことだ。

 しかしながら、本書『隠者いんじゃ払暁ふつぎょうに眠る』は、ある匿名の作家がアポイント無しに原稿を郵送してきた歴史小説であり、しかも荒唐無稽なフィクションだと言わざるを得ない。したがって、本書はソアント出版にとって後にも先にもない特例である。

 なぜこんな本が上梓じょうしされるに至ったのかと、愛読者諸賢が首を傾げられるのも当然のことだろう。

 ソアント出版に本書の原稿が届いたのは、一昨年の春であった。その頃、ソアント出版は創立百周年を二年後に控え、ふさわしい記念出版企画を求めていた。編集部では連日企画会議が開かれたものの、めぼしい執筆陣のスケジュールを押さえることができていなかったという。

 社内規定では、アポイントのない郵送原稿は開封せずに送り主へ返送することになっているそうだ。しかし偶然その封筒を手に取ったある若き編集部員――仮にカイハーン氏としよう。ニアーダではよくある名字だから――が、思わず中身を読んでしまった。

 普段は職務に忠実なカイハーン氏をして内規違反を犯させた理由は、難航する周年企画への焦りばかりではなかった。分厚い封筒の裏側に、送り主の名前とともにこんな一文が書かれていたのである。



 本当に大切なのは「何が起こったか」よりも、「何が起こったか」を各人が思い思いに想像し、議論できる自由ソアントである。


 

 これは私の小説『暁天ぎょうてん双星そうせい』にある言葉だ。実を言うと、カイハーン氏はかつて私の教え子であり、拙作の熱心な読者でもあった。

 封を開けると、束になった原稿のほかに、作者からの短い手紙が一筆添えてあった。


 

 本作が出版に値しないならこの原稿は捨ててください。

 もし出版できるなら、私が得るべき利益は外国で生活するニアーダ人の支援団体へ全額寄付してください。



 調べたところ、封筒に書かれた送り主の住所氏名は実在しなかった。作者が男性なのか女性なのか、老人なのか若者なのかも分からない。だから本作はまさに「隠者」が書いた小説である。

 カイハーン氏は原稿を読んだ後、すぐに私の研究室へ電話をしてきた。

「ポアット先生、もしかしてうちの会社に、新作小説の原稿を送ったりはしていませんよね?」

 彼は私が偽名を使ったのではないかと疑ったらしい。

「いいえ」私は答えた。「私はあれ以来、もう小説は書いていません」

 嘘ではなかった。確かに私は以前、『暁天の双星』という歴史小説を書いたが、それはフィクションの体裁を取らなければ、長らく隠匿されてきた真実を国民に知らせることができなかったからだ。

 私の本職は歴史学者であり、大学教授である。毎日自分の研究や講義があり、小説ではない自著や論文の執筆がある。いくつかの出版社から、また小説を出さないかというオファーも頂いたが、すべて丁重にお断りしてきた。

 返答を聞いたカイハーン氏は、電話の向こうで残念そうな声を出した。

「そうですか。もしこの小説が先生の作品なら、編集長を説得して企画を通せるかと思ったのですが」

「そんなに素晴らしい小説なのですか?」

 私の問いに、しかしカイハーン氏は「いいえ」と答えた。

「正直、文章は未熟だと思います。内容も滅茶苦茶でした」

 私は思わず笑ってしまった。

「その未熟で滅茶苦茶な小説を、私の作品かもしれないと思ったのですか?」

「あっ、いえ……そういうわけでは……」

「気にしないでください。それで、どういう小説なんですか?」

 カイハーン氏は気を取り直して、『隠者は払暁に眠る』の内容をかいつまんで説明してくれた。

 タイトルにある「隠者」とは、およそ三百六十年前のニアーダ第一王政時代最後の王、アテュイス王を指す。

 いまやニアーダ人なら小学生でも知っているこの暴君は、摂政時代から圧政を敷き、数々の粛正を断行し、多くの平民を貧民へと転落させ、多くの貧民を窮死させ、結果的に憲兵バライシュの反乱をも招いた。

 拙作『暁天の双星』は、「バライシュの乱」を巡る歴史の闇を暴くために書いた小説だった。もし拙作をお読みいただいた方がいらっしゃったならば、私が書いた若く冷酷なアテュイス王の姿がご記憶にあるかもしれないが、本書は別の作者による独立した作品であり、拙作との直接的な関連はない。

 バライシュの乱後、ニアーダ王国は隣国ユーゴー帝国の侵攻を受け、以後帝国滅亡までの約六十年間、間接的支配を受けることとなる。

 敗戦後、身柄をユーゴー帝国の首都ミジェへ移送された後のアテュイス王の消息について、ニアーダ・ユーゴー両国ともに公的な記録はほとんど残されていない。ニアーダの公的文書からは、彼の実弟であるチュンナク王から何度も赦免しゃめんの嘆願書を送ったが拒否されたと分かるだけだ。ユーゴーの公的史料は革命の動乱でほとんど失われてしまったが、当時の修道女が書いていた私的な日記にわずかに記述が見られる。

 それらから読み取れるのは、アテュイス王は長らく帝城の裏庭に軟禁されていたことと、帝国最後の皇帝ハーレイ一世が革命により暗殺された後も裏庭に留まり、再び祖国の土を踏まぬまま九十五歳で亡くなったことくらいである。

「隠者」アテュイス王は、ユーゴー帝国でどんな生活を送っていたのか?

 この歴史の空白を、名も知らぬ作者が大胆かつ奔放な想像力で補完したのが本書である。

 アテュイス王は裏庭で暮らしながら、四十歳も年少だった幼きハーレイ一世と密な関係を築き、その思想形成に多大なる影響を及ぼす一方で、陰で革命勢力とも接触して帝国の滅亡と祖国の解放に一役買ったというのである。

 粗筋あらすじを聞いた私の率直な感想は、こうだった。

「面白い発想ですね。でも、史実と認めるにはさすがに無理がありますね」

「ですよね。アテュイス王が少年時代のハーレイ一世と仲良くなって、ニアーダを外から救ったなんて、いくらなんでも空想が過ぎます」

 でも、と彼は続けた。

「先生の小説がそうだったように、自由な議論ソアンツ・ベッシャのきっかけになるんじゃないかと思うんです」

 私は青年が熱っぽく語るのを黙って聞いていた。

「我が社はニアーダ随一の老舗出版社です。我が国の歴史学の発展に、大いに貢献してきたという自負はあります。その一方で、我が社は『自由ソアント』の名を冠しながら、王家に都合良く作られた画一的な歴史観を追認し続け、自由な議論を許さない風潮を生み出してきたのもまた事実です。長い間、この国にはひとつの歴史しかなかったけれど、もっと多面的な見方をしてもいいはずです。いろんな考え方があっていいんです。僕は先生の小説を読んで、それを学びました。だから創立百周年の節目に、我が社がこういう小説を出版することに意義を感じるんです」

 そこまで言って、カイハーン氏は我に返ったらしかった。

「すみません、つい……」

 彼は謝ったが、私にはむしろ喜ばしく思えた。かつて私の下で研究に情熱を傾けていた彼の姿が、懐かしく思い出されたからだ。

「カイハーン君、もしよかったら、その原稿を私にも読ませてくれませんか。出版するべきだと思えたなら、私もあなたと一緒に編集長を説得してみましょう」

 そしていま、私はこの文章を書いている。

 小説の刊行という前例のない周年企画に、編集長は勇気ある決断を下してくれたが、その際に提示された条件が三つあった。

 ひとつ、本書の序文を私が書くこと、ふたつ、その中でソアント出版がアポイントのない投稿作品および小説を出版するのは今回が最初で最後だと明記すること、みっつ、本作『隠者は払暁に眠る』が、歴史学的には裏付けのないフィクションであることを明記すること。

 これらの条件は、ここまでですでに達成できたはずなので、あとは私の個人的な感想を書かせていただく。

 私が『隠者は払暁に眠る』を出版すべきと思った理由は、カイハーン氏とは少し異なっている。

 本作の内容には、明らかに史実と異なる部分がある。たとえば、『暁天の双星』にも登場したジュディミス王子とコーク族の女性サエとの娘らしき人物が登場するが、ふたりの子は実際には男性である。また終盤に登場するハーレイ一世の次男グスターヴァスは、生後まもなく亡くなっている。

 いずれも作者が創作上の意図によって改変したのであろう。読者諸賢には、書かれていることすべてが史実通りだと鵜呑みにしないでいただきたい。

 史実とは異なるとしても、アテュイス王やハーレイ一世をはじめとした登場人物たちは、それぞれ魅力的に描かれていた。

 皇帝になれなかったハーレイの兄たち、ハーレイ少年の初恋の人、政略結婚で嫁いできた恐妻、そしてハーレイに接近する謎の男……。

 彼らを、多くの読者にも見てもらいたい。

 平たく言えば、この小説は面白かったのである。

 かつて私が『暁天の双星』を書いたとき、小説は単なる手段でしかなかった。

 けれども、いまや時代は変わった。

 ニアーダ国民は、もう押しつけられた歴史を奉戴ほうたいしなくていい。誰かを蔑んだり、傷つけたりしない範囲で、研究を進め、自国の歴史を楽しんでいい。この国はもう、そういう自由の国ソアンツ・ワンになっているはずである。

 最後に、本作の作者へ。

 本書による収益は刊行後一年を目処に、各支援団体へ寄付することになっている。私も確認するので安心してほしい。

 もし気が変わったら、ソアント出版に名乗り出てほしい。

 私はあなたに会って、いろんな話をしてみたいのだ。封筒の裏に書かれた偽りの住所氏名を正しく言える人が、真の作者のはずである。


 某年某月 木春菊マーガレットの咲く庭を眺めながら


 ニアーダ王立大学歴史学部教授 ターミ・ポアット

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