第一部

第一章 真夜中の裏庭にて

第一章 真夜中の裏庭にて・1

 帝国暦一八〇年(ニアーダ王国暦五三三年)十月



 出窓を開けた途端、突風がハーレイの小さな身体を押し返した。頭の中で夜がこだまする。行ってはならぬ、いますぐベッドへ戻るのだ、と。

 窓の外には、ほとんど葉を落としたイチョウのたくましい枝が伸びている。手が届きそうで届かない距離だが、飛び移ることならできそうだ。枝から枝へと下っていけば、安全に地面まで辿り着けるだろう。昼に傷めたばかりの右足首が鈍い痛みを訴えているが、我慢するしかない。

 ただし、ここはファークロウ城の三階。ユーゴー帝国の皇族の中でも、最も高貴な血筋の人間だけが住まう高みである。見下ろした先には灯火ひとつない闇が広がっている。もしも失敗すれば、命の保証はない。

 一向に吹き止まぬ夜風は少年の巻毛をせわしなく揺らし、薔薇色の頬を青ざめさせていた。

 ――でも、僕にはこうするしかないんだ。

 ハーレイは窓の縁を思いきり踏み切って跳んだ。その刹那、朝からの出来事が次々脳裏に蘇る。

 この日は十歳になったばかりの皇子にとって、決死の逃亡を図るに足るほどの一日だったのだ。



***



 ユーゴー帝国の第三皇子、ハーレイ・マルス・メイナードの一日は、この日もいつもと変わらない始まりを迎えた。ただしいつもと変わらないことほど、彼にとって悪いことはない。大嫌いな勉強と、剣術の稽古が始まるからだ。

 毎日、帝都ミジェに朝の鐘が鳴り響く時間ぴったりに、教育係のライサンダーは勉強部屋を訪れる。

 ハーレイは身支度をきれいに整えて待っていなくてはならない。もし寝坊しようものなら大変だ。長い説教の上に罰として革鞭で十回打たれる。

 鞭打ちは嫌なのについぎりぎりまで寝てしまうから、毎日召使たちの力を大いに借りてなんとかしのいでいる。この日もライサンダーがドアをノックしたときには、まだ赤い上着の袖についた大きな金ボタンが留まっていなかった。

「入るがよい」

 召使たちを別のドアから退散させ、一呼吸整えてから、ハーレイはできるだけ威張った声を出した。

「おはようございます、殿下」

 グスターヴァス・ライサンダーは、いつも通り感情のこもらない挨拶をした。

 その装いもいつも通りだ。上着の襟元や袖口の刺繍は金糸ではなく白い絹糸で控えめに施されているのみで、皇子の教育係にしては地味すぎる出で立ちである。丸くて大きな眼鏡のレンズは分厚くて冷たく、その奥できらりと光る真っ黒い瞳を見れば、どうやら彼はハーレイの粗相をひとつたりとも見逃すつもりはないらしいと分かる。

「今日もお時間通りで何よりでございます」

 褒めてくれているようには聞こえない。むしろ腰に差してある鞭の出番がなくて残念だと思っているのではないか。

 ハーレイは、この教育係のことが大嫌いだった。

 第三皇子であるハーレイに、ライサンダーによって皇帝になるための教育が「一応」施されるようになったのは、五歳のときだった。

 初めは読み書きや四則演算くらいの易しいものだったからさして苦はなかったし、ときどきライサンダーが読み聞かせてくれるユーゴー帝国の昔話は大好きだった。

 けれども年を追うごとにハーレイが学ぶべき事柄はどんどん増え、内容も難しくなっていた。いまやハーレイが「将来皇帝になるかもしれないので一応」丸暗記しておかなければならない本を積み上げると、十歳になったばかりのハーレイよりも背が高くて、しかも重たい。

 文学や歴史は嫌いではないし、算学、科学の勉強は苦手だがまだ我慢できる。ちゃんと勉強していれば、普段の生活に役に立ちそうだと思えるからだ。

 けれども、軍事、外交、内政、それらを司る帝国政府の省庁や議事堂の構成、全てに絶対権力を有する為政者いせいしゃとしての心構え――ハーレイには、「為政者」という言葉の意味さえよく分からなかった――それらは何もかもが難解で重苦しい言葉だらけで、将来の自分に縁があるものだとは到底思えなかった。

「それでは、今日はわが帝国の国土について学んでいただきます」

 本棚から巨大な地図帳を取り出したライサンダーは、幼い第三皇子の屈託を意に介すことなく、机を挟んで腰掛けた。

 机いっぱいに広がった帝国の地図には細かい字でたくさんの地名が書かれていて、ハーレイは見るだにうんざりする。

 大陸一の面積を誇るユーゴー帝国の国土は、概ね鶏卵が左へ傾いたような形をしている。

 首都は東部のミジェ。いまハーレイたちがいるファークロウ城もここにある。

 気候は温暖湿潤で比較的安定しているものの、秋から冬にかけて帝都のすぐ北側にある独立峰ロコ・ロシロから吹き下ろす風――この風こそが山名の由来、「憤怒の風ロコ・ロシロ」である――は強烈で、ひとたび空模様が乱れると帝都に大きな被害をもたらすこともある。(つい十日ほど前にもミジェは暴風雨に見舞われて、倒れてきた大木がファークロウ城の石壁に穴を空けたばかりだったな、とハーレイは思い返した)

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