第一章 真夜中の裏庭にて・2

 ユーゴー帝国は、百八十年前に初代皇帝ハルバード一世によって統一されるまでは、大小様々の国に分かれていた。

 帝都のあるミジェ地方は人口が多く、商工業が発展している。

 国土の北側、クノッセン地方は寒冷な豪雪地帯だ。スキッチ山上にあるチブセン湖には、冬になると分厚い氷が張って(きっとライサンダーの眼鏡よりも分厚いのだろう)、その上を狼が引くそりが走る。

 西部のアークウォルス平野はユーゴー人の食を支える大穀倉地帯。南部の海側ポトラント地方は日当たりがよく、製塩と漁業が盛んだ。果樹園も多く、温かな太陽に育まれた葡萄ぶどうで作る葡萄酒は、ファークロウ城の宴には欠かせない品となっている……云々。

「ちょ、ちょっと待て、ライサンダー」

 ハーレイは滔々とうとうと話し続ける教育係にてのひらを向けた。

「いかがなさいました、殿下?」

「そんなにいっぺんに言われても、覚えきれるわけがない」

「このくらい覚えていただかなくては困ります」

 にべもない返事だ。

「殿下は、いつか帝位に就くかもしれないお方なのですから」

 かもしれない。この言葉は、いつでもハーレイの心を傷つけ、重くさせた。

「……僕には、優秀な兄上が二人もいる。僕が皇帝になるなんてあり得ないし、あってはならないことじゃないか」

 威張った言葉遣いを捨てて、子どもらしい率直な思いを口にしてみる。

「こんな勉強、お互い時間の無駄だよ」

 ハーレイが帝位を自分とは無縁だと思いたがるのは、その重責を恐れるからばかりではない。三男であるハーレイに黄金の帝冠としゃくが巡ってくるということは、父と二人の兄にもしものことがあった場合に限られるはずだからだ。

 兄たちは二人とも、ハーレイより十歳以上年上だ。すでに皇帝の輔佐としてそれぞれ政務に携わっている。ハーレイの出る幕などないはずだ。

 念のため、もしものときに備えて。

 その言葉は常に不幸を連想させる。努力すればするほど、自分がそれを引き寄せている気がしてしまう。皇帝になりたいと思ったことなんて、一度もないのに。

 少年の碧眼は、本来ポトラントの海のように澄みわたっているはずであったが、このところ漠然とした不安のために翳っていた。

「いいえ。殿下、それは違います」

 あいにく皇子の教育係は、その影を消し飛ばす陽光を与えてはくれない。

「殿下は皇子であらせられます。いつそのときが来てもよいように、準備を整えていただかなくてはなりません。それに、たとえご自分が帝位に就くことはなくても、少なくとも次の皇帝陛下をお支えする立場にはなられるはずです」

 ハーレイは小さくため息をついた。

「分かってる。皇族に生まれた者の宿命……だよね」

 言うだけ無駄だった。こういう愚痴めいた小さな訴えは今日が初めてではなかったし、言ってどうにかなるなんて思ってもいなかった。ただ、誰かに話を聞いてほしかっただけだ。

 母上はハーレイを産んで間もなく亡くなった。皇帝である父上は昔から息子たちに全く興味がないし、当の兄上たちにこんな不吉な話はできない。だから話せる相手は、ライサンダーしかいなかった。

 けれどもライサンダーは決して味方にはなってくれなかった。

 ハーレイがまだ文字も満足に読めないほど幼かったころ、わくわくする昔話を語り聞かせてくれて、ときに優しく微笑みかけてくれた人は、どこへ行ってしまったのだろう。なぜこんなに冷たいのだろう。いまはただ皇帝である父上の命令に従って、ハーレイに知識を詰め込むことしか頭にないのだろうか。

 ハーレイは青い瞳で、ライサンダーの黒い瞳を力なく見つめ返した。

「……続けて、ライサンダー」

 再びライサンダーは地図帳に視線を戻し、帝国領内の地理についてより詳細な説明を始めた。彼がときどき復習のために質問してくると、ハーレイはその全てに正しい答えを返した。

 実のところ、ハーレイはそれなりに聡明な少年だったのだが、明日になれば別の知識が詰め込まれ、今日の学習内容をいくらか忘れる。明後日になればさらに忘れる。ひと月前に習ったことは、もうあまり思い出せない。

 ライサンダーに教わったことで、ハーレイが最もよく覚えているのは、昔話に登場した妖精の国や竜退治の英雄のことだ。

 昼時を知らせる鐘が鳴って、ハーレイは空腹を思い出した。

 ようやく食事ができる。その後はほんの少し昼寝をして、中庭で剣術の訓練。

 ライサンダーは、勉学のみならず剣術の師でもあった。寝ているときと食事のとき、そして用便と入浴のとき以外、彼はずっとハーレイについて回る。

「それでは、また後ほど」

 この部屋に入ってから立ち去るまで、ライサンダーの表情は何ひとつ変わらない。ハーレイの訴えなんて、なかったも同然だ。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る