第一章 真夜中の裏庭にて・3
***
いつも通り過ぎ去った勉学の時間は、いつも通りハーレイの心を塞がせたが、そのうえ城から逃げ出そうとまで思わせたきっかけは、その後に訪れたのである。
ハーレイの昼食は、一流の料理人が腕によりをかけて作った贅沢な料理である。
香ばしく焼き上げられた骨つきの鶏もも肉と、食後に供された葡萄のシロップ漬けに皇子はいくらか機嫌を良くし、そういえば葡萄の名産地はどこだったっけ、と午前中の授業を思い返しもした。
ただし会話する相手はいない。食事を勉強部屋まで運んできた若い召使は、いつもそそくさと部屋を出て行ってしまう。話しかけたとしても、身分の高いハーレイにおどおどしてまともな会話にならない。
食事の後は昼寝の時間だ。いったん寝室に戻るのが常だったが、この日ハーレイは特に理由もなく勉強部屋の赤いソファに寝転がっていた。
ハーレイがうとうとし始めたころ、
「ああもう、面倒くさいったらありゃしない」
召使の老女がふたり、ぶつくさ文句を言いながらワゴンを押してやって来た。
食事の後片付けに来たらしいが、どうやら背後のソファでハーレイが寝ていることには気づかないようだ。ソファの赤が上着の赤と同化して見えないのだろうか。
「なんでわざわざ三階まで料理を運ばせるのよ。食べる人が一階まで降りてくればいいのに」
「しょうがないだろ、お偉い皇子様はここでたっぷりお勉強しなきゃいけないんだから、下々のところまで降りてくる暇なんざないってこった」
遠慮のない会話が飛び交っている。寝ぼけていたから、はじめハーレイは自分のことを言われているとは気づかなかった。
「うらやましいわねえ、皇子様はあんないい男に付きっきりでお勉強教えてもらえてさ」
「ええっ、ライサンダー? あんた、あんな陰気な男が好みなのかい?」
「知らないのかい? あの分厚い眼鏡を取ったら、これがびっくりするようないい男なんだよ! まだ独身なんだろ? あーあ、あたしがあと二十年若ければねえ」
「なんて厚かましい、三十年の間違いでしょうが!」
ハーレイは身を縮めて、笑いそうになるのをぐっとこらえた。召使たちがライサンダーをどう評するのか、もう少し聞いてみたいと思ったからだ。
「……まあ確かに、あの子のお母さんもとびきりの美人だったしねえ」
「ああ、そういえばそうだったねえ。残念だったよね、良い子だったのに、若いうちに死んじゃってさ」
この召使たちは、ライサンダーの母親のことを知っているらしい。
ライサンダーもお母さんを亡くしているのか、とハーレイが同情心を疼かせているとき、突然耳を疑う言葉が飛び込んできた。
「身分が身分なら、皇后陛下になれたはずなのに。先帝陛下に反対されちゃってさ」
「ほんとだねえ。そしたらいまごろライサンダーは皇太子殿下だったはずさ」
――どういう意味だろう?
話はそこで途切れた。食器をワゴンに載せる音がガチャガチャと鳴っている間、ハーレイはじっと目を閉じ、息を潜めて待った。
「……ライサンダーはどんな気分だろうね、年の離れた、腹違いの弟を『殿下』だなんて呼ぶのは?」
もうひとりの召使が何と答えたのかは分からない。
車輪の音が遠ざかり、召使が部屋のドアを閉めると、物音はもう何も聞こえなくなった。
知らず知らずのうちに、ハーレイの身体は小刻みに震えていた。
――腹違いの、弟? 僕が、ライサンダーの?
とはいえハーレイは、まだ「腹違いの弟」という意味をよく知らなかった。子作りについて教わるのは、もう少し先のことだ。
幼い彼に理解できたのは、ライサンダーはどうやら自分の兄で、しかし母親の身分が低いために皇子にはなれなかったということだけだ。しかも召使たちの口ぶりからするに、ライサンダー自身もそのことを知っているようである。
なぜライサンダーは昔のように優しくなくなったのか。ハーレイの疑問が、いっぺんに解けた気がした。
――きっとライサンダーもどこかで本当のことを知って、僕のことが嫌いになったんだ……。
昼寝の時間が終わってしまう。ハーレイはのろのろと寝室に戻って、防具付きの稽古着に着替えた。
身体が重いのは、稽古着の胸や肘、膝に革が縫い込まれているせいだけではない。ライサンダーが待つ中庭になど行きたくはなかった。そもそも、剣術なんか覚えて意味があるのか。最近ではどこの軍にも銃が普及している。いくら剣の達人でも、遠くから撃たれたらおしまいだ。
このままドアに鍵をかけて引きこもってしまいたかった。でもそんなことをして、何かあったのかと聞かれたらどう答えればいいか分からない。
僕は何も聞かなかったことにしなくちゃ、と繰り返し深呼吸をして、時間通りに部屋を出た。
建物の外に出ると、秋の冷気がハーレイの胸を締めつけた。
ファークロウ城は東西南北の棟で中庭を囲む設計になっている。さらに中庭の中央部分は丈の低い薔薇垣と花壇に囲まれており、二人で剣術の訓練をするにはちょうどいい広さだ。季節が良ければ一階の回廊に城勤めの役人や賓客が花を見に来るが、いまは少し時季外れで行き来する人もわざわざ足を止めはしない。
ライサンダーは二人分の剣を用意して待っていた。
剣といっても、ハーレイが使うのは軽くて柔らかい木製のものだ。ハーレイにはまだ鉄剣を振り回せるだけの腕力がない。
一方、ライサンダーは精強な体つきをしていた。あの地味な黒の上着の下に、こんなに広い肩と太い腕が隠れているなんて嘘みたいに思える。彼の稽古着も、やっぱり黒ずくめだ。
「今日は新しい型をお教えしましょう。少し難しいかもしれません」
手本を見せますから、上段から打ってきてください、とだけ言ってしなやかに構える。いつになくハーレイの顔色が悪いことには気づいていないのだろうか。
ハーレイは努めて平静を保とうとした。
僕は何も聞いていない。そう自分に言い聞かせて深呼吸をする。えい、と思い切って打ち込んだ。
だがライサンダーの剣に軽く受け止められたかと思うと、次の瞬間にはもう剣を取り落としていた。
何が起きたのかは分からない。ただ凄まじい殺気がハーレイの身体を通り過ぎていった。
――殺される……!
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