第一章 真夜中の裏庭にて・4
ハーレイはぎゅっと目をつむったが、ライサンダーの剣は、額すれすれのところで止められていた。
「分かりましたか? 相手の剣を受け止めた後、内側から左手で相手の手首を取ります。そのまま外へひねって、相手の剣を奪います」
ライサンダーはもう一度、今度はゆっくりとやってみせた。剣にほどよく角度をつけて、相手の剣筋を外側に流すのがこつだとも付け加えた。
ハーレイは言われるがままに見よう見まねでやってみたが、剣を握る手の震えが止まらない。
――ライサンダーは、本当に僕を殺す気なんじゃ?
それはもしかしたら殺気ではなく、剣の達人が意識を集中したときに放つ気迫であったかもしれない。
しかしこのときハーレイは避けがたい恐怖に囚われた。いつかそのうち、もしかしたら今日にでも、ライサンダーは訓練中の事故に見せかけて、自分を殺すのではないか?
「殿下」
突如、厳しい声とともに鋭い打突。
胸を突かれたハーレイは、そのまま体勢を崩して尻餅をついた。我に返って視線を上げたとき、ライサンダーの目はぞっとするほど黒かった。
「全然集中していませんね。皇族たる者、常に油断してはならぬとお教えしたはずです」
ライサンダーは剣先を上向きに振った。「立て」の合図だ。
ハーレイはざわつく心を必死でなだめながら従った。
とっさに突いた掌から、うっすら血が滲んでいた。尻もしたたか打った。ハーレイだってこの程度の痛みには慣れていたはずなのに、今日はやたらと堪える。
「教えた通りに、私から剣を奪ってください。失敗すれば、あなたは死にます」
失敗すれば死ぬ――そのつもりで真剣に取り組め、という意味だ。
頭では分かっている。それでも心の底が澱んでいく。指先が冷えて痺れる。蛇に睨まれた蛙のように、ハーレイは
どん、と胸を突く衝撃。息が詰まって、また尻餅をついた。ライサンダーから剣を奪うどころか、手にしていたはずの剣が地面に転がっている。
ライサンダーの剣が立てと促す。あり得ないことだ、いましがたハーレイは「死んだ」のだから。
それでも身体は無意識に立ち上がって剣を構えた。命ある限り諦めず最後まで戦うこと。最初の剣術訓練でライサンダーに教えられたことが、ハーレイの身に染みついている。
再びライサンダーが仕掛けてきたとき、ひゅんと風を切る音が鳴った。応じようとしたハーレイの剣は間に合わなかった。手加減をしてくれる気はないんだな、と諦めが脳裏をよぎる。
ライサンダーの一撃が肩に降ってきた。重心を乱され、足がもつれる。倒れるとき右足首に覚えた不快さは、すぐに熱を持った鈍痛へと変わり、いよいよハーレイの心を
「もう一度」
ライサンダーの声は冷徹そのものだ。ハーレイの身に起きた異変に気づいてなどいない。足を痛めて立ち上がれないでいる十歳の少年に、――父を同じくする弟に、手を貸してくれようともしない。
――どうして、僕に優しくしてくれないんだ。
そう口にしたとして、ライサンダーが答えを返してくれるとは思えない。だからハーレイは、自分で出した結論を真実と決め込んでしまった。
「……君は本当に、僕のことが嫌いなんだね」
ようやくライサンダーがわずかに眉根をひくつかせ、屈んで手を差し伸べてくれた。けれどもハーレイの激情をなだめるには、少しばかり遅かった。
「自分が皇帝になれないからって、僕に八つ当たりをするのはやめてよね」
「何を……」
「知ってるくせに」
ハーレイは剣を支えにして、自力で立ち上がろうとした。その背にライサンダーが手を添えてくれる。その気遣いを求めていたはずなのに、なぜか無性に腹が立つ。
「君がどんな身の上だろうと、僕のせいでそうなったわけじゃない。君が皇帝になれないのは君のお母さんのせいだろ。皇族の身分がそんなにうらやましい? ……それなら、もっと身分の高い人に産んでもらえばよかったんだ!」
それは口に出してすぐ後悔するほどに、最低の言葉だった。
自分だって、皇族に生まれたことを喜んでいるわけじゃない。誰を父として誰を母とするか、それはハーレイだけでなくライサンダーにとっても、どうしようもないことなのに。
回廊を行く役人たちも、立ち止まってこちらを見ていた。
そのときライサンダーの黒い瞳は、確かに怒りのために揺らいだ。人前で母親を侮辱したのだから当然だ。ぶたれても、鞭打ちされても文句は言えない。しかし彼の教育係は、あくまで冷静だった。
「殿下、お手当をいたしましょう」
称賛すべき忍耐強さである。それがハーレイにはかえって悲しかった。自分が何をしても、ライサンダーの心を動かすことはできないのだと思い知らされた気がした。
「いいよ。……どうせ大したことないから」
ハーレイはライサンダーの助けを断り、右足を引きずりながらひとりで三階の寝室へ帰った。ひとりになりたかった。けれどもドアを閉めた瞬間、静けさが幼い心に牙を剥いて襲いかかってきた。
――僕は、ほんとうに、ひとりぼっちなんだ。
拭っても拭っても、涙が溢れて止まらない。泣き疲れてベッドへ潜り込む。
今日の夕食は一階の大食堂で、いつも政務で忙しい兄上たちと一緒に食べるはずだったのに、こんな泣き腫らした目では恥ずかしくて行けない。
もう何もかもが嫌になった。
その後、頼んでもいないのに、夕食は少し早めに三階へ届いた。ライサンダーか誰かが気にかけてくれたのだろうが、ハーレイにはそれに気づけるほどの余裕はなかった。
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