第一章 真夜中の裏庭にて・5

***


 暗闇の中では、少し欠けた月と星の明かりだけが頼りだった。

 寝室の窓から飛び出したハーレイは、どうにかイチョウの枝を伝って下まで降りることができた。低いところまで枝の多い木だったのが幸いした。

 真夜中でも、ファークロウ城の城壁には等間隔に衛兵が配置されている。イチョウの木がずいぶん揺れたはずだが、まだ誰かに見咎められた気配はない。

 目指すは、十日前の倒木で東側の城壁に空いた穴だ。まだ完全には修復が終わっていないから、身体の小さいハーレイなら通れるはずだ。

 だが視界は一面真っ暗で、ハーレイは完全に方向感覚を失っていた。

 ――この時間帯に月が出ている方角は……ええと、どっちだったっけ?

 ライサンダーに一度は教わったはずだが、思い出せない。

 やむなくハーレイは当てずっぽうで歩き出した。抜き足、差し足、寝ずの番をしている衛兵たちに気づかれないように、ひっそりと。

 ――大丈夫、城壁を伝って行けば、そのうち穴までたどり着けるはずだ。

 どのくらい歩いただろうか。ハーレイの小さな手は、ふと石壁とは違う、ひやりとして硬いものに触れた。

 指先を嗅いでみると錆の匂いがした。暗くてよく見えないけれど、恐らく鉄格子の扉だ。

 ――こんな扉、あったっけ?

 興味本位でハーレイは扉を押した。カシャンと大きな音が鳴る。鍵は掛かっていなかった。

「おい、誰かいるのか?」

 城壁の上から大きな声がした。ハーレイが慌ててその場に伏せたとき、扉がギィと鈍い音を立てて内側へ開く。

 お入りなさい、と言われた気がした。

 ハーレイは地べたを這ったまま、扉の向こう側へと入った。腕に当たる感触は硬い。石畳が敷かれているようだ。

 やがて甘い香りが、ハーレイの鼻をくすぐった。どこかほっとするような香りだ。

 衛兵がもう警戒していないのを確かめてゆっくり立ち上がったとき、一面の白い花が目に飛び込んできた。

 白い花びらが寄り添い合って、重たげに開いた花の名前は知らない。花々は、夜の闇の中でわずかな光を反射して輝いている。けれどもハーレイには、むしろ自ら輝きを放っているように見えた。

 ハーレイは花壇に囲まれた園路に足を踏み入れていた。

 剣や軍学よりも、花が好きだった。眺めているだけで心が安らぐ。

 お城で生まれてから十年間、こんな花壇があったなんて知らなかった。城内に知らない場所なんて、ほとんどないつもりだった。

 行ったことがないのは、立入禁止の場所だけだ。たとえば、囚人が捕らえられている地下の牢獄、刑場、そして、城の西側にある裏庭……。

 裏庭。その存在を思い出したまさにその瞬間、背後から男性の声がした。

木春菊マーガレット、というのですよ」

 人に見つかってしまった。その声は低く物静かで、第三皇子に対する礼儀をわきまえている。その丁重さが、ハーレイにはかえって怖かった。

木春菊マーガレットなら僕も知ってる。でもこの花は、形が違うよ」

 ハーレイは振り返らずに答えた。背筋がこわばって動けなかったのだ。何か恐ろしいものに見咎められてしまった気がした。

「あなたがご存知なのは、おそらく一重ひとえ咲きの花でしょう。ここにあるのは、八重やえ咲きの木春菊マーガレットです。……いえ、もう違う名前を付けたほうがよいかもしれませんね。ほかの花と交配させて、よい香りがするように品種改良を試みているところです」

 長く話しているうちに、その声はハーレイの耳慣れぬ訛りをわずかにはらんだ。流暢な帝国共通語だが、声の主はこの国の人ではないらしい。

「そう……言ってみれば、この花は一種の奇形ですね。雄しべと雌しべの代わりに、花びらがついている。だから、種を残すことはない」

「……あなたは、庭師なの?」

「さあ、どう思われますか?」

 ハーレイはどきどきしながら振り返る。

 どんな花よりも光り輝く人が、そこに立っていた。

 夜風に揺れる長い束ね髪は、月明かりと同じ色をしている。丈の長い白い服は、ハーレイの知らない異国の民族衣装だ。

 若者ではないけれど老人にも見えず、東方人とも西方人ともつかぬ整った顔立ちで、いったい何歳くらいなのかさえ見当がつかない。近づいてみると意外と背が高い。見下ろす瞳は薄い灰色で、わずかに緑が混ざっていた。

「私はアテュイスです。ハーレイ皇子」

 少年を皇子と知りながらひざまずきもせず、その人は名乗った。

 アテュイス。その奇妙な語感が、ハーレイの記憶に訴えかけた。

 いつの日だったか、ライサンダーに教わった気がする。

 ハーレイが生まれる前、この帝国――ユーゴー帝国は隣国ニアーダと戦争をして勝った。ニアーダの王様があまりにも横暴で愚かだから、懲らしめてやったのだと。――その王様を、帝国は、父上はどう処罰したのだっけ?

「あなたは……もしかして、ニアーダ王国の、王様だった人……?」

 幼いハーレイにも、言葉を選ぶ慎みはある。

 けれどもアテュイスは己の評判をすべて知っているかのように、口の端に皺を寄せて優雅な笑みを漏らした。

「そうですよ」

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