第一章 真夜中の裏庭にて・6
アテュイスは花々へと視線を移した。その手には
「帝国との戦争に敗れて、ここへ連れて来られたのです。それ以来、ずっとここで暮らしています」
ほら、あそこ、とアテュイスが指を差す。
振り向くと、古ぼけた木造の小屋がひとつ見えた。もう二十年近くも、アテュイスはこの裏庭に閉じ込められていることになる。
「いつも、こんな夜中に花の世話をしているの?」
「そうですね。花にとってはよくないのでしょうが、私にとっては夜の方が気楽なのです。兵士たちからあまり見られないでしょう? 幸い私は、夜目が利きますから」
そして日が昇るころ、私は眠りに就くのです――穏やかに語るアテュイスを、ハーレイは気の毒に思った。
この人が横暴な王様? とてもそんな風には見えない。
ハーレイの目に映るアテュイスは、たとえて言うなら、人の世を厭うて隠れ住むサイオシスのよう――つまり、昔ライサンダーが読み聞かせてくれた、伝説の妖精王を彷彿とさせた。
「ここには、入っちゃだめだって言われてたんだ。荒れ放題で、危険な毒草が生えているからって……」
それがライサンダーの嘘だということは、実際に入ってみて一目で分かった。
「私に近づかせないための方便でしょうね」
アテュイスは鋏を動かしながら言った。
「あなたはどうして、こんな夜更けに立入禁止の裏庭にいらっしゃったのですか?」
皇子であるハーレイに横目で質問するなんて、本来ならものすごく無礼な振る舞いだ。でもハーレイには、この敗戦国の前国王のことを、自分より
「……何もかもが、嫌になったんだ」
ほとんど毎日教育係としか口を聞かない、不自由で孤独で、無意味な生活が嫌になったのだ。
その教育係が腹違いの兄で自分を憎んでいるらしいことは伏せて、ハーレイは告白した。というよりも、勝手に喋っていた。アテュイスの持つ柔らかな雰囲気がそうさせたのだろうか。
「皇子になんか生まれなければよかった。そうしたらもっと、自由に暮らせるのに」
ぱちん、と鋏が大きな音を鳴らした。
伸びすぎた芽がはらりと落ちる。ほかの花をきれいに咲かせるために、摘み取られる不要な新芽だ。
「仕方のないことですね。あなたは皇子としてお生まれになったのですから」
「……そうだよね」
アテュイスの答えはひどく素っ気なくて、ハーレイはがっかりした。
――僕はこの人に何を期待していたんだろう。この人にとって、僕は敵国の皇子だ。ただの憎たらしい子どもじゃないか。
急にどっと眠気が襲ってきた。徹夜すらできない子どものくせに夜中に脱走しようなんて、初めから馬鹿げた考えだった。冷たい風が吹くたびに、ふかふかのベッドが恋しくてたまらなくなっている。
ハーレイが
「おつらいときは、いつでもここへいらしてかまいませんよ。私でよろしければ、お話を伺いましょう」
アテュイスから、思いがけない救いの手が差し伸べられた。
「ほ……本当?」
「もちろん、あなたの周りの人たちは許さないでしょうから、こうして真夜中に誰にも気づかれないようにいらっしゃるのなら、ですが」
アテュイスはハーレイに向き直って屈み、襟元から
「ここで育てた花の香りを染み込ませてあります。枕の下に敷くと、よくお休みになれますよ」
「僕がもらっていいの?」
「私も王族の端くれですから、あなたのお気持ちはよく分かるつもりです。……いくらあなたが皇子でも、夜くらいは自由になってもよいはずです」
骨張った大きな手が小さな手を包み込む。血の通った温もりが嬉しくて、少しだけ涙が出た。
こんな風に優しい言葉をかけてくれる人を、ハーレイは知らなかった。もし母上が生きていらしたら、同じように慰めてくれただろうか。
「ありがとう。アテュイス様」
「『様』は要りませんよ、ハーレイ皇子」
アテュイスが微笑んだとき、ハーレイはいっぺんにこの人のことが好きになってしまった。
「うん。……アテュイス。また来るね」
感激のうちに、ハーレイは秘密の裏庭を後にした。来た道を戻り、木を登って自分の寝室に帰り着くと、言われた通り枕の下に
たとえライサンダーに憎まれていても、ハーレイはもうひとりぼっちではないのだ。あの美しい人が自分の味方をしてくれると思うだけで、胸の中に希望が湧いてくる。
明日からも、厳格で冷たいライサンダーとの無意味な研鑽の日々が続くのだろう。それでもほのかに漂う甘い香りに心を委ねていると、なんとかやっていけそうな気がした。
翌朝、ハーレイは窓辺から差し込む朝日で目を覚ました。
眠っている間は、夢も見ないほどぐっすりだった。むしろアテュイスに出会ったことが夢だったのではないかと思える。
けれどもハーレイが枕の下を確かめると、すべらかな手触りの絹布は、確かにそこにあった。
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