第二章 神に選ばれざる子たち

第二章 神に選ばれざる子たち・1

 ハーレイが二度目にアテュイスの裏庭を尋ねたのは、最初の出会いから五日ほど経ってからのことだった。

 ひどい言葉を浴びせたにもかかわらず、ライサンダーは相変わらず無表情を貫き通し、ハーレイに必要以上につらく当たることも、逆に甘やかすこともなかった。

 三日経てばハーレイの右足首は嘘のように治り、以前と何も変わらないかのように、いつもの講義といつもの剣術訓練が繰り返されていた。

 しかし、確かにハーレイの日々は変わったのだ。アテュイスに出会ったのだから。

 ――このままで、いいのかな?

 ベッドの中でハーレイは悶々と考えていた。

 ライサンダーにはまだ謝罪していない。それが気がかりだった。

 いくらライサンダーが怒っているそぶりを見せないからといって、彼に吐いた暴言がなかったことになるわけではない。でも、ライサンダーが水に流そうとしているなら、わざわざ蒸し返すべきではないとも思う。

 鈍感そうなあの教育係が気づいているかどうかはともかく、ハーレイはそれなりに気に病んでいるのだ。

 ――それに、僕はことになっているし。

 ハーレイはベッドから抜け出し、靴を履いて、再び窓からイチョウの木を伝って裏庭を尋ねた。前よりもいっそう寒い日だったのに、やっぱり寝間着のままだった。

 白く清らかな花園は、闇夜の中でも優しくハーレイを迎え入れてくれる。そして花園の主もまた、少年の訪れを悟っていたかのように、木春菊マーガレットを弄びながら待ち受けていた。

「そんな薄着では、お寒いでしょう。……ほら、こんなに冷えて」

 アテュイスは真っ先にハーレイの手を握ってくれた。

うちへ入りましょう。侍女に温かいお茶を淹れさせます」

 お茶なんてなくても、その心遣いだけで十分ハーレイの心は温まる。

 アテュイスが寝起きする家に招かれるのは、とても光栄なことだった。ハーレイにとってアテュイスは、「妖精王」なのだ。つまり、自分たち皇族でさえ比べものにならないほど高貴で尊い存在だった。

 裏庭の片隅にある木造の小屋が、アテュイスの「家」だ。とても貴人を住まわせるにはふさわしくない、狭く古ぼけた建物だったが、壁や屋根を見ると細やかな修繕が行き届いている。

「雨漏りがするたびに、自分で直しているのですよ」

 アテュイスは微笑むが、彼のような上品な人が釘と金槌を持って屋根に上る姿なんて、ハーレイにはうまく思い描くことができなかった。

 建て付けの悪いドアが軋みながら開いた。灯りは部屋の中央に、ランプがひとつぶら下がっているだけだったが、狭い小屋だからそれで十分だった。

 部屋の両端にベッドがひとつずつあり、その間に古ぼけた丸いテーブルと椅子が二脚置いてある。アテュイスの言う「侍女」は、そこで頬杖を突いて居眠りしていた。

「サナミア」

 アテュイスに名を呼ばれると、侍女はゆっくりと顔を上げた。

 サナミアは、ハーレイが初めて見る類の美人だった。褐色の肌と、頭頂でひとつに束ねた黒い髪。見慣れたユーゴー人とは違うが、美しい人だとハーレイには分かった。

 彼女が重たい瞼を開くと、透き通った瞳が現れる。それだけで部屋が明るくなった気がした。濃い橙色の灯りのもとでは、その瞳が何色なのかは定かではなかったが、どんな高価な宝玉も持たない特別な力をたたえているのは確かだった。

 サナミアはハーレイの知らない言葉で、アテュイスに話しかけた。おそらくニアーダ語だろう。

「謝る必要はありませんよ。サナミア、これからお休みのところ申し訳ないのですが、お客様にお茶をお願いできますか」

 アテュイスの返事は帝国共通語だった。長身のアテュイスの影に隠れていたハーレイに、ようやくサナミアも気づいた。一目で皇子だと分かったらしく、椅子から滑り落ちるように跪く。

「あっ、だい、じょうぶです、そういうの……」

 サナミアと目が合って、ハーレイの舌はもつれた。

 これまでにも、きらびやかに着飾った美しい貴婦人には何度も出会ったことがあるが、こんなにどきどきしたことはなかった。化粧っ気もなく、質素な生成りの服を着ているだけのサナミアが、なぜかアテュイスと同じく高貴な人に見える。

「えっと、ハーレイです。よろしく、サナミア」

 皇族は召使や侍女の名前などいちいち覚えない。取るに足らない存在だからだ。名を呼ぶ代わりに、ベルを鳴らして呼びつければよい。

 でもアテュイスはサナミアの名を呼んだ。だからハーレイもそれに倣うことにした。

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