第二章 神に選ばれざる子たち・2

 侍女のサナミアはニアーダ人だが、ミジェで生まれ育ったために帝国共通語も堪能だった。この小屋に住み込みで働いていて、昼ごろ起きて主人より先に眠る生活をもう三年ほど続けているとのことだ。

「このお茶はニアーダの名産品です。ユーゴーではキーワック産の、茶葉を発酵させたものが主流ですが、ニアーダでは茶葉を発酵させないように蒸したものが好まれます。明るいところで見ると、綺麗な緑色なんですよ」

 サナミアが淹れてくれたお茶は、ユーゴー風のティーカップに注がれてはいたものの、ハーレイが飲み慣れているものとは味も香りも全く違った。ちなみにキーワックとは、ニアーダの南側にある国だ。

「すごくいい香りだね」

 ハーレイはティーカップを鼻先に近づけ、その香りを存分に楽しんだ。きっとかなりの上物なのだろう。

「花の香りかな」

「そう、茶葉に蓮の香りを吸着させているのです。お気に召しましたか?」

「うん!」

 ハーレイが笑顔で頷くと、アテュイスも嬉しげに目を細めた。

「サナミア、あなたもお飲みなさい」

 アテュイスの言葉に、ハーレイは少なからず驚いた。

 侍女が貴人と同じ茶を飲むなんて、城内では考えられないことだ。サナミアも特に恐縮することなく、ひとこと礼を言って三つめのティーカップに茶を注いだ。椅子が足りないので自分のベッドに腰掛けているが、ハーレイがいなければアテュイスと向かい合わせに座っていたはずだ。

 ふたりの間では、これが普通なのだろう。主従というよりも、親子か年の離れた兄妹のように見えた。

「いいなあ」

 思わず口をついて出た。

「アテュイスは、サナミアと仲良しなんだね」

 ふたりが不思議そうな顔をした。「仲良し」という表現がしっくり来ないことは、ハーレイ自身にも分かっている。

「ほかにぴったりの言葉が分からないけど、なんていうか……相手をちゃんと大事にしてる、気がする」

「それはつまり『尊重』ということですね」

 アテュイスが新しい言葉を教えてくれた。

「相手を大事にするということは、相手が自分と同じくらい尊い存在だと知ることです」

「身分が違うのに?」

「身分が違っても、わたしたちは同じ人間なのですよ、ハーレイ皇子」

 ハーレイにとっては天地がひっくり返る瞬間だった。

 皇族は神に選ばれた特別な存在で、ほかの人とは違う。一般人の常識は通用しないのだと、これまでライサンダーに繰り返し教えられてきた。

 皇族でない人々を重んじる必要はないし、また重んじてはならない。皇族が誰かを特別扱いするということは、その相手を皇族と同じだと見なすことになる――そういう理屈だ。

 だがニアーダの王族であるアテュイスは、異なる考えを持っているらしい。

「アテュイス、……僕、君に聞いてほしいことがあるんだけど」

 そのために、今日ここへ来たのだ。

 ハーレイが話を切り出したとき、サナミアがお茶のお代わりを注いでくれた。優しい花の香りが心をほぐし、背中を押してくれる。

「僕には謝りたい人がいるんだけど、その人は皇族じゃないんだ」

「謝ればよいのでは?」

 アテュイスの答えは極めて単純だった。

「そう簡単じゃないんだよ。僕は、その人に『謝ってはいけない』と教えられているから」

 皇帝になる人の心構えとして、ライサンダーに教えられたことのひとつだった。

 皇帝は神に選ばれて政事を執り行う存在なので、決して過ちを犯さないことになっている。民は皇帝のことを、完全無欠の存在だと信じている。

 だから「失敗した」と思っても、決して口に出してはいけない。皇帝が軽々しく謝罪を繰り返せば、民を不安にさせてしまうからだ。ハーレイも、同じ皇族である父上や兄上以外の人間には謝らないようにと訓練されてきた。

「それに、皇族は下々の人間のことを気にかけなくていいって。誰よりも高貴だから」

 たとえハーレイが誰かをひどく侮辱したとしても、それは皇族が持つ当然の権利なのだ。謝罪する必要はない。それがユーゴー帝国の常識なのである。

 アテュイスは皇子の話に相槌を打ちながら耳を傾け、最後にこう尋ねた。

「ハーレイ皇子、あなたは、ご自分が特別な存在だと思っていらっしゃるのですか?」

「まさか。空飛ぶ翼とか、不思議な魔力とか持ってるなら別だけど。残念ながらただの子どもだよ」

 剣術の型も満足にできないし、月がどの方角に出るかもちゃんと覚えていない。父上や兄上たちはいざ知らず、ハーレイは自分が特別だとは全然思えなかった。

「あなたはとても賢くて、しかもお優しい方ですね」

 アテュイスが微笑んだ。

「もしもあなたが愚かで傲慢だったなら、『その人』はあなたをことさら特別な人間だと教えはしないはずです。愚か者は、ただ皇族に生まれついただけで自分は偉いのだと増長します。『その人』がわざわざ『謝ってはいけない』と教えるのは、あなたがご自分の身の丈をよく理解していらっしゃるからです」

「それって褒めてるの? けなしてるの?」

「褒めていますよ。そう聞こえませんか?」

「そう、ありがとう……」

 どことなく釈然としないが、褒め言葉なら素直に受け取るべきだろう。

「ハーレイ皇子が『その人』に謝るべきなのか否か、ユーゴー皇族としての振る舞いについては私から申し上げられることはありませんが、人としての振る舞いなら、あなたはもうお分かりのはずです。お心のままになさるのがよいでしょう」

 アテュイスは言葉を切ってお茶をごくりと飲んだ。彼の細い首で喉仏が上下するのを見て、ハーレイは妙に胸を打たれた。

 ――この人も、確かに同じ人間なんだな。アテュイスだけじゃなくて、サナミアも、ライサンダーもだ。たとえ身分が違っても、相手を「尊重する」ことはできるんだ。

「……うん、ありがとう、アテュイス」

 その後、寝室に帰ったハーレイは自分の首を撫でてみた。まだ喉仏が飛び出てくる兆しはなかった。

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