第二章 神に選ばれざる子たち・3
***
翌朝、ハーレイはいつものように召使が起こしてくれるのを当てにして、二度寝のまどろみを楽しんでいた。
夜中にアテュイスのところに行ったせいで、眠くて仕方ない。ライサンダーの鞭打ちに遭わない程度に、ぎりぎりまで粘っているつもりだった。
ところが。
「ハーレイ、朝だよ、起きて」
いつもとは別の声が呼びかける。
優しい声だが、男性の声だから召使の女たちではない。寝ぼけ頭のハーレイは、この第一声には甘えていいと判断した。
「おいハーレイ、いつまで寝てんだよ」
ところが続く第二声、さっきとは別の、太くて低いがさつな声が轟く。
声だけではない、乱暴に掛け布団を剥がされたのだ。ハーレイの眠気は、寝床のぬくもりとともに一瞬にして吹き飛んだ。
「に、兄さん……?」
第一声の主は「おはよう」と、第二声の主は「ばかやろう」とそれぞれ答えた。
優しくハーレイを起こしてくれようとした第一声の主は、第二皇子のクロード・ベネディクス・メイナード。今年二十歳になる、ほっそりした栗毛の青年だ。
対して第二声の主は、炎のごとく逆巻く赤毛、太く吊り上がった眉毛の下でぎらぎら光る琥珀色の瞳、筋肉隆々のたくましい身体。
彼こそが皇太子、第一皇子ダンバー・サミュエス・メイナード、二十二歳。現在帝位継承第一位にある人物である。
ハーレイは年の離れた兄たちのことを、ごく私的な場所では「兄上」ではなく「兄さん」と呼んでいた。
「忘れたのかよ。今日は礼拝に行く日だろうが」
すっかり忘れていた。ダンバーに怒鳴られ、ハーレイは慌てて飛び起きる。ふたりの兄は、黒地にきらびやかな錦繍が施された礼服に身を包んですでに準備万端だ。
代々皇帝の息子たちは月に二回、国教であるユーゴー正教の総本山、オルファシウス教会の早朝礼拝に行くことになっている。政務で多忙な皇帝の
「早く着替えて。僕も手伝うから」
面倒見がよい次兄クロードは、ハーレイの腕を上着の袖に通してやり、ボタンを止める手伝いもしてくれる。
一方で長兄ダンバーはというと、
「まったく、お前ももう十歳なんだから、いい加減しっかりしろよな」
などと腕組みをしてふんぞり返っているばかりだ。
ハーレイがどちらの兄が好きで、どちらの兄が苦手なのかは言うまでもあるまい。
ともかく、ハーレイはクロードのおかげで素早く支度をすませ、三兄弟は早朝礼拝に向かう馬車を待たせることなく乗り込むことができた。
大きな黒塗りの馬車は二頭立てで、前後に二人ずつ徒歩の護衛がつく。ライサンダーもその中にいた。
彼と目が合ったとき、ハーレイは昨晩アテュイスがくれた言葉を思い出す。
「お心のままに」。
ハーレイの選択は決まっていたが、この場ではその余裕がない。ダンバーに馬車に押し込まれてしまい、おはようと挨拶を交わすのが精一杯だった。礼拝の日はライサンダーの個人授業も休みになるから、彼にちゃんと謝罪するのは明日までお預けだ。
馬車は城門を出て、帝都ミジェの大通りを南へ向かって悠々と進む。
通りを横断しようとしていた若い女が馬車に道を譲る。女は井戸水をいっぱいに汲んだ桶を抱えていた。
ハーレイは女の細腕がぶるぶると震えているのを見た。彼女のために、馬車が足を速めてやることはない。庶民が皇族のために道を開けるのは当然のことで、邪魔をするならその場で斬殺してもよいのだ。
――僕らの礼拝と、あの人の水汲みと、どっちが大切な用事なのかな。
ぼんやりと考えていると、「どうしたの」とクロードに心配される。
答えるより先に、「どうせまだ寝ぼけてんだろ」とダンバーになじられた。ハーレイはえへへと苦笑を浮かべて長兄の言を認めた。心に浮かんだ疑問を兄たちに尋ねるわけにはいかない。神に対してあまりにも不敬だ。
名だたるユーゴー貴族の邸宅が並ぶ第一市街、庶民の住宅がひしめく第二市街を抜けると、中央に初代皇帝にしてメイナード家の祖、ハルバード一世の巨像が建つ緑豊かな南広場に出る。その先がオルファシウス教会だ。
八つの尖塔と大聖堂を持つ白亜の教会を背に、ファークロウ城と北の市街地を向いて立つ建国帝像は、この帝国のあり方そのものである。神の威光によって、皇帝は代々メイナード家の男子から選ばれ、人民を支配するのだ。ハーレイもまた、その血を引いている。
教会の威容に、幼いハーレイはまだ慣れない。大聖堂へと続く長い廊下には、大勢の僧尼が皇族三兄弟の訪れを待ち受けていた。月に二回の礼拝は、彼らにとっても特別なのだ。三兄弟が進むと、彼らもその後をついて歩む。
ハーレイはこの時間が好きではなかった。大聖堂の最前列に用意された席に着くまで、歩調を乱さないように、真剣な顔を取り繕って歩かなければならない。
建国よりも前に完成した大聖堂はかなり老朽化が進んでいて、たびたび修復作業が行われている。かつては色とりどりのステンドグラスが嵌められていた窓は先日の嵐で激しく損傷し、いまは一時的に色のないものに取り替えられている。
朝の陽光はそのまま堂内へと透過し、白い天井に壁にと反射して目も眩むほどだ。ハーレイは眩しいのも好きではない。
白髪の司教が祭壇に立ち、長々しく古めかしい(しかもハーレイにとっては意味不明の)祈りの言葉を捧げている時間は、ひたすら睡魔との闘いだ。
本来はともに祈りを捧げるべきなのだろう。隣で兄上たちは神妙な面持ちで瞼を閉じているから、とりあえずハーレイも真似することにした。
まずは自分が皇帝になりませんように。そして、きちんとライサンダーに謝れるようお力をお貸しください、とも。
――アテュイスのことも、お願いしてもいいかな。
ユーゴーの神様は、あの美しい異国の王様にもお恵みを与えてくださるだろうか。――きっとそうに違いない、とハーレイは信じた。確かユーゴー正教の教典には、「神は平等に人の子を愛する」と書いてあったはずだ。アテュイスも僕たちと同じ人間なのだから、神に愛されてしかるべきだ。
「ハーレイ、今日はずいぶん真剣にお祈りしていたね。何を神様にお願いしたの?」
礼拝が終わった後、帰りの馬車でクロードに尋ねられたとき、ハーレイは少しだけ嘘をついた。
「兄さんたちがずっと元気でいますように、ってお願いしたよ」
これは本当だ。ハーレイが皇帝にならないために、ふたりには元気でいてもらわなければならない。
「それだけ?」
「それだけだよ」
この答えが嘘だ。
「それだけであのクソ長ったらしい祈りの時間が終わるわけねえだろうが。本当は居眠りしてたんだろ? お前は本当に寝ぼすけだからな」
ダンバーが下品な言葉で混ぜ返してクロードが苦笑する。
ハーレイはむくれてみせたが、それ以上深く追及されなくて助かった。
――これからもずっと、アテュイスがお城で幸せに暮らせますように。そして、僕とずっと仲良しでいてくれますように。
大聖堂を後にしても、ハーレイは胸の中で何度も繰り返す。
それは実に子どもらしく、無邪気で残酷な祈りだった。
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