第二章 神に選ばれざる子たち・4

***


 そしてまた朝が来た。いつもと同じように見えて少しだけ違うのは、ハーレイが召使たちの力を借りることなくベッドから起きて、ひとりで着替えを済ませてライサンダーを待ち受けていたことだ。

 早起きをしようと思ったわけではなかった。気が張っていたせいで、早く目が覚めたうえにそのまま目が冴えて二度寝もできなかったのだ。

 昨夜眠る前に、ハーレイは何と言って謝るべきかとぐるぐる考えた。

 素直に「こないだはごめんね」か、皇族の威厳を保って「先日の言は取り消す」と鷹揚に言うべきか。

 けれどもどんな言葉を選んでも、ライサンダーの反応がうまく想像できない。決めかねているうちにいつの間にか眠りに落ちていたらしいが、ハーレイにはよく眠れた自覚はなかった。

 ――こうなったら、とにかく心に思い浮かぶままに、ライサンダーに謝るしかない。

 朝の鐘と同時に、ライサンダーは勉強部屋のドアをノックする。ハーレイはごくりと唾を飲み込んだ。

「入るがよい」

 裏返りそうな声を必死でこらえる。心臓がどきどき鳴った。これから、このユーゴー帝国の第三皇子は、生まれて初めて皇族以外の他人に謝罪するのだ。

「おはようございます、殿……」

「ごめんなさい!」

 ライサンダーがいつもの挨拶を終えるのも待たず、ハーレイは反射的に腰を折って頭を下げていた。

 謝り方がこれで正しいのかは分からない。高価な皿を割った召使が、執事に叱られているときにする格好を真似てみたつもりだ。

「殿下、お顔をお上げください」

 ライサンダーが駆け寄り、跪いてハーレイを見上げる。

「なぜこのようなことをなさるのです」

 その声は驚きと焦りでいつになく張り詰めていた。その反応を見るに、彼のほうには皇子に謝罪されるような覚えは全くないようだ。

「こないだ、君にひどいことを言ったから」

 そこまで言っても、ライサンダーはまだ思い当たらない様子だ。

 ハーレイが「君のお母さんのこと」と付け足すと、彼は「ああ」とようやく得心がいった顔をしたが、驚きはむしろ深まったようだ。

「殿下にお詫びいただくようなことはございません。どうかお忘れください」

 皇子がまだ頭を下げているにもかかわらず、ライサンダーは腰を浮かせた。一見無礼な態度に見えるが、彼にはほかにやりようがないのだ。庶民上がりの教育係が皇族に頭を下げさせるなど、あってはならないことである。だから謝罪を受け入れることもできない。この会話をなかったことにして、授業を始めるほかないのである。

 ハーレイはその手を掴んで引き止めた。

「そんなのだめだよ。僕は間違ったことをしたんだ。ちゃんと謝らなくちゃ」

 ライサンダーの手は温かかったが、分厚くてがさがさしていた。剣術訓練のせいで多少たこができているだけのハーレイの小さな手とは違う手で、しかも同じ「手」でもあった。皇族にはない苦労を重ねてきたことが、身分が高くないことが、相手を侮っていい理由にはならないはずだ。

「殿下、お教えしたはずです。あなたは私のような、下々の者にお心を煩わせるお立場にはないと」

「それは皇帝になる人のことでしょ? 僕はならないよ」

「いいえ、殿下が皇子である限り、その可能性は……」

「だって僕は、神様に選ばれてなんかいないもん。君と同じだ」

 はっきりと言い切ったハーレイの言葉は、ライサンダーを驚かせ、反論を封じた。

「僕は兄上たちみたいに優秀じゃないし、行儀よくもできないし、帝位に興味もない。だいたい三男っていう時点で全然『選ばれてない』よ。君にひどいことを言って、『ごめんね』も言わずに偉そうにしてる権利なんて、初めから持ってなかったんだ。……だから」

 ハーレイが小さな手に力を込めると、ライサンダーは再び床に膝をついた。

「ライサンダー、本当にごめんなさい。僕が君に言った失礼な発言は全部取り消します。……ううん、言ってしまったことは消えないけど、とても反省しています。どうか許してください」

 言葉は流れるように出た。ずっと言いたかったことをほとんど言えたから、胸のつかえが取れた気分だ。しかしライサンダーの表情から困惑の色が消えないのを見ると、また不安になる。

「……何か、言ってよ」

 我慢できずに返事を促す。

 ライサンダーはしばしためらった後、ずれてもいない眼鏡を直し、視線を落としたままでこう言った。

「分かりました。殿下の謝罪をお受けいたします」

 ハーレイがほっとしたのもつかの間、ライサンダーは「ですが」と付け加え、顔を上げて黒い瞳でまっすぐに見つめ返してきた。

「殿下は、私と同じではありません。殿下は神に選ばれしメイナード家の皇子で、私はただの教育係です。誰が殿下にあのようなことを吹き込んだのかは存じませんが、全くの事実無根です。今後は一切この話はいたしません。よろしいですね」

 嘘だ、とハーレイには直感的に分かった。

 ライサンダーはときどき嘘をつく。たとえば、裏庭には毒草がいっぱいだから危険だと言っていたくせに、本当は美しい夜の王が住まう白い花園だったように。あの召使が言っていたことこそが真実なのだ。

「……分かったよ。僕ももう、この話はしない」

 それでもライサンダーに従ったのは、彼の目があまりにも真剣で、しかもどことなく哀れだったからだ。

 ハーレイはまだ子どもで世間知らずだが、彼が己の出自のせいでどれだけ嫌な思いをしてきたのか、思いやれるだけの賢明さは持ち合わせていた。あの召使たちがそうだったように、あれこれと無遠慮に言い立てる人は少なくないのだろう。ライサンダーが望まないなら、この話はこれで終わりにすべきだ。

「結構です。それでは、授業を始めましょう」

 ライサンダーはすっと立ち上がり、その後はいつも通りの彼に戻った。

 ――兄さん、って呼んでみたかったな。

 ハーレイの胸の中に、ひとつだけ言えなかった言葉が残った。

 

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