空のひれ

朝吹

空のひれ

 吊り橋の上から下を覗くと、澄んだ水の中を泳ぐ魚のひれまではっきり見えた。山と海と川に挟まれた町だった。

 平安時代からのものだというお寺の銀杏の樹。河べりの桜並木は春には薄桃色の天蓋になった。庭の土の上にござを敷いて、姉とままごとをした。

「行ってきます」

 その朝、ひとつ年上の姉と一緒に作業場に向かった。夏休みなどなく、中学生は戦争に行った男の人の穴埋めに工場や市の中心部で労働をしていた。

「飛行場でも造るんかね」

 建物疎開の跡地が増えていた。広々とした更地が眼に入るたびに、姉はどこか期待をこめた声で云った。

「戦闘機がここに通るようになったら、兄さんにも逢えるかも知れんよ」

 飛行服を着た兄の写真はわが家の宝物だった。機体の風防に手をかけて笑っている。機密ということで詳しくは知らされていなかったが、どうやら兄は、茨城か九州の何処かにいるらしい。

「あの子はそそっかしいけん、空を飛んでいても降りるのと昇るのを間違えて墜落したりせんかね」

 母だけは嘆息していたが、わたしと姉は誇らしい想いで兄のその写真に「おはよう兄さん」「お休み兄さん」と挨拶していた。

 姉の通う学校の作業場は対岸だった。橋のたもとで「頑張りんさいよ」と声をかけあって姉と別れた。

 作業開始までまだ少しあった。朝からの暑さを恨みながら、わたしは級友と共に荷物置き場にしている樹の下に座っていた。傍らを流れる川には銀の鱗のような静かな波がたっていた。数名が青空の一点を指して「敵キヲ発見セリ」と手旗信号を振る真似をして笑っている。木陰からわたしも空を仰いだ。本当だ、銀色の米軍機が飛んでいる。いつもの偵察だ。東京の空襲から焼け出されてきた転校生がしんみりと、「憎らしい。ここから撃ち落とせたらいいのに」と云ったところで、わたしの記憶は途切れている。

 

 青空に魚がとんでいる。ひれを広げて、白い雲の島をぬって高いところの海を悠々と飛んでいく。日の丸は、日の丸はある? ここからは見えない。

 あれは兄さんだ。兄さんの戦闘機だ。

 起き上がってわたしは手を振った。隣りの少年も火傷でふくらんだ顔に精一杯の笑みを浮かべて、「来てくれたね」と安心したように呟いた。それきり少年は静かになった。

 気がつけば地獄を歩いていた。通りがかった半壊の家の台所に水道の蛇口が見えた。駈け寄ってみると、ほそぼそと水が落ちていた。タイルを敷き詰めた流しに顔を突っ込み犬のように水を舐めた。ふと気が付くとわたしは誰かの身体の上に立っていた。踏みつけていることに気が付いて慌てて退いたが、その人は見知らぬ家の壊れた台所に倒れてもう死んでいた。

 家に帰らなければ。

 そう想うのだが、何もかもが消え失せていて、ここが何処なのか分からなかった。町中が大火事だ。わたしは級友たちと川べりにいた。あの川に戻ろう。そうすれば。

 わたしはまた気を失って倒れていたようだ。周囲はもう夜だった。あちこちに鮮やかな彼岸花が咲いている。華と想ったものは焔だった。うつろうものは人の影だ。夜中なのに大勢の人影が右往左往している。誰かを探している。

「春ちゃん。雪ちゃん」

 姉さんは春生まれだから春子。わたしは冬生まれだから雪子。あれはわたしたちの名。

「春子ちゃん。雪子ちゃん」

「ここです」

 わたしは声を上げた。大声のつもりだったが、ひゅうという掠れた笛の音のようになった。瓦礫の中からわたしを見つけた相手の方が愕いていた。

「雪ちゃん。雪子ちゃんかい」

「紘一さん」

 紘一さんは姉の春子の婚約者だ。中学生に婚約者がいるのはおかしいと想うだろうが、紘一さんは兄の同級生で、兄が紘一さんの家に遊びに行った折のお礼にと母から持たされた牡丹餅を届けに行った春子姉さんを見た紘一さんのお母さまが姉をいたく気に入り、「器量よしでしっかりしたお嬢さん。うちの紘一の嫁にぜひ」と三年後の結婚を取り付けていたのだ。

 紘一さんの家は教授だった父親を先年に亡くしており、紘一さんの姉は軍医に嫁いで神戸で暮らしていた。わが家も父が早くに死んでいた。実業家の祖父からの仕送りがあったので不自由はなかったが、母としては、片親の負い目も気にしなくてよい家に望まれて嫁に行けるのならばこれに勝るものなしと、二つ返事で申し込みを受けたのだ。

「君たちの家に行ったらどちらもまだ帰宅していないというから、探していたんだ」

 紘一さんはわたしを背負うつもりで身を屈めたが、わたしの腕は肘までずるむけで、とてもおぶさることは出来なかった。歩けます、とわたしは云った。はやく家に帰りたかった。家に帰ったらお母さんに思いっきり甘えるのだ。「お母さん」と抱きついて、思い切り母の膝で泣くのだ。

 わたしはいつの間にか知らない人の下駄を履いていた。どうしてそんなことになったのかさっぱり分からない。盗んだのだろうか。誰かのものをうっかり間違えて履いたのだろうか。はだしであの灼熱の焼け跡を歩けたとは想えない。無我夢中でどうにかしてしまったのだろう。当日の記憶は途切れ途切れだ。だから青空に確かに見たと想った兄さんの戦闘機も、近くにいた少年の記憶も、きっとわたしの幻覚なのだろう。後で知ったが、兄さんはその頃にはもう特攻隊として異国の海に零式と共に散っていた。

 郊外に疎開していたわたしの家は分度器でいうと三度くらい傾いていた。吹き抜けた爆風に畳がはね上がり、障子も外れて庭に飛んでいたが、まだ建っていた。

 朝晩が冷え込むようになった秋の中頃、紘一さんが死んだ。

 爆心地近くを姉を探して何日も歩いたせいだということは、ずっと後になって分かった。わたしは吐血して下血して髪の毛を失いずっと臥せっていた。その頃は爆弾からまき散らされた猛毒でみんな血を吐いて死ぬのだとわたしたちは信じていた。だから紘一さんが死んだことを知らされてもそんなに哀しくはなかった。ただ、もしあの夜、わたしを家に送り届けずに紘一さんが姉を探し続けていたら、姉はその夜のあいだに見つかったかもしれない。春子姉さんは最期の時を紘一さんと一緒に過ごせたかもしれない。そのことを、わたしはずっと後悔している。



 わたしは雪子の姉の春子だ。空から太陽が落ちてきたと想って眼を閉じた。それから後のことは他の文献にいくらでも詳しく書かれているから省く。何を読んでもだいたい一緒だろう。

 吹き飛ばされてわたしは川に落ちていた。落ちたのか、自分で飛び込んだのかは分からないが、とにかく川の中だった。両岸が焔を噴き出して燃え上がっていた。落ちてきた汚れや死体で川は真っ黒で、いつもは冷たい水がものすごく熱かった。火災旋風が巻き起こり、川に向かって竜巻が走ってきた。水面から顔を出している人々が叫び声を上げた。何人か吸い上げられて天高く投げられたのを見た。

 お母さん。雪子。

 次に眼がさめたのは夜だった。沢山の遺体に引っかかるようにしてまだ川の中にいた。一晩中わたしは夜が終わることを祈っていた。朝になれ、はやく朝になれ。

「起きんさい。ごはん出来てるよ」

 この夢から覚めたら、いつもの母の声がするはずだ。わたしよりも早起きな雪子が鏡台に向かって髪を編みながら、蚊帳ごしに「春子姉さん、寝坊すけさん」とわたしを揶揄うだろう。

「春ちゃん。雪ちゃん」

 紘一さんだ。火事の焔で町中がランプの中に閉じ込められて焙られているようだ。欄干の倒れた石橋の上を紘一さんが足早に過ぎていく。

「紘一さん」

 彼を呼んだが、硝子に阻まれるようにして気が付いてはくれなかった。多分わたしは助からない。紘一さんのお嫁さんになる日のために和裁や煮つけやミシンをせっかく覚えたのに残念です。

 水底は静寂だった。一面が青かった。こんなきれいな青がこの世にあるのなら、ここはもう浄土だろう。空を飛ぶ魚のひれがわたしの身体をかすめて過ぎる。あれは翼だ。

「零式戦闘機というんだよ」

 軍需工場に勤めている紘一さんが教えてくれた。兄が乗っている機だという。緑の機体に鮮血の日の丸。兄が取り寄せていた少年雑誌にもいろんな飛行機が載っていた。本から出てきてわたしたちを連れて行って。海に乙姫さまがいるのなら、空には織姫さまがいるはずだ。雲の彼方のお伽の国に。

「春ちゃん。春子」

 なんだ。

 紘一さんもこっちに来たんだ。

 ちょっと待った気もするけれど、そんなに長い間でもなかった。紘一さん、ここには兄もいるのよ。飛行帽をかぶって、大勢の予科練の皆さんと一緒にいたわ。いつものあの笑顔で、好物のようかんを頬張りながら戦闘機に凭れて何か冗談を云っていた。紘一さんとわたしが婚約したことを知ったら兄はとても愕くでしょうね。兄に頼んであの飛行機に乗せてもらいましょう。地上は酷いことになったけれど、空だけはきれいなままだから。眼を閉じたらいつもそこにあった川のにおいがする。夏には蛍がでるの。わたしが生まれた日は桜が咲いていて、妹の雪子が生まれた日は雪が降っていた。季節に薫る夾竹桃と金木犀の樹。広島城のお堀は大きな蓮で埋まっていて、小さな雪子がなぜか蓮の実を泣いて怖がった。秋になると京橋川沿いの原っぱで兄とわたしと雪子の三人でとんぼを捕まえたのよ。わたしたちの空はいつも青かった。

 青い、青い、色のまま。



 延命などしなくていいと云ったのに、尊厳死はまだこの国では認められていないという。枯れ木のような身体中に繋がれた管がわずらわしい。わたしは被爆者だから死んだら検体して下さいねと医師に伝えたけれど、俳優のようにいい顔をして外車を乗り回しているあの若い医者は意味を理解したかどうか。

 火葬すると、わたしたちの骨ははしで拾えないほど粉々になるという。どうせ粉になるのなら、どうか、わたしを瀬戸内の海に流して欲しい。ふるさとの川に棄てて欲しい。

「雪子さん、聴こえますか。雪子さん」

 聴こえてるわ、うるさい。女の看護師の声はなぜそんなにかん高いのだろう。今からこの世にお別れをしようとしている時に邪魔でしかない。

 寂しくも、怖くもない。

 わたしはとっくの昔に一度死んだのだ。

 級友たちの九割がその年の冬までに死んでいた。そんな学校がいくつもあった。学徒勤労に動員された少年少女の六千人以上が消えたのだ。とても信じられないだろうけれど、本当にあったことなのだ。

 あの子たちはあまりにも早くに死んでしまった。可哀そうでならない。

 中学生だったけれど栄養不足でみんな小学校四年生くらいに見えたよね。幼い笑顔ばかりを想い出す。みんなにも見せてあげたい。あれからわたしはグァムにも行ったし、新幹線にも乗った。ラジオの代わりに今は誰の家にもテレビがあって、映画は家の中で好きな時間に観るものになっているのよ。

 雪子さん、雪子さん。

 必ずあなたの身体の一部は、ぼくが責任をもってこっそり遺体から取って、あの川に流します。髪か爪か何かを。

 なに。なにを云ってるのこの人は。

「雪子さん。ぼくは被ばく四世です」

 俳優みたいないい顔をした若い医師だった。臨終に立ち会うために病室にやって来た彼が思いがけないことを云っていた。四世。愕いた、もうそんなに時が経ったのか。

 若い医師はわたしの耳もとに口を寄せて、小さな声でなおも云った。

 ぼくは被ばく四世です。聴こえますか、雪子さん。

「ひいお婆ちゃんが入市被ばくしています。曾祖母は家族を探しに行って被ばくしました。祖父が二世、母が三世、ぼくが四世ということになります」

 外から家族を探しに来て被ばく。そんな人はあの当時、いっぱいいた。

「曾祖母は、母親と弟を失ったそうです。弟の名は紘一といって、紘一には春子という婚約者がいました。その春子さんの妹の名が雪子。あなたではないのかと想うのです」

 あらあら。あなた、なぜそれをもっと早くに云わないの。そういえば旧姓や昔のことを看護師がやたらと訊いてきたっけ。

 瞼を開けたかったが、そんな力はもうわたしには残されていなかった。

「まさかと想いましたが、少し調べたらかなり可能性が高い。わが家にはひいお婆ちゃんが書き遺した自費出版の本があるのです。そこに書かれていたことをぼくは憶えていました。曾祖母は弟の紘一を軍医の夫がいる神戸に引き取ってその死を看取ったのです。紘一さんは許嫁だった春子さんの行方と、道端で見つけた雪子さんの火傷の容態を最期まで心配していたそうです。これもご縁でしょう。職務上も法律上も犯罪ですが、雪子さんのご遺体の一部をこっそりぼくが」

 若い医師の言葉を聴きながら穏やかにわたしは病院で死んだ。


 青い空にひれを広げて魚がとんでいる。澄んだ青い水の中だ。吊り橋の上から兄が魚に向けて小石を投げている。兄さんやめんさい、と姉が叱る。揺れる吊り橋が怖くてわたしは渡れない。

 でも踏み出してみよう。向こう岸には桜並木があり、久遠の空があり、毛利の殿さまが建城したお城のまわりには美しい蓮の花が咲いている。

 懐かしい町をわたしは歩く。この中州は繁華街。家族で洋食を食べたり映画を観に行った。このパーラーでソーダ水を呑んだ。引き潮の川原で蟹を見つけた。あれは女学校の門。椿の木の傍から「雪ちゃん、おはよう」と級友が手招いている。今日のお弁当は姉と二人で詰めた。空にはひれを伸ばした機影。過ぎ去っていく。夏の青空だ。いつまでも青いままの空だ。

「雪チャン ヲ 発見セリ」

 懐かしい人たちがわたしを呼んでいる。


[了]

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