第18話
事務所移籍についての話し合いは数日に及んだ。
マネージャーの掛巣ほか事務所のスタッフ数名も交え、何度会議室で意見を交わしただろう。柘榴から勧誘された経緯を始め、霹靂神の意思はどうなのか、彼の提案に身を委ねてもいいのか、ありとあらゆる議論がなされた。
「やっぱ上が引っかかってんのは『千両柘榴の経験の浅さ』ってとこか」
自宅のリビングでくつろぎながら、輝恭は冷えた緑茶で唇を濡らして机に肘をついた。近くの部屋がベランダに取り付けたのか、風鈴の涼やかな音色が窓越しであっても響いてくる。
「そうだね」と菊司がどこか疲れた表情で同意した。輝恭の部屋に来るまでの間、八月の猛暑に晒されてすっかり体力を奪われたらしい。疲労回復のために提供したアイスも、ものの数秒で食べきっていた。
「片目野郎の芸歴って何年だ?」
「ソロデビューしたのが十八歳の時みたい。で、今が二十一歳だから単純な計算で三年?」
「まあそりゃ心配になる浅さか」
対して霹靂神は今年の十月でデビューから丸七年を迎える。柘榴との差は圧倒的だ。
「けどカレンデュラには初雪さんがいるでしょ。脱退してた間のブランクはあるかもだけど、芸歴は僕らと一緒だから」
「片目野郎の話を信じるなら、迷う間もなくあいつについていく決断したっぽいし。支えてやるだけの覚悟はしてんだろ」
あちらも事務所と議論を重ねていることだろう。そのうち情報がどこからか漏れて報道される日も近いかも知れない。
――それまでにさっさと答えを出した方が良いはずだ。
カレンデュラの独立がどこまで騒ぎになるか想像出来ないけれど、ファンたちの驚愕は必至だ。さらに霹靂神に声をかけたことまで明らかになれば、より騒動が大きくなる予感がする。
「輝恭くんはどうしたい?」
会議中に何度も耳にした言葉を、菊司が再び問うてくる。
「そういうお前はどうなんだよ」
「質問に質問で返すのはずるくない? ……うーん、僕は正直なところ不安が勝るよ。環境が変わっちゃうし、今のままでも困ってないもん。事務所を移ってもこれまで通り仕事をさせてくれるところばかりじゃないかなーみたいな」
純粋に霹靂神の実力を見こんで仕事を寄こしてくれる取引先だけではない。
輝恭たちが現在所属する事務所はそれなりに名前が売れている。つまり「ここのタレントとこんな仕事をしたんです」と話をすれば、多少なりとも賞賛が得られる程度には大手なのだ。
柘榴の事務所に移籍したとなれば、大手事務所というネームバリューが無くなる。輝恭としては正直そんなものに興味はないが、取引先までそうとは限らない。現在受けている仕事が一つ、二つとキャンセルされる可能性も捨てきれなかった。
けれど。
「俺はそれでもいいと思ってるけどな」
湯呑みに残っていた緑茶を喉に流しこみ、輝恭は尊大に腕を組んだ。どういうこと、と菊司の眼差しが問いかける。
「仮に仕事を切られたとしても今まで通り――じゃねえ、今まで以上に活躍して見返してやりゃ良い。『俺らとの契約を打ち切ったこと後悔させてやる』ってな」
「……ってことは」
「俺は移籍にそこそこ乗り気だぞ」
意外そうに菊司が目をまたたく。輝恭は柘榴から受け取った構想などを頭の中で反芻しつつ、くくっと低く笑って口の端を歪めた。
「お前が言ったみてえに、環境は確実に変わる。そりゃ不安だろうが、それも楽しめばいいかと思ってんだよ」
「不安なのに楽しむの? そんなこと出来る?」
「どんな荒波も乗りこなせりゃ楽しくなるだろ? サーフィンと一緒だ」
「……輝恭くんってサーフィンしたことあったっけ」
「無え」
「無いのに例えたの?」
「うるせえな。それ以外に良いのが思い浮かばなかったんだよ」
輝恭が不貞腐れたように呟くと、菊司が小さく吹き出した。笑いは次第に大きくなり、くすくすと肩を揺らしている。
「でもなんとなく分かるかも。輝恭くんは困難な時ほど燃えるタイプなの知ってるし、乗り気でもおかしくないや」
「けど菊がどうしても嫌だっつーなら考え直すぞ」
リーダーは輝恭だけれど、全ての決定権があるわけではない。納得がいくまで意見を出し合って、目指す場所を明確にして進んできたからこそ今の霹靂神がある。輝恭の独断で成り立つユニットではないのだ。
相棒が不安がる気持ちはよく分かる。だから強引に移籍を決定したりしない。
輝恭は彼の頭に手を伸ばし、柔らかな髪をそっと撫でた。
「菊と一緒に歌えて、踊れて、それで楽しめるってのが俺にとって一番大事だ。そこがどんな場所であっても、な」
「……うん。僕も」
花が綻ぶような笑みを浮かべて、菊司がゆっくりとうなずいた。
「輝恭くんが楽しそうなら僕も楽しいし、その時間を共有できるのが一番幸せ」
「無理して言ってんじゃねえよな」
「そんなことないよ。本心。目見たら分かるでしょ?」
「前髪で隠れてて見えねえっつの」
掌で前髪を押しのけると、吊り気味の目元が露わになる。暗青色の瞳は眩しそうにしながらも輝恭を真っすぐに見つめ、先ほどの言葉は嘘ではないことを伝えていた。
不意に菊司が身を乗り出し、輝恭の頬を両手で包みこんで引き寄せてきた。
――キスでもすんのか。
身構えたのは一瞬で、すぐに体から力を抜いて目を閉じる。しかし待てども思っていた感触が訪れない。訝しさに目を開けると、菊司が間近で意地悪く笑っていた。
「キスしてほしい?」
「あぁ?」
ひくっと口の端が引きつった。以前の菊司ならそれだけで怯んだはずなのに、いつの間に慣れたのか動じていない。
腹いせに噛みつくような口づけを送ってやる。まさか反撃されると思わなかったのか、菊司は声をのんでされるがままになっていた。ひとしきり唇を貪ってから解放してやれば、彼の頬がリンゴのごとく赤く染まったのを見て仕返しの成功を悟る。
「とりあえず、片目野郎の提案に乗っかるって方向でいいな」
「う、うん。大丈夫」
「意思の固さが伝わりゃあ上も納得するだろ。つーか納得させる。後ろ向きなことごちゃごちゃ言う奴もいるだろうが、全部ねじ伏せてやる」
「そう、だね」
「んじゃ掛巣に――」
スマホを取り出したところで、菊司に手首を掴まれた。次いでいつも歯形を刻まれる箇所を撫でられ、なにをするつもりか察しがつく。無言のまま注がれる視線は熱く、思わず呆れてしまった。
「真っ昼間だぞ」
「分かってるけど」
「けど?」
「……駄目?」
「今はな」
手首を掴む指に唇を掠めさせ、輝恭は強引に立ち上がった。
「事務所行って掛巣に方針伝えるのが先だ。それが終わってからなら考えてやる」
「えー」
「『えー』じゃねえ。おら、とっとと行くぞ。時間が惜しい」
菊司を引き連れて外に出ると、真夏の蒸し暑さに全身を包まれた。空調の効いた室内と違い、ものの数分で汗ばんでしまう。
だというのに菊司は控えめに輝恭の小指に自身のそこを絡めてくる。ひと目のある昼間ということもあり、手を繋ぐのは自重したようだ。
これくらいなら許してやってもいいか。輝恭は振り払ったりしないまま、灼熱のアスファルトを踏みしめて空を仰いだ。
まるで輝恭たちの決断を祝福するように、雲一つない青空はどこまでも澄み渡っていた。
終
靴と雷―電光一閃― 小野寺かける @kake_hika
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