スイッチ

仲町鹿乃子

                       スイッチ             

 陸上部同窓会のメールを、わたしはコーヒー・チェーン店の列に並びながら読んだ。

 会社の昼休みだった。

 レジを待つ列は、わたし同様に近隣の会社に勤める女性が多い。

 おそらくこの半数以上が、この時期にしか飲めない桜フレーバーのドリンクが目当てなのだ。

 列は長く、わたしの順番までまだ少し時間がかかりそう。

 どうしようかと迷いつつも、サブバックから出したスケジュール帳を開くと、その日はブランク。

 でも、これは予定があるなしの問題ではなかったなと思い、すぐにしまう。

 そして、いつものようにチクリと胸に痛みを感じつつ『ごめんね。欠席します。みなさまによろしく』と返事をした。

 すると、一分もしないうちに幹事である友人から返信が来た。

 彼女は、わたしの役だった同窓会幹事の役を二つ返事で引き受けてくれた優しい人だ。

 そこには『藤森先生が、イケメンの旦那様似のお子さんを連れてくるのに残念だわ』とあり、そして追伸とでもいうように、間髪入れずにもう一通が届いた。

『みんな香奈に会いたいと思っている。なんなら、幹事であるわたしの特権で宗田邦彦を呼ばないことも可能』

 メールには、そんな物騒なことが書かれていた。


 カフェの入り口に視線を移す。

 一本の桜が花びらを散らす様子が、店内からも見えた。

 ひらひらと散る桜吹雪。

 その映像と同窓会のメールがスイッチとなり、わたしの頭に高校時代のある出来事が蘇った。









「やばいんじゃないの?」

「やばくても、やるのよ」

 わたしと宗田邦彦がいるのは、二年F組の教室のバルコニーだ。

 しかも、教室に入ってくる内田先生にみつからないように、窓の下にしゃがみ込んでいた。

 わたしと宗田は、一枚の大きな模造紙の左端と右端を持っていた。

 そこには「内田美紀子先生、ご結婚おめでとうございます!」と、黒だけでなく赤や黄色や緑のマジックを使い、賑やかに祝いの言葉が書かれている。

 二十九歳の内田先生は、二年F組の担任だけでなく、わたしと宗田にとっては所属する高校陸上部の顧問の先生でもあった。

 といった関係から、この大役をわたしたちが引き受けることになったのだ。

 内田先生は、銀のフレームの眼鏡に、髪型は耳の下で切り揃えたボブカット。化粧っ気もなく、いつもチャコールグレーのパンツスーツを着用している。

 授業態度や礼儀に厳しく、頭の先から爪の先まで、真面目が服を着て歩いているような人だ――と思っていたが、実は心に熱い情熱を秘めている女性でもあったのだ。

 昨日のホームルームだった。

 先生は、突然、自分の名字の変更をわたしたちに告げた。

 週末に婚姻届を出すので、来週から内田から藤森に変わると言い出したのだ。

 戸惑うわたしたちを前に、先生は自分の結婚と、そこにいたる経緯をとつとつと語り始めた。

 それによると、先生はなんと小学二年生の頃から結婚相手の男性に片想いをしていたそうだ。

 お相手は、年が一回り上の幼馴染。

 先生がその人に初めて告白をしたのは八歳。そのとき相手は二十歳……。

 年の差カップルの話はよく聞くけれど、八歳と二十歳の年齢差にはインパクトがあり、率直に言わせてもらえば「こりゃ、大変だ」と思った。

 八歳を二十歳まで引き上げれば、相手は三十二歳。

 年齢差が縮まったわけではないのに、わたしの感覚ではOKだと思えてしまうのが不思議といえば不思議だ。


 二十九年分の二十一年間。


 先生は、人生のほとんどで彼が好きだったというわけだ。

 好きな相手に追いつこうと先生は勉強に励み、勉強だけでなく体力づくりのために近所を走った。そうするうちに、走るのが楽しくなって、陸上部に入った。

 そして気が付くと、希望だった教職にもつけて、おまけに陸上部の顧問にまでなり。

 さらには、想い人である男性までゲットしていたとの話だった。


「わたしは欲しいものを手に入れるのに、二十一年かかりました。みなさんも本当に手に入れたいものがあれば、一年や二年で諦めずにとにかくしがみついて、足掻いてください」

 苦節二十一年。

 それは十六、七年間しか生きていないわたしたちの生よりも長い。

 自分の人生において「二十一年間なにかにトライし続ける」経験などないわたしたちにとり、それをし続け成し遂げた先生は、ただただ驚くべき存在だった。

 先生は結婚式を行わないと言った。

 その話を聞いた宗田が「これはお祝いしないわけにはいかないだろう」と言い出し、クラスでも話し合い。

 結果、陸上部であるわたしと宗田が、切り込み隊長としてバルコニーからのお祝いをしかける係となったのだ。


 ……二十一年間の片想いか。

 わたしは右でしゃがんでいる宗田をちらりと盗み見た。

 宗田とは陸上部が縁で仲良くなった。

 わたしも宗田も、陸上ではマイナーだといわれる中距離をやっていて、800メートルや1500メートルを走っている。

 中距離は、マラソンや駅伝などの長距離や、陸上の花形といわれる短距離と比べると認知度は低いかもしれない。

 おまけに、陸上競技の格闘技とも呼ばれ、レース中に自分がより良いポジション取りに奮闘するため、いろいろある。

 それが、嫌だと思う人もいるけれど、わたしもおそらく宗田も、結構平気なのだ。

 えぐいけど面白い。

 まぁ、そういった共通点もあり、わたしたちは仲がよかった。

 わたしたち二人が話していると「ワンコが二匹いる」と言われる。

 大型犬と小型犬だそうだ。そこに色気はない。

 わたしとしては、本当は、もっと違った意味で親しくなりたい。

 今だって、バルコニーでしゃがんでいるなんて、とんでもない状況だけれど、それでも絶賛片想い中の宗田に対してわたしは、自分の右側全部の細胞で彼を意識していた。

 そんなに好きなら目をハートマークにして彼を見上げるとか、お弁当を作ってくるとか、気持ちを態度で表せればいいと思うのに、そうはできない。

 わたしは宗田が好きなくせに、わたしの気持ちが宗田にバレるのを恐れていたのだ。

 関係を変えたいと思う反面、今の気安い関係が壊れるのが怖かった。

 臆病で怖がりのわたしは、自分の想いとは反対に、宗田を異性として意識していないかのように、ふるまっていたのだ。

 おまけにわたしは、宗田に軽口はたたけるものの、意識しすぎてまともに彼と目が合わせられなかった。結果、わたしの視線はいつも彼の制服のネクタイあたり。

 こんなんじゃホント、ダメだって思ってる。

 だって、宗田はそこそこ人気がある。

 顔も整っているし、頭だって良い。

 リーダーシップはありつつも、押しつけがましくなく柔らかな雰囲気がある。

 宗田が言うなら聞いてやるか、といった空気があるのだ。

 というのも、彼の言動に裏表がなく、人に対する思いやりもあるからだ。

 損な役回りも進んで引き受けて、それでも笑っている。

 みんな、彼が好きだ。

 彼の朗らかさは、まるで太陽のようでもあった。

 眩しくて、まともに見ることはできないけど、わたしの心はいつも宗田を見ていた。


「あのな、朝倉」

 ふいに宗田の真剣な声がきた。

「な……にかな」

 なに? なにを言い出すの?

 すると宗田は左手を自分の首筋にあてた。

「……うん。あのさ」

 宗田は視線をわたしに向けると、すぐに上を向いた。

「どうしたの? なにか、相談ごと?」

 相談、聞きたい! でも、こんな時間のないときに言い出すなんて!

「こんなことを、女子に言っていいものなのか迷うけど」

「どんどん言って」

「スカートのチャックが開いてる」

「おわっ!!」 

 びっくりして立ち上がったとき、教室に入ってきた内田先生とばっちり目が合った。

 穏やかな先生の表情が、みるみる変わっていく。

「こらっ! 朝倉さん! 授業が始まるよ。いつまでも遊んでないの」

「すみません、あの、これには深い事情が」

 焦りつつスカートのチャックをあげると、どんどん先生がバルコニーに近づいてくるのが見えた。

 バレる! そう思ったそのタイミングで、宗田がさっと立ち上がった。

「先生! おめでとう!」

 一人で模造紙を広げて掲げる。

 と次の瞬間、クラス全員が立ち上がり、手に持っていた紙吹雪をさっと宙に投げ始めた。


 色とりどりの紙吹雪が、チラチラと先生の前で舞い落ちる。

 その光景は、なんともいえず素朴であたたかい。


 驚いたように動きを止めた先生の後ろ姿を見ながら、わたしは思わず隣に立つ宗田を見上げた。

 宗田も、模造紙を掲げながらわたしを見下ろしてきた。

 宗田が大きな口で、にっと笑う。

「……わたし、このクラスでよかったな」

「俺も。っていうか、朝倉がいてくれてよかった」


 感動の後は、掃き掃除が待っていたんだけれど。

 一時間目は、内田先生の授業だったから。


 そんなことついうっかり先生の前で話したら

「提案は宗田くんで、企画実行は朝倉さんか」

 先生が顎を手に、考えるように上を向いた。

「あなたたち二人は、自分たちの代の陸上部の同窓会幹事をしなさい」

 え? と驚くわたしと宗田に先生が続ける。

「そのときは、わたしも招いてね」

「わかりました。俺と朝倉で幹事をします」

「はい、します」

 勢いよく頷くわたしを見る先生の眼鏡の奥の瞳がきらりと光った。

「頑張って、朝倉さん」

「えっ? うー。……はい」

 これはバレている。わたしは悟った。

 そんなわたしの顔を見て、先生はまるで秘密を共有する悪友のような顔で笑った。

 先生に気持ちがバレたのは少し恥ずかしいけど、そのおかげで卒業後も宗田と連絡が取れる理由ができた。

 嬉しかった。










 ドリンクを受け取りカフェを出る。

 ひときわ強い風が吹く。

 桜の花がひらひらと、あの日の紙吹雪のように散っていく。


 あのあと、わたしは宗田に振られてしまい、でも、高校在学中はなんとか友達のポジションで乗り切った。

 大学は別々になったけれど、それでも彼がエントリーした大会は観に行った。

 けれど、それも止めて。


 そんなことからもう何年か過ぎて、宗田への想いも封印できているはずなんだけれど。

 普段は、彼のことなんか、ちっとも思い出さないのに。


 それでもやっぱり、ほんの小さなスイッチで、彼の笑顔や言葉や仕草の一つ一つが、鮮やかに蘇ってしまうのだ。


 好きな気持ちって、どこから生まれてどこに消えていくんだろう。

 目に見えない想いに、これほど力があるなんて、宗田を好きになるまで想像すらしなかった。




 ――「頑張って、朝倉さん」

 先生の声が桜の花びらにのって聞こえる。





 わたしはその声をかき消すように、桜の舞う道を歩き始めた。

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