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「マーガレットの花咲く庭で……。いや、丘だったかな?」

 ハイウェイを走っている間、頭の中でずっと誰かがささやく声が聞こえていた。何回か道を間違えたり、見当違いのところでハイウェイを降りたりしてしまった。ちょっとした小旅行のはずが、現地に着く頃にはすっかり日が傾いていた。

 ハイウェイを降りてしばらく走った。新聞に載っていたマーガレットの花畑が、目前に迫っていた。

 車を停めるのももどかしく、白線をだいぶはみ出して駐車する。転がり出るように車を降りる。歩きづらいパンプスが、アスファルトを過ぎて柔らかい土を踏む。夕方の冷気を帯びた風が、むき出しの首に触れる。呼吸をするのを忘れていた肺が、フッと花の香りがする空気を吸い込む。

 顔を上げる。

「……綺麗」

 日没寸前の夕日が、花畑を黄金に染めていた。

 白、黄色、それからオレンジ。三色が点々と混ざったマーガレットの花々が、なだらかな丘を覆っている。風が左から右に駆け抜けていくたびに、マーガレットの花たちが、波のように一斉にそよいで揺れていく。白、黄色、それからオレンジ。それらを上塗りしていく、日没寸前の赤い太陽。光の中にいるみたいだった。

 光の海の中で、その人影はこちらに背を向けて、自分と同じようにマーガレットの花畑を眺めていた。逆光で顔はよく分からないけれど、女性で、背は高くて、歳は自分と同じか少し上くらいだろうと思った。

 逆光の女性が、こちらを振り返った。

 影の口元が、ほんの少しだけ微笑んだ気がした。

「……」

 何も知らない。

 何も覚えていない。

 でもその人と目が合って、優しく微笑みかけられた瞬間、何かが壊れる音がした。心の奥底で、自分をぐるぐると縛りつけていた鎖のひとつが、壊れた気がした。

 気づいた時にはもう、視界が潤んでいた。

「……どうしたの?」

 その人はゆったりとした足取りで、こちらに近づいてくる。彼女が一歩、また一歩と近づいてくるたびに、心の奥底から誰かの声が湧き上がってくる。マーガレットの花咲く丘で、優しいキスをして。そうすれば、きっと全てを思い出せる。

 何を?

 自分は一体、何を忘れているというのだろう? 

「……大丈夫?」

 その人の手が柔らかく髪の毛を撫でてくれる。まるで親しい少女同士の振る舞い。自分はもう三十路で、しかも相手は見ず知らずの人だというのに。

「ごめんなさい」

 顔が熱かったのは、太陽のせいだけではない。

「すみません、急に泣き出したりして。……なんだか、ものすごく、その……。懐かしい気がして」

 何を言っているんだろうコイツ、と思われたかもしれない。夕日が少しずつ西に傾き、群青色に染まり始める花畑の中、ようやくその人の顔がはっきりと見えた。

 その人の顔は知らない。

 でも見つめていると、やっぱり不思議と涙が出てくる。

「……分かる」

「え?」

「懐かしい感じ。……私も、そんな気がするの。

 なんだか、忘れちゃいけないことがあったはずなんだけど……。でも、それを思い出せなくて……。ここにいると、その記憶に近づけるような気がして」

 顔だけではない。声だって聞いたことはないはずなのに。それでも知っている。心の奥深くから泉のように湧き出てくる、切なさと優しさと温かさ。 

「あなた、名前は?」

「フローラ」

「そう、フローラ」

 その人はフローラの名前を、美味しいあめ玉でも転がすように、口の中で繰り返す。

「私はオリガ」

「オリガ……」

 知らない名前。そんなことはない。いいや、知らない。でも知っている。自分の名前を呼ばれた時と同じだけの温もりが、その人の名前を口にするたびに胸の中にあふれ出してくる。自分を縛りつけていた鎖の輪が、一個、また一個と音を立てて壊れていく。

「私の家、近所なんだけれど……。よかったら寄っていかない? 大したおもてなしはできないけれど、お茶くらいなら出せるわ」

 そう、お茶。初めて会ったはずなのに、彼女が何を飲むのか手に取るように分かる。自分が砂糖とミルクを山のように入れるのを見て呆れながら、きっと紅茶にレモンを浮かべるはずだ。そしてもうひとりいたはずの、顔も覚えていない誰かさんは、何も入れずにストレートで飲むのだろう。シナモンを大量に入れたイライザ先生を見て笑いながら。白い傷跡の残る左手で、ティースプーンをくるくるかき回しながら。

 自分の知らない記憶が胸の奥底から次から次へと湧き出てきて、ボロボロとこぼれ落ちていく。オシャレな街の公園で大泣きした夜が、冷酷な女性博士の声と、優しい男の子の笑顔が、

 土砂降りの雨が、万引きしたパンが、危険なヒッチハイクが、ピアノの音が、飛び乗った貨物列車の振動が、森の中へと小さくなっていく、孤児院の温かな光が、

 何も知らない。何も覚えていない。何も覚えていない、白い靄のかかった記憶の中で、ただ唯一、はっきりとした記憶がある。あの時、自分は必死だった。必死に、自らの運命に抗おうとしたはずなのだ。

 その運命が何だったのか、それは分からない。

 でもそんな自分の隣には、いつだって、誰かがいたはずなのだ。

「……オリガ」

 今、会ったばかりのはずなのに。とても親しい友人を呼ぶような優しい想いが、心の中に満ちていく。


 天気は快晴。五月の丘で、おまけに今日は日曜日。

 マーガレットの花咲く世界で、フローラは確かに、自分の中にいるもうひとりの誰かの声を聞いた。                                 

                                     【完】

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マーガレットの咲かない日曜日 山南こはる @kuonkazami

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