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 二〇二三年二月十九日 日曜日

『わたし』が目覚めてから、先週でちょうど半年になった。

 秋に退院してから、まだまだ追いついていない部分はたくさんあるけれど、この頃ようやく、新しい生活にも慣れてきた。だから今日は、今のわたし自身についてでもまとめてみようかと思う。

 十五年前。

 このわたし、フローラことフローレンスを襲った交通事故は悲惨なもので、でもわたしはその日のことをほとんど何も覚えていない。目が覚めた時、父も母も姉も十五歳分、歳を取っていて、でもわたしは十五歳の体のまま、ベッドに横になっていた。

 眠っていた時のこと。

 何も覚えていない。

 夢を見ていた気がする。森の奥深くにある、小さな孤児院の夢。そこに暮らしいている、たくさんの女の子たちの笑顔。その子たち一人ひとりをわたしはもちろん知らないのだけれど、でも彼女たちはわたしのことをみんな親しげに、フローラ、フローラと呼ぶ。その声を思い出すと、心の中がポッと温かくなる。知らない建物に暮らす、知らない女の子たち。この子たちのことを思い出したいのだけれど、いくら考えてもちっとも思い出せない。

 明日は姉の家に遊びに行く。ハイスクールに編入するための書類を書くのだ。だから早く寝る。日記、もう終わり。

 今日も夢の中で、あの子たちに会えるといいな。


 二〇二三年二月二十日 月曜日

 今日は姉の家に遊びに行った。姉とは三つしか違わなかったはずなのに、目覚めた世界での彼女は、わたしよりも十五歳分先に進んでしまっていて、今では十八歳も離れている。母親でもおかしくない年齢。姉はずいぶん太った。記憶にある姿よりも三十キロくらい太ったのではないかと思う。

 そんな三十キロも太ってしまった姉だけれど、面倒見がいいのは何も変わっていなかった。午後、おやつの時間に行くと、彼女は紅茶を淹れてわたしの些事に付き合ってくれた。

 ハイスクールの編入。十五年遅れの学生生活。そのための書類。紙の上に、ボールペンを滑らせていく。氏名、住所、電話番号。それからもちろん社会保障番号も。桁の多い数字がうろ覚えで、スマートフォンを開いて調べる。

「……」

 数字を書く右手が、いつのまにか止まっていた。

 何だろう。この感じ。

 住所も電話番号も社会保障番号も、誰しもが当たり前に持っているはずなのに、それを持っていることがたまらなく嬉しく感じる。あの森の中の孤児院の、あの女の子たちの夢を見た時と同じくらい心の底が温かくなって、同時に切なくなってくる。

 書いたばかりのボールペンのインクの上に、ぼたぼたと水滴が落ちてシミを作る。

 涙。

「……」

 何で?

 何でこんなにも、嬉しくて温かくて、悲しいのだろう。

「フローラ? あなた、なんで泣いているの?」

 姉が紅茶の上で、小さなびんを振っている。姉の手が動くたびに、パッパッと茶色の粉が水面に落ちて、独特な芳香が鼻腔へと広がっていく。この香りを知っている。シナモンの匂い。薄靄のかかった記憶。真冬の食堂で、紅茶やスープの湯気の向こうから漂う、とんでもない量のシナモンの香り。

 あの人は味覚障害なんじゃない? と、誰かが笑った。

「……イライザ先生」

 誰だろう、それ。イライザなんて名前、身の回りにはひとりもいないはずなのに。

「……フローラ?」

 姉は怪訝そうな顔をしてこちらを見つめる。自分自身、自分でも何を言っているのか分からない。でもシナモンの匂いといえば、それはイライザ先生の匂いなのだ。涙が止まらない。イライザ先生は味覚障害なんじゃないかしら? 頭の中で、誰かが笑って言っているけれど、それが誰なのかも、やっぱり分からない。

 涙でべちょべちょになった書類をくしゃくしゃに丸め、ティッシュで鼻をかむ。予備の書類を取り出して、また新しく書き始める。氏名、住所、電話番号、社会保障番号。やっぱり途中からまた涙が出てきて、そのたびに作業を中断するわたしのことを、姉は悲しそうに見つめている。

「フローラ。……思い出さなくていいのよ」

 それはあなたが思い出さなくていい記憶。あなたが気にしなくていい記憶。あなたにはいらない記憶。

 あなたには、あなたには。

 あなたには。


 帰り道、近所のお屋敷の前を通ると、庭師が丹念に生垣の手入れをしていた。

 こんなお屋敷をどこかで見たことがある。映画の中の話なのだろうけど、どの映画だったのかは分からない。だって映画はたくさん観ているから。眠っている間も、たくさん観ていた気がするから。

「……」

 眠っている間。

 レンガの畳を見つめながら歩く。考える。自分は十五年も眠っていた。その間、どんな治療を受けていたのか。何も知らない。父に訊いても母に訊いても、誰に訊いても答えは同じ。「お前は知らなくていい」の一点張りだ。

 何も知らなくていい。

 それではダメだ。

 そう思っているのは自分かもしれないし、そうでないのかもしれない。それではダメだと叫んでいるのは、ある男の子だ。自分と同い年くらいの、知らない男の子。

 彼の叫び声を聞くたびに、このままではダメな気がするのだ。誰かと何かを約束した気がした。とても大事なこと。何よりも大切なはずのこと。でも、どこで誰と何を約束したのか、何も覚えていない。


     ※


 リハビリと称して、街中を歩き回った。十五年分の埋め合わせと称して、色々な所に連れて行ってもらった。事故で損傷した体を捨て、新しい肉体を手に入れたフローラは、十五年遅れた人生を巻き返すように過ごしていった。

 幸福な生活、笑顔の日々。誰かと交わしたはずの約束も、森の中の孤児院に暮らす女の子たちのことも、結局、何ひとつ思い出すことはできないままだった。

 忙しくなる日々。失われた記憶を探し求める暇はなくなり、いつの間にか五年が過ぎて十年が過ぎて、そして十五年が過ぎた。フローラは三十歳になった。かつての同級生たちは四十五歳、姉は四十八歳になっている。

 この頃、眠っていた時のことを思い出す機会はほとんどない。


      ※


 今年、十歳になる洗濯機はまだまだ現役だけれど、すすぎと脱水の時の音が異常に大きい。そのくせして全ての行程が終わった後の電子音が鳴らない。脱水が始まる。異様な音が部屋に響く。フローラはそんな長い付き合いの洗濯機を、まだ解雇できないでいる。

「……」

 古いものは、嫌いではない。

 新聞、という媒体がある。

 カサカサした紙に印字された、活字による情報メディアだ。フローラが事故に遭うまでは一般的な媒体だったけれど、眠っていた間の十五年間に科学技術はずいぶん進歩した。目覚めてからさらに十五年。技術の発展は止まる所を知らない。もう今では高齢者くらいしか読む人がいないだろうその紙媒体を、フローラは好んで購読している。

 温かい紅茶に、たっぷりの砂糖とミルク。ジャムを塗ったトースト。狭いキッチンのテーブルで新聞を読みながら食べる朝食が、ここ最近のフローラの楽しみだ。

 洗濯機。異様な音と異様な揺れ。洗濯機だけでなく部屋全体が揺れ、テーブルも、その上にある食器の類も、合わせてタップダンスを踊る。ミルクティーの水面にさざなみが立つ。砂糖とミルクをどれだけたくさん入れても、目くじらを立てる人はいない。

 音と振動が唐突にプツンと切れたかと思うと、今度はすすぎのための水がじゃばじゃばと流れる音がする。レースのカーテンの向こうから、昼に近い朝日が白々しく室内を照らしていて、すごく眩しい。

 手に付いたジャムを行儀悪く舐めて新聞紙をめくる。文章を読むのは好きだ。書くのも好きだ。だって子どものころの夢は小説家だったのだから。その夢をいつ抱いたのか、それはもう、覚えてはいないけれど。

 文章を追っていた目が、やがて新聞の中ほどでピタリと止まった。

 観光地を紹介する記事。色がくすんで小さくて、観光地の魅力がちっとも伝わってこない写真。青い空の下に広がる花畑。

 じっくりと記事を読む。ふたたび脱水が始まった洗濯機の音も、外の眩しい光も、何も気にならなくなっていく。文章の世界に溺れる。観光地、咲き乱れる、花畑。

 その花の名前から、どうしても目が離せなくなる。

「……マーガレット」

 ものすごく身近な名前。

 今この瞬間まで、そんな花の名前なんて、考えもしなかったのに。

 マーガレット。

 もちろん名前は知っている。でもその花がどんな形をして、どんな色をしているのか。どんな匂いがするのか、花言葉は何なのか。そういったことは何も知らない。

 いつもはスマートフォンでひと通り調べれば満足するけれど、この時ばかりはそうではなかった。その花を間近で見てみたいと、強く感じた。

「……行ってみよう」

 どうせ、することはないし。

 手についたジャムを舐める。膝にこぼしたパンくずを床に払う。新聞を畳んでカバンに入れる。スマートフォンを投げ込む。

 紹介されていた花畑までは決して近い距離ではない。思い立って出かけるには少々遠いけれど、明日も休みだ。少しくらい、帰るのが遅くなってもいいと思う。たまには、花を見に行く休暇もいい。

 フローラは家を出た。

 洗濯機の中身を、干してくるのを忘れた。

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