エピローグ

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 その夜、迎えに来たイライザ先生の車でふたりは孤児院に連れ戻された。夜のハイウェイを走るイライザ先生の運転はとても上手で、自分たちがしていた『運転』は、ただ車を走らせているだけだったのだと思い知った。

 自分、オリガ、そしてイライザ先生。先生は旅のことを深くは聞かなかったし、自分たちも多くは語らなかった。

「……怪我はない?」

 ハイウェイを走る最中、ものすごい速度で外の景色が通り過ぎて行く。

「……はい」

 運転中の先生は前を向いたままだ。でもフロントガラスに安堵したような緩やかな笑みが白く映り、

「なら、いいわ。……無事でよかった」

 あなたたちの体が『器』が無事でよかった。

 先生が言っているのは多分そういうことなのだろう。それが先生の仕事だから。先生もまた『器』に移植されることで生きながらえた『人格』のひとりなのだから。

 でも、

「……ふたりとも、愛してる」

 たとえ全てを消される未来が待っていたとしても、あなたという人間を愛している。

「……先生はわたしたちが脱走しようとしてたの、気づいていましたよね?」

 でも見逃してくれた。その結果がどれだけ悲惨なものだったとしても、先生は自分たちに、自分の意思で行動するチャンスを与えてくれたのだ。

 先生はウィンカーを出し、車を徐々に車線から出して行く。九時過ぎのサービスエリアは煌々と光が輝いていて、涙まじりの目にはまるで、宝石箱の中身を見ているみたいに眩しく感じた。

「さ、ご飯にしましょ」

 好きなものを食べて、好きなものを飲んで。小さなキーホルダーくらいなら、好きなものを買ってあげる――

 ふたりにとって、それは最後の『自由』だった。

 自分たちは運命に敗北した。それでもこの抵抗が無駄でなかったことを、信じずにはいられない。



 その後、ふたりはグリーンヒル女子孤児院に連れ帰られた。小さな建物には笑顔と明るさが満ち満ちていて、時おりヒヤッとするような、マヌエラ先生のお小言が降って湧いてくる。

 懐かしい孤児院。懐かしい生活。まだここを脱走してからひと月も経っていないというのに、かつて自分もここで元気に笑って生活していたことが、にわかに信じがたい。

 フローラもオリガも別人みたいになって帰ってきて、そして無気力なまま『余生』を過ごした。ダフネにキャスケットを返し、シャツのボタンを付け替えてもらった。その姿を隣で見ていると、どうしようもなく涙が出てきて止まらなくなる。

「ふ、フローラ? どうしたの?」

「……なんでもない」

 お金を投げ入れてもらったキャスケット。押し倒された時に弾け飛んだ、シャツのボタン。

 ダフネはブツブツ言いながら、針を布地に刺していく。大体あんたたちどこ行っていたのよ急に飛び出していって全くっていうか約束したじゃないあんた帰ってきたら外の世界の話聞かせてくれるって言ったでしょちょっと待ってそんなに泣いているってことは外の世界ってそんなに辛いところなの嫌だわ私そんな話聞いてないってば――

「ダフネ」

 フローラが呼ぶと、ダフネはぴたりと黙った。

「どしたの?」

「……ダフネはわたしのこと、忘れないよね?」

 忘れないよね?

 その言葉の重みを、ダフネはまだ理解していないだろう。彼女が真実を聞かされるのは年が明けてからだ。自分たちの人格が消される運命を知った時、その時初めてダフネは、この問いかけの意味を理解するのだ。

 案の定、ダフネは首をかしげた。そして泣いているフローラを見て困ったように笑う。

「やあね。そんなの、忘れるわけないじゃない」

 そう、フローラもそう思っていた。それはオリガも同じだし、ペギーだって同じだったはずなのだ。でもペギーはマーガレットになっていて、自分たちのことなんか、これっぽっちも覚えてはいてくれなかった。


 そして、


      ※


 二〇二一年十二月二十六日 日曜日。

 運命のその日、フローラがどれだけ訪れないことを願ったその日。窓から冬の柔らかな光が差し込んできて、床が飴色に輝いている孤児院の広間で、フローラはオリガを抱きしめた。

 つぶれたマーガレットの花束から、数枚の花びらが陽だまりの中に落ちていく。

「ねえ、オリガ」

 無言。花束越しに、彼女の心臓の音が聞こえる。温かい。生きている。フローラが大好きな、オリガの鼓動。

「……マーガレットの花言葉、知ってる?」

 マーガレット。

 あの庭に決して咲くことがなかった、自分たちふたりにとって何よりも大切だった、あの花。

「……知らない」

「……『わたしを忘れないで』だよ」

 忘れないで。

 なんて悲しい運命なのだろう。

 あの手入れされた小さな庭園にマーガレットは咲かず、そしてあの日は日曜日だったはずで、もちろん今日も日曜日。クリスマスの後の日曜日は暖かくて優しくて平和で、どこまでもどこまでも残酷だった。

「オリガ」

 抱きしめたオリガの体から、ふんわりと立ち上るレモンの香り。オリガが付けるのを強要された香り。目の前のオリガではなく、どこか遠くで待つオリガばあさんのための、レモンの香り。たとえそれが彼女にとって不本意だったとしても、この香りのするオリガのことが大好きだった。

 誰よりも誰よりも、大好きだった。

「オリガ、今度はわたしが――」

 この匂いを忘れてはなるか、と思う。

 この今の気持ちを、誰にも奪われてなるものか、と思う。

 フローラは誰にも聞こえないように、声をひそめた。最愛の親友のささやきが、オリガの髪を揺らす。

「今度はわたしが、あなたのことを忘れない」

「フローラ……」

「何があっても、決して、絶対忘れない。そして今度はわたしが、オリガを探しに行く」

 たとえそこに、どれだけ絶望的な結果が待ち受けていたとしても。

 マーガレットの花びらが、ひらひらと床へ散っていく。

「オリガ。もう一度、あなたにめぐり合った時、わたしはあなたに優しいキスをするわ。……マーガレットの花咲く丘で、あなたのほっぺに、きっと、優しいキスをする。……だから、大丈夫。大丈夫なのよ」

 それはオリガへ向けた言葉であって、そうではなかった。他でもないフローラ自身がその言葉を自分の胸に刻み込む。

「……たとえ」

 卒業する間際、ペギーがささやいた言葉が何であったか、フローラはようやく気がついた。

「たとえ全てが失われたとしても、わたしたちの魂は永遠よ」

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