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 嵐のような客人たちだった。

 フローラとオリガが帰った後、マーガレットはぐったりと体をソファーに沈めた。残っていたミルクティーをすする。ぬるくなったカップの中身は、紅茶ではなく、ただの白い砂糖水だった。

 重い腰を上げる。砂糖水を流しに捨てて、スマートフォン手に取った。右手の親指、指紋認証。指紋の認識が三回もできなくて、最終的には六桁の暗証番号を入力する。

 電話をかけながらテーブルの上を見る。飲み残しの紅茶のカップがふたつと、手の付けられていないお菓子の乗ったトレイ。先ほどから頭の中で誰かの声が聞こえるような気がする。たかだか脱走したクローン人間たちを出迎えるだけで、どうしてこんなに疲れてしまうのか分からない。

 コール音にずいぶん待たされて、電話の相手はようやく出た。

『もしもし?』

「……遅いわ」

 この電話の相手には、どんなことだって言える。だが電話の相手は、どんなことにだって口答えをしてくる。

『仕方ないでしょう? 手が離せなかったんだから』

 かわいくない人間だ、とマーガレットは思う。

「……訪ねてきたわよ。ふたりとも」

『そうですか。で、なんと?』

 テーブルの上に残されたカップふたつを見やりながら、

「現実を突きつけてあげたわよ。ふたりとも消沈して出て行ったわ」

 ふたりとも。フローラとオリガ。何でだろう。あのふたりの名前を、顔を思い浮かべるたびに、心臓が不正脈を刻んだ時のように痛む。この体はまだ若いはずなのに。まだ健康なはずなのに。

「発信機はどうなっていたの?」

 あの子たちには発信機が付けられている。厳密に言えば、あの子たちの履いている右の靴の底に仕掛けられている。

 電話の相手は、さも悪びれる様子もなく、

『作動していましたよ。もちろん靴だって、新しいものを買ったりしていなかった。……博士、私たちは、いつだってあの子たちを捕まえることができました。行き先だって、見当がついていましたしね。現に今、私はあなたの家のすぐそばにいます』

「じゃあなんで、泳がせるようなマネを?」

 あの子たちがいなくなったと聞いて、どれほど気を揉んだかしれない。

『決まっていますよ。私の意思です』

 小銭のような音がじゃらじゃらと響いて、その後、ガコンという何かが落ちるような音がする。自動販売機で何か買っているのだろう。プルトップを開ける音が電話口まで聞こえてくる。

 飲み物をひと口飲み終えるだけの、空白。

『分かってほしかったからです』

 何を?

『フローラとオリガ……。あのふたりに、いいえ、あの子たちだけではない。あの孤児院で育てられている全てのクローンの子どもたちに、消されてはならない尊い『人格』があることを……。証明したかったからです』

 消されてはならない、尊い『人格』。『記憶』。そして『心』。

 証明。一体、誰を相手に?

 電話口の相手の声は冷え切っている。その声にぞくりとしながらも、こちらも威厳を崩さないように、

「私はこの『器』のことを『マーガレット』と呼ばせるようにと、そう言ったはずですよ?」

 あの子たちは、この体を『ペギー』と呼んだ。

 電話口で、相手が首を振る気配がして、

『ええ、聞きましたよ。忘れていません。でもあの子はペギーです。他でもないあの子自身が、そう呼ばれることを望んだから』

 マーガレットでもメグでもマギーでもない、ペギー。

 幼少時の自分が、他人から『マーガレット』と呼ばれることを望んだように。

「……寒気がしたのよ」

 自分の声が、まるで自分のものでないように震える。

「……あの子たちに『ペギー』って呼ばれた時、本当に寒気がしたのよ。気持ち悪い、って……。自分が『ペギー』と呼ばれることにも、クローン人間のあの子たちのことも、どっちも気持ち悪いって、心の底からそう思った」

 震えを止めるために、自分の肩を抱きしめる。そして口の端から自嘲の色を垂れ流して、

「……でも、変な話よね。あの子たちと会話しながらお茶を飲んでいると、どこからかしら? ギターの音が聞こえてくるの」

 電話の相手はこちらの言葉の、全てを聞き逃すまいと、沈黙の中で耳を皿にして待っている。

「……それで、なんだかすごく懐かしい気がして、勝手に涙が出てくるのよ。……おかしな話だと思わない? 私はあのクローンたちのことなんて、これっぽっちも知らないのに」

 オリガ、並びにフローラことフローレンス。自分はあの子たちのことを何も知らないのに。あの子たちのオリジナルのプロフィールは熟知しているのに、あの子たち個人のことは何ひとつ知らないのに。

 取るに足らないもののはずなのに。あの子たちはクローンで器で人権がなくて、人格を消されることを前提に生み出されたというのに。

「……ねぇ、エリザベス」

 電話の向こうから、返事は聞こえない。

「私は一体誰なのかしら? ……私の研究は、完璧ではないのかしら?」

 頭の中で誰かの声がする。白や黄色のマーガレットが咲き乱れる丘の上で、誰かが自分を待っている。

 電話の向こうで、相手が飲みものを飲む音が聞こえた。

「……分かっていたのよ」

 独白。

 自分の内側から、まるで自分のものではないような声が、震えたまま過去を紡ぎ出していく。

「最初の人体実験の時……。あなたの人格を、あの娘に移植した時、あなたは確かに、人格も記憶も引き継いだ。なのに、目覚めたあなたはあなたであって、あなたではなかった」

 謎かけ。マーガレット自身、頭の中で記憶がこんがらがって、何を言っているのか分からなくなってくる。そんなわけの分からない言葉の羅列を、かつて最初の実験台だった電話の相手は、相づちすら打たずに沈黙している。

「トーストに大嫌いだったシナモンをたっぷりかけていたあなたを、苦手だったスポーツを、生き生きとやり始めたあなたを見て……。気づいていた。気づいていたけれど、無視したわ。だって」

『……だって?』

「私はどんな手を使っても、誰かを犠牲にしても、あなたに生きていて欲しかったから」

 あの日のことが、ふたを突き破って勝手に流れ出てくる。顔も姿も変わった娘を、空っぽになった娘の死体の前で、強く抱きしめたあの日。

 その娘の声は、赤の他人のそれより冷たい。

『病気の娘を救うための技術は、いつしか、金持ちの老人たちの延命へとすり替わった……。あなたは他人のためではなく、ましてや娘である私のためでもなく、ただ自分のために、その技術を使いました』

 娘を失いたくないエゴのために。自分の開発した技術の正しさを、証明するために。

「私を責めているの? ……そうまでして、生きていたくはなかった、と?」

 知らない他人を犠牲にして。誰かの人格を殺して体を譲り受けてまで、生きていたくはなかった、と。

 電話の向こうで、相手が首を振る気配がする。

『そうは言っていませんよ。……そうまでして、私を生かそうとしてくれたこと、そのこと自体には感謝しています。……ただね』

 電話の相手は、言葉を切った。

『どうか、これだけは覚えておいてください。あなたのために、ペギーというひとりの女の子が……。あなたとは違う、もうひとりの『マーガレット』が犠牲になったのです。あなたとは違って、左利きで、ピアノは弾けないけれど、ギターは上手くて』

 頭の中で、誰かが笑う声がする。

「やめて……」

 そう呟いても、電話口の声は語るのをやめない。

『紅茶はストレート派で、ユーモラスで皮肉屋で……。誰よりも友人想いだったペギーという女の子が、あなたのために犠牲になったのです』

 ペギー。

 ペギー。

 ペギー。

 そう呼ばれるたびに、頭の芯が熱くなってぼーっとする。知らない女の子の笑い声が、脳裏から本物の音となって耳に届いてくる。女の子は自分の声で笑っている。ペギー、ペギー、ペギー! 誰かにそう呼ばれるたびに、自分と同じ声が、笑いながら返事をしてどこかに走って行く。

「……ああ」

 一体自分は、何を思い出そうとしているのだろう。

 マーガレットはがっくりとソファーにうなだれた。スマートフォンが手から滑り落ちそうになる。

「私は、研究者失格ね」

 自分の研究が、技術が完璧なものでなかったと、自分の身をもって証明してしまったのだから。

『いいえ』

 電話の向こうの声、冷たさはいくらか和らいだ。本来の彼女の声、雲の隙間からのぞく太陽のような温かな声が、耳にそっと触れる。

『あなたは科学者としては優秀でした。あなたが失敗したのは科学者としてではなく、人間として、ですよ』

 クローン人間たちを、ハツカネズミと同じように扱ったこと。彼女たち一人ひとりが、オリジナルと違う『個』を持った存在だということ。それを認めなかったこと。それがマーガレット・リッケンバッカーの、人間としての落ち度。

「……あなたは手厳しいわね。エリザベス」

 マーガレットは愛する娘の名を呼んだ。記憶の中でふたりの少女の顔が交錯して、やがてひとりの人間になっていく。

 ひとりは、元々の『娘』の顔をしていた。もうひとりは、スラム街で買った売春婦の顔をしていた。

 ややあってから、マーガレットが初めて手がけた被検体はこう言った。

「私のことは『イライザ』と呼んでくださいと、言っているでしょう。お母さん

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