(4/5)

 そのままふたり、マーガレットの宅を出るなり闇夜を走った。

 どこをどう走ったかなんて覚えていない。ただ覚えているのは、息の苦しさと激しい心臓の鼓動と、それから自分たちクローン人間を『研究用のハツカネズミと同じだ』と言い切った、あのマーガレットの顔だけだった。

「はぁ……、はぁ……」

 街灯が煌々と明るい公園。ふたりは息を切らして立ち止まった。オールテアの夜は静かで、もう真夜中のような気がしていたけれど、実際はまだ夜の七時過ぎだった。

 自分より数歩先で立ち止まったオリガの背中を見つめる。暗闇の中、肩が、声が、切り落とされた髪の端っこが、揺れていた。

 そんなオリガに、フローラはかける言葉を持っていなかった。ペギーは全てを忘れてしまっていた。ペギーが残していった願いを叶えられなかった。

 暗闇を背負いながら、オリガはゆっくりとこちらを振り返った。現実を受け入れられない瞳が、たくさんの涙を湛えながら、

「……マーガレットが、なかった」

「え?」

「マーガレットが、なかったもの……。ペギーは手紙にこう書いていたじゃない。『マーガレットの花咲く丘で、優しいキスをして』って……。そうすれば、ペギーは全てを思い出してくれるって、そう書いてあった」

 街灯の光に、二羽の蛾が止まって薄い羽を休めている。そのすぐそばを、もう一羽の蛾がふらふらと飛びながら、光の中をさまよっている。

 確かにあの庭に、あの家に、マーガレットはなかった。

『マーガレットの花咲く庭で』と、ペギーは間違いなく、手紙にそう書いていた。

 オリガの切れ切れな声が、フローラの耳に静かな悲鳴となって響く。

「だから、条件が、悪かったんだよ……。春になって、マーガレットが咲き始めたら、また行くんだ。そうすれば……。きっと、ペギーは」

 悲痛な泣き声を漏らすオリガを見て、フローラは目を伏せる。そして思う。あの整えられた小綺麗な庭に、春になってもマーガレットが咲くことはないのだろう。優しいキスはおろか、オリガが抱きついた時のペギーの、――マーガレットの顔には、ハッキリとした拒絶の色が浮かんでいた。

 地面にしゃがみ込み、現実を拒絶するオリガ。フローラは手を差し伸べる。

「……あの人は、ペギーだった」

 絶望の顔によぎる、一瞬の希望の光。しかし、フローラはすぐに首を振り、

「……でも、ペギーじゃない」

 認められないのは自分も同じだ。

 自分たちの運命を認められなかった。受け入れられなかった。納得できなかった。でも、今は違う。ペギーの中にいるマーガレット。現実という刃物を突きつけられた今、自分たちはもう『人格の抹消』という運命から逃れられなかった。

「わたしたちの知っているペギーは、紅茶にあんな量の砂糖なんて入れなかった。あんな冷たい顔なんかしなかったし、自分のことだって『私』なんて、丁寧な言い方しなかった。それだけじゃない」

 認めたくなかったのに。受け入れたくなかったのに。納得できないまま、それでも諦めるために、フローラは自分自身を理屈で殺していく。

「……あのペギーは、どう見ても右利きだった。ハサミだってスプーンだって、みんな右手で持っていた。わたしたちの知っているペギーは左利き。だからあの人はペギーじゃない。……あの人の中身は、わたしたちの知っているペギーじゃない」

 尻すぼみになっていくフローラの声。でもオリガの心はまだ、現実を諦めていない。

「じゃ、じゃあ、きっと別人だよ……。そう、別人に違いない! それなら、私のことだって思い出せなくて当然――」

「いいや、あれはペギーだよ。少なくとも体の方は」

「なんで、なんでそんな」

「左手の甲、傷があった。……あれはペギーが、わたしのためにつけた傷。わたしが木から落ちた時に、助けてくれた時の傷」

 現実は今度こそオリガの心を叩きつぶす。その悲鳴に自分自身の感情も抉られながら、フローラは彼女の背中を優しく抱きしめた。

 オリガの涙に震える体を抱きしめながら、マーガレット博士の顔を思い浮かべる。心の底から沸き上がってくるのは、悲しい絶望ではなく激しい怒りだった。クローン人間はハツカネズミと同じだと言い切った時の、吐き捨てるような表情が憎くてやるせない。

「……オリガ。ごめんね」

 誰かに恋をして、誰かを救いたいと願って、そして誰かのために行動する。そんなオリガが、あるいは自分たちが、ただの研究用のハツカネズミと同じだなんて、そんなこと、あっていいはずがない。

 どこからともなく秋の虫の鳴き声が聞こえてきて、夜の空気が覆い尽くしていく。街灯の蛾はもう一匹もいなくなっていて、寂しい光が暗闇を小さく照らしている。空に浮かぶ月が腹立たしい。空に散りばめられた満天の光が、自分たちをあざ笑うようにきらめいている。

 オリガの泣き声を聞きながら、気づいたら自分も泣いていた。

 ハツカネズミは多分、こんな風に涙を流したりはしないはずだ。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る